ようこそ、乾研究室へ!
結城 刹那
第1話
5月11日
閑散とした研究室で黙々とデータをPCへと打ち込んでいく。
流れるキーボード音が妙な心地よさを与えてくれる。
よし、こんなところか。
PCの前で収集したデータを並べる作業を一段落終えたところで軽い背伸びをした。
時間を見るとすでに二時間近く経っていた。通りで腰が痛くなるわけだ。
収集したデータをクリックし、グラフ化を試みる。
タイトルは『言葉による人間の感情変化』。
どのような言葉をかけると人間の感情が変化されやすいのかと言う研究だ。大学内にいた学生を無作為に100人ほど捕まえて実験を行ったものをこうしてグラフ化している。 100人という母数であるが、内容的には濃いモノである。
まず、言葉の種類。ポジティブな言葉、ネガティブな言葉を三種類ずつ。
それから、その言葉を誰に言われるのか。知り合いなのか、性別は何か、年齢はどうか。 また、対象者の性別や年齢も比較には欠かせないモノだ。
グラフが表示されると、色々興味深い配置を示していた。これは考察しがいがあるかもしれないな。
だが、長時間の着座は身体にあまり良くない。席を立ち、他の学生が何をしているのかチラ見する。
標的となったのは、隣の席にいた千賀美 蓮香(せんがみ れんか)だ。
黒髪ロングヘアに相手を寄せ付けない鋭い瞳が特徴的で俺よりも一つ年下の大学4年生だ。
彼女は真剣な表情で画面を覗いていた。その内容を邪魔しないように横目で覗く。
内容は『人間の発光』についてのモノだった。なかなか興味深いのを見てるな。
「どうしたんですか?」
すると、千賀美が椅子をこちらへ向けて俺の方に冷たい視線を送る。どうやらお邪魔になってしまっていたらしい。
「いや、千賀美が何調べてるのかと気になってな。面白そうじゃないか。その人間発光についての内容」
「っ……」
千賀美は俺の言葉が意外だったのか口をぽかんと開けてこちらを覗いた。
「どうしたんだ?」
「いえ、先輩が褒めてくれるなんて思ってもみなかったので」
「何言ってるんだ。俺がいつもけなすような人間に見えてたのか」
「はい」
どうやら、そう見えてしまっていたらしい。結構ショックだな。
「そんなことないと思うんだがな。ただ単に千賀美の研究が浅かっただけじゃないか?」
「ほら、今けなしたじゃないですか」
「……」
揚げ足を取るのがうまいことだ。自分でも納得してしまった。
「でも、その研究内容に関しては俺も知りたいと思うな。人間の感情と人間の発光を結びつけるのは面白い発想だと思う」
「そう……ですか。良かったです」
千賀美は照れながらも視線をPCの方へと移行させていく。
今の『よかった』という言葉結構グッときたな。シチュエーションという面も考えておく必要があるかもしれないな。
「何しているの?」
二人で話していると別の席にいた学生がこちらへと声をかけてくる。
真藤 久友(しんどう くゆう)。茶色がかった髪にまん丸で穏やかな瞳は誰に対しても落ち着きや安らぎを与えてくれる。
俺と同じ修士課程一年でこの研究室の仲間だ。彼女とは両親の関係で幼稚園前からの付き合いだ。いわゆる幼なじみってやつだ。
「あ、久友先輩。これを見てください」
千賀美の表情は久友を見ると一変する。先ほどまでギスギスしていたのが嘘のように晴れていた。
「人間の発光現象? へえー、面白そうな内容ね」
「これと人間の感情に結びつきがないかを調べようとしているんだとさ」
俺が話し始めると千賀美に睨まれる。邪魔しないでと目が訴えていた。。
「確かに正の感情が強い人は明るい人と言われるし、逆に負の感情が強い人は暗い人って言われる。それは単なる表現なのかもしれないけれど、無意識のうちに見えてしまっている光によって生まれたモノという仮説を立てると興味深いかもしれないわね」
「そうなんですよ。正の感情が人間の発光に影響していることが分かれば、無理をしている人や嘘の振る舞いをしている人を見抜くことができるかもしれません」
「無理をしている人ならともかく、嘘の振る舞いは見抜けないだろ。そういうやつは下心という正の感情を出しているかもしれないからな」
「そうやって、すぐけなす」
「ただ単に、説の間違いを示しただけだ」
「でも、無理をしている人を見抜けるだけでも十分な効果だとは思うわよ」
「やっぱり、誰かさんとは違って久友先輩は優しいですね。神鳥先輩はもっと見習うべきです。何年間も一緒にいて何を見てきたんですか。それだからモテないんですよ」
「これが俺の性格なんだよ。それと今はモテるかどうかは関係ないだろ」
「この研究室は女子が多いんですから女心を少しは勉強してください。きっとそれは今後の研究に役立ちますから」
一理ある千賀美の言葉に思わず、口ごもる。
この研究室は男一人女三人で構成されている。今年は千賀美ともう一人の女子学生が入ってきたことによって比率が大きく異なってしまった。
「そうね。たしかに祐くんはもう少し女心を考えて行動するべきかも」
先輩の威厳を保つためになんとか打開策を考えていたところ、久友からの追撃が襲い来る。こうなってしまっては仕方がない。
「千賀美、お前はいつも頑張って偉いな。ちゃんとサボらず、研究室に来てくれて俺たちの手伝いをしてくれる。そんなお前には感謝しかないよ」
千賀美はほおを赤らめながらこちらを覗く。
だが、すぐに我に返ったのか顔を引き締めた。
「やっぱりやめましょう。一度固定してしまった神鳥先輩のイメージが崩れるのはなんだか気持ち悪くて、気持ち悪いです」
グッ。
心はえぐられたが、なんとか打開できたようだ。
先ほどのデータから得られた「知り合いからのポジティブな言葉に照れてしまう」という結果を使ってみたが、千賀美はやはりそちらのタイプだったか。
「祐くんがそんなこと言うなんてかなり珍しい。私にも言ってほしいな。いつもありがとうって言ってくれれば、私頑張れる気がするかも」
だが、久友には効果抜群だったらしい。
「知り合いからのポジティブな言葉にデレデレになる」方が適用されてしまったか。
「祐くん、私にも。私にも言って!」
久友は乞うように俺の肩に手を置き、言ってくる。
千賀美の視線が痛い。さきほどの作戦が無意味になっていく。
「落ち着け、久友。機会があれば言ってあげるから」
「ダメ! 今言ってほしいの!」
久友は俺の体に自分の体を密着させる。柔らかい感触が脳に伝わってくる。
「っ……」
千賀美の視線に殺意を感じる。
ここで下手に久友を喜ばせてしまうモノなら、千賀美から何をされるか分かった物ではない。
この状況を打開する方法が見当たらない。
誰か……誰でも良いから助けてくれ。
「コンッ、コンッ」
すると、扉をたたく音が聞こえた。この動作は『依頼人』の登場だ。
何というタイミング。誰か知らないが、感謝の言葉でいっぱいだ。
「はーい」
音につられて久友は俺から手を離し、扉の方へと歩んでいく。
「はあ……」
救われたことによる安堵で思わず息を漏らしてしまった。
「……」
未だに千賀美からの殺意は消えない。だから、俺の視線から千賀美を消しておいた。
「えっと、乾研究室ってここで良いですか?」
入ってきたのは、小柄な男子学生だった。小柄だが、俺を救ってくれたのは大手柄だ。
気分の良いため思わず、そんなジョークが脳裏に浮かんでしまった。我ながら寒いジョークだな。
「ええ、乾研究室で合っているわよ。えっと、依頼で良いかしら?」
「はい、実は少しお願いをしたくって。ここに来れば、手助けをしてもらえると聞いたので」
「分かったわ。じゃあ、中に入ってもらって良いかしら?」
久友の指示に従って、男子学生は研究室の中へと入ってきた。
新年度初の依頼。これは気合いが入りそうだ。
招き入れた男子学生をソファーへと座らせると俺と久友はテーブルを挟んだ向かい側のソファーへと腰をかけた。
千賀美はお茶を入れるためにポットを湧かしている。
「それで、依頼とはどういうのかしら?」
先導は久友していく。俺がするとたまに依頼人と意思疎通が採れないことがあるためだ。適材適所というやつだろう。
「はい。この前サークルで新入生歓迎会がありまして、その時にあった女子の子に一目惚れしてしまったんです」
どうやら依頼内容は恋愛関係のようだ。オーソドックスな依頼だな。
「どうにか彼女と友達……できれば、恋人になれたら良いなと思いまして。でも、今まで恋愛なんてしたことがなかったのでどうすれば良いか分からないんです」
「つまり、私たちはあなたの恋の手伝いをすれば良いと言うことかな?」
「はい。そうなります」
「どうする、祐くん?」
久友は一度俺の方を覗く。
やらないという選択肢はそうそう出るはずもない。だが、まずは聞いておかなければならないことがある。
「さっき友達になりたい。できれば、恋人と言っていたが。どっちだ? まずはそれを選べ」
「えっと……」
「自分の気持ちに正直になれ。恋愛関係で必要なのは、まず情だ。曖昧な気持ちでは俺たちが手助けしたところで結果は見えてる」
俺が男子学生に訴えていると千賀美がお茶の乗ったおぼんを持ってこちらに来る。
それを順に男子学生、久友……
「おい、千賀美。俺のは……」
「……」
千賀美は冷ややかなめっでこちらを覗くと自分の席へと帰っていった。
先ほどのことでまだ怒っているらしいな。
仕方ない。自分で注ぎに行くか。
「俺が戻ってくるまでにちゃんと考えておけよ」
「は、はい……」
男子学生は多少たじろぎながらも、返事をする。
さすがに強く言いすぎただろうか。多分、印象は良くないだろうな。
そう思いながらもお茶を注ぎに行く。
「あの人強い口調で言ったけど、内心では印象最悪だな、悪いことしたなって思ってるのよ。でも、確かにどちらか決めてもらえると私たち的にもありがたいかな」
久友がなだめるような口調で男子学生に話をかけている。
人の心を勝手に読むなよ。そして、俺に聞こえるような大きさで言うのもやめてくれないかね。
内心恥ずかしい気持ちになりながらも湯飲みにお湯を注ぐ。
注ぎ終えたところで湯飲みを持ち、テーブルの方へと歩いて行ってソファーに座った。
「それで、結論は出たか」
「はい。僕は……」
男子学生は一呼吸置くと自分の意思を素直に俺へと告げる。
「彼女と恋人になりたいです」
真剣なまなざしで俺を見る。そう来なくてはやりがいがないな。
「分かった。手を貸す」
「あ、ありがとうございます」
依頼内容が定まったことでここからは恋人になるために必要なことをやっていかなければならない。
「じゃあ、まずはその女の子についてあなたが知っている情報を教えてもらって良いかしら?」
まずは情報収集だ。これがなければ、動くにも動けない。
「えっと、僕が知っている情報は音楽が好きって言うくらいかなと思います」
「情報少ないな……」
本当に恋しているのか。情報が少ないと言うことはそれだけ好きという感情に誤差が生じるものだぞ。
「す、すみません。これってかなり難しいですかね」
「大丈夫よ。名前は分かる?」
「はい、さすがに覚えてます」
「なら、あとでこっちの方でいろいろと情報を集めておくから」
「え……」
久友から発せられた言葉に男子学生は動揺を隠せずにいた。
それもそうだろう。『こっちの方で情報を集めておく』なんて言葉、現実世界で聞く機会めったにないんだからな。
というか、久友はさらっと言ってるけど、調べるのは俺の役目なんだよな。
「それは置いておいて、お前の言っていた音楽が好きって言うのはかなり使える情報だな。どこで聞いたんだ?」
「歓迎会の自己紹介で聞きました」
「それなら信憑性はかなり高いな」
これ以上の情報は出ない。なら、今日はここまでにするしかないな。
「明日、何か予定はあるか?」
「明日は4限まで講義があるので、午後の4時からなら空いてます」
「分かった。なら、その時間にまたこの研究室へと足を運んでくれ。今日はこれでお開きだ」
「分かりました。では、よろしくお願いします」
男子学生は礼儀正しくその場で一礼すると研究室を出て行った。
「ひとまずは、桐子(きりこ)ちゃんに情報収集をお願いするしかないかな。よろしくね、祐くん」
「まあ、そうなるだろうとは思っていた」
「そういえば、今回は条件は言わなくて良かったの?」
俺たちの行っている依頼はギブ&テイクの元に行われることになっている。
こちらが依頼人の手伝いをする代わりに依頼人も俺たちの依頼をするというわけだ。
感情のサンプルデータを取るときなどにはよく頼んでいる。こういう実験に関しては交友関係というモノが不可欠だからな。
「今回は正直、恋が成就してくれることが条件かもしれないな」
「と言うと?」
「おい、千賀美」
「っ!」
自分が呼ばれるなんて思ってもみなかったのか体をピクリと動かしながらこちらを覗く
「どうしたんですか?」
「お前のさっき見ていた。人間の発光に関する実験をこれで行うぞ」
「これでですか?」
「感情による人間の発光……つまりは恋が成就したことで起こる正の感情が人間の発光にどのような変化を与えるかを見るってことかな?」
「そういうことだ。好きな人と付き合えるなんて人生における最大の幸福に近いからな。もしかすると場合によっては、可視光にすらなるかもしれない」
これはただ単に俺の妄想に過ぎないが、そうなればまた研究の幅が広がっていくだろう
「そうと決まれば、まずは菱谷(ひしたに)から情報をもらうしかないな。二人はとりあえず、自分の研究を続けておいてくれ。明日、男子学生が来たところでまた相談し合おう」
俺はソファーから立ち上がると、菱谷 桐子(ひしたに きりこ)のいる別の棟へと歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます