一章 聖女の来訪とリルカの魔獣 ④
「きれーい。銀のあかりがどこも灯って幻想的だな」
部屋にふたりきりになると、クロエはたてつけのわるい窓を上げた。
「リルカでは、冬至祭はこうして祝うらしい。あかりは祖霊を呼び寄せるために掲げるとか」
「幽霊なんて、訪ねてきたらこわくない?」
「おまえはこわがりだな」
箱型鞄をひらきつつ、エマはちいさくわらった。
ひとではないのに、クロエには苦手なものが多い。最たるものが幽霊で、魔物からすると、肉体が消滅したあともふわふわ漂う霊体はたいそう不気味らしい。霊体とはつまり魂なので、魔物なら好みそうなものだが、「人間だって百日外で放置された肉なんて食べないでしょ」と前に怒られた。言われてみればそうかという気もしてくる。
人間ってこわい、とクロエはときどき言っている。
魂ならこの世界の万物が持っているけれど、死んだあと天国にも地獄にも向かわず、霊体としてとどまることがあるのは人間だけらしい。それほどに人間の感情は強く、そして尾を引く。――たとえば、エマが今もずっと母親たちを殺した「白亜離宮の魔物」を追いかけているように。同じ日にいなくなってしまった妹を探し続けているように。
「姫さま?」
目のまえで手を振られて、エマは瞬きをする。
「疲れてるなら、お茶を淹れましょうか? さっき露店で買った焼き菓子があるけど」
「リルカで? いつのまに」
「貴女がぜいぜい息を切らしていたあいだだよ」
意地悪く口の端を上げたクロエに、エマは顔をしかめる。
とはいえ、おなかがすいてきたのは事実だ。
依頼内容がどんなに凄惨だろうと、エマは聖人ではないので、夕食の時間になれば、ふつうに腹は減る。というか、ここでくじけているようなら退魔師を続けることはできない。食べるのはすきだ。胃も弱いので、たくさんは食べられないけれど。
「夕食に行こう。リルカはラム肉の煮込み料理が有名だった気がする」
「あとはベリーソースをかけたマッシュポテトに、赤ワインも。行こう、姫さま。話していたら、おなかが減ってきた」
クロエが閉めた窓の外では、銀のあかりが海を泳ぐ魚たちのように揺れている。
一度は脱いだローブをかけ直し、エマは窓から離れた。
「ラム肉のグレイビーソースがけ、シチュー、牡蠣とサーモンおまたせ!」
威勢のよい声とともに、大皿にのった料理がテーブルに運ばれてくる。
リルカ駅に近い目抜き通りにはパブが多く立っている。真冬にもかかわらず店内は満員で、エマとクロエは道にせり出したテーブル席のほうを案内された。
「……頼みすぎていないか?」
円卓をはみ出そうなくらいの皿の数に、エマは眉をひそめる。
「姫さまが残したぶんは僕が食べるから平気だよ」
クロエは機嫌よくフォークとナイフを使って、小皿に料理を取り分ける。まずはエマのぶんから。仕事の助手としてはほぼ使いものにならないが、クロエはこういう些細な気は利く。魔物のくせに紳士である。
「このシチュー、ビールを使って煮込んでいるらしいよ。まろやかでおいしい」
促されて一口食べると、確かにおいしい。
シチューに息を吹きかけつつ、エマはひとびとが往来する通りに目を向けた。
「《黒の獣》の伝説は結構古くからこの街にあるらしいな」
「ああ、犬だか狼だかに似てるって言ってたね」
「魔獣伝説はリルカ以外でもあちこちに残っていて、たいていは森に隣接した街が多い。街の人間が不用意に森に入って、野獣に喰われないようにする……教訓のために生まれた伝説も多いんだってナターリエが前に言ってた」
「でもここは港町だよね。森もないし」
「そう。だから、逆に信憑性がある。ただ気になることもあって――」
話していると、「姫さま」とクロエが不機嫌そうな声を出した。
「手が止まってる。せっかくの料理が冷めちゃうよ」
「おまえはわたしの母親か?」
エマはむっと眉間に皺を寄せた。
「似たようなものじゃない? 貴女が六歳の頃からお仕えしているし」
「わたしは絶対に嫌」
こいつに育てられたとは思いたくない。
クロエはマッシュポテトも取り分け、ラズベリーソースをかけて渡した。自身は切り分けたラム肉を口に運ぶ。つられてもそもそと料理を食べつつ、エマは先ほど口にしかけたことについて考える。
気になっているのは、モリス警部から聞いた《黒の獣》がもとは墓地の守り主だったという話だ。ただ、伝説とは異なり、被害者になった四人――サラ=オーガストンを除いた三人の遺体は、港に近い広場や路地裏といった、墓地とはちがう場所で発見されている。
(何かのはずみに魔獣が外に出て、ひとの味を覚えた?)
もともと 《黒の獣》は墓地を守るだけの害の薄い魔獣だった。
それが従来のテリトリーを踏み越えて外に出た結果、ひとの味を覚え、襲撃を重ねるようになってしまった。そう考えれば、立て続けに犠牲者が出ている状況にも説明がつく。そして、おそらくは魔獣を捕まえるまで被害は止まらない。犠牲者が増えるにつれ、どんどん殺し方が凄惨になっているのも不安ではある。凶暴化しているのだ。
リルカ市警は市民に夜間の外出を控えるよう呼び掛けているらしいけれど、何しろ旅人たちの街だ。今もパブは大勢の旅人でにぎわっているし、いちばんの稼ぎどきである冬至祭の時期に店を閉めさせるのは難しい。
(そしてもうひとつ)
――『黒の獣』はじつは魔女が呼び出したんじゃないかって……。
モリスは暗にサラが魔獣を呼び出したのではないかと言いたそうだった。
可能性はありうる。ただ、だとしたらなぜサラ自身が死んでしまったのかは気になった。しかも、魔獣ではなく、ただの獣か、ひとにつけられた傷でだ。いったいサラに何があったのだろう?
考えていると、ブブ……と虫の羽音に似た音が耳に触れた。
フォークを置いて、エマは音がしたほうを振り返る。通りにせり出したテーブルで飲食を楽しむひとびとに、黒い靄がかった人影がまぎれこんでいる。目も鼻も口もないそれは、何かを探すようにテーブルのあいだをさまよっているが、エマ以外にきづいているひとはいない。
「……亡霊か」
ひとが多く集まる場所には亡霊も集まりやすい。身体を失い、魂だけの存在になったまま、とり憑く相手を探しているのだ。ふつうは半透明に透けているが、黒い靄がかって見えるのは、生前の死に方や罪科のせいで、悪霊がかっているためだ。
「放っておきなよ」
ボーイに追加でワインとミートパイを頼みながら、クロエが言った。
「あんなの、とり憑いたところで、今晩ちょっと悪夢を見せるくらいのもんだよ。お給金が出ない仕事は姫さま、きらいじゃない?」
亡霊がいっとう苦手なクロエはいつも御託を並べて、自分からは決して近づきたがらない。
「まあそうなんだけど」
「今はディナー中でしょ」
「そうだけど」
クロエの言うとおり、給金外の仕事はきらいだ。キリがないからだ。
とはいえ、見なかったことにして放っておくのも寝覚めがわるい。こんなことなら、はじめからきづかなければよかった。そのわりに、エマは結構あれこれきづかなくてもよいことにきづいてしまう。なぜだろう。自分でも謎だ。とりあえず気になって睡眠が足りなくなるほうが、ひよわな身体には深刻なので、もう追いかけてしまう。
「おまえはひとりでディナーでもしてて」
財布から数枚の紙幣を引き抜き、テーブルに置く。
すばやく身をひるがえしたエマに、「おひとよし……」とクロエが悪態をつく声が聞こえた。
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