廃妃編

第一章 天才替え玉士と孤独の王妃

第1話 とある宿屋にて


 幻栄国げんえいこくの首都・華陽ファヤンには、三年ぶりに行われる科挙のため、多くの若い男たちが集まっていた。

 今が一番稼ぎどきの宿屋の女将は、上機嫌で酒と料理を客たちに運んで行く。


「ねぇ、見て……あの人、すごいいい男。男に言っていいのかわからないけど……なんというか美人ね」

「あの人も、科挙を受けに来たのかしら……」


 女将がこの日のために雇った女中たちは、頬を赤らめながら一人の男に視線を送る。

 他の客たちは同門の仲間たちと口髭や顎髭に食べかすをつけながらガツガツと飯を食い、酒を飲んでいたが、その男はたった一人で膳の前に座り、優雅に酒を飲んでいた。


「あんないい男、見たことないわ」

「きっと、どこか地方のお偉い方のご子息なんだわ」


 若草色の上衣につばの広い黒笠、服装はそこらにいる男たちと変わらない……むしろ、材質的には安い素材でできた衣なのだが、着る人の顔が美しいととても高価そうに見えるのが不思議である。

 鼻筋の通った高い鼻、少し憂いを帯びた大きな瞳が印象的で、口髭も綺麗に整えられている。

 まるでその男の周りだけが、別世界かのように輝いて見えるほどだった。


「ぜったい合格間違いなしよ。あんなに素敵なんだもの」

「実は王子様だったりしてぇ」

「やだ、こんな店に王族なんて来るわけないでしょ?」

「あはは、それもそうね」

「————こんな店とは失礼だね! それに、今の王に子供はいないよ! そんなことも知らないのかい」


 女中たちが男に見惚れているせいで、ほとんど一人で働いている状態になっていた女将は、女たちを叱りつける。


「まったく、あんたたちね! 喋ってばかりで……なにをしてるの!! ほら、あっちの席空いたよ、片付けて来な!」

「ご、ごめんなさい」


 女中たちは女将から逃げるよに仕事に戻っていく。


「————で、あの子たちが騒いでたのはどの男だい?」

「なんだ、お前も興味があるのか?」


 女中たちの話に呆れながら会計をしていた宿屋の亭主は、女将を睨みつける。


「そりゃぁあるさ。科挙に受かれば官吏に————高官を目指せるんだ。うちの娘を側女にでもしてくれないだろうかね」


 この国では、娘を少しでも高い階級の家に嫁がせるのが、親の目標なのだ。

 とくに平民の家は、側女でもいいから貴族の家に娘を嫁がせるのに必死である。


「うちも息子がいれば、科挙を受けさせたけどねぇ……みんな娘なんだから、そうでもしないと——……で、だから、どの男だい?」

「ほら、あそこの一番左端の……って、あれ?」


 亭主は男がいた席を顎でさすが、いつの間にかその美しい男はいなくなっていた。


「————すみません、勘定をお願いします」


 美しい男は柔らかく微笑みながら、亭主の右側から声をかけた。

 間近に見た美しい男の顔に、亭主もおもわずぽっと頬を赤らめる。


「ああ、はいはい……」


 すぐに視線を逸らしたが、確かに美しいと思ってしまった。

 それは女将も同じ。

 女将なんて、まじまじとその顔を見つめている。

 肌も男とは思えないほど、陶器のように美しかった。


 男が勘定を終え宿屋を後にしても、しばらく宿屋の夫妻は男の余韻にぼーっとしていたが、亭主ははたと気がついた。


「————今の男、付け髭じゃぁなかったか?」




 * * *




(————噂通り、美味しい)


 若草色の上衣を着た美しい男は、科挙を受ける前に腹ごしらえをしようと美味しいと噂の宿屋で飯を食べていた。

 科挙に向けて上京してくる若者たちの会話に耳を傾けると、あそこの宿屋に泊まるといい成績を残せるとか、食事がとても美味いという話が聞こえたのだ。

 華陽で生まれた男は、ギリギリだが一応中級貴族の実家がある。

 こんなにこの町の宿屋の飯が美味しいなんて知らなかった。


(お酒も美味しかったし、今度は普通に来ようかな……あーでも、昼間から飲んでたなんて、知聲ジソンに知られたらなんて言われるか……)


 弟の呆れた顔を思い浮かんで多少胸が痛んだが、最後の一口を飲み込むとすっくと立ち上がり、さっさと会計を済ませる。

 食べている間に傾いてしまった黒笠を被り直し、口髭が剥がれていないか指で触れ確認しながら、科挙が行われる会場へ向かって歩いた。


 幻栄国の科挙には、ぶん科と科の二種類がある。

 文科は十五歳以上の貴族の男子のみが参加可能で、武科は平民でも健康な男子であれば誰でも参加することができる。

 今回行われるのは文科の試験。

 武科と比べると難易度が高く、一次試験すら通らずに何年も浪人している人が山ほどいる難しい試験だ。


「……ここが、会場か」


 実はこの男、とある地方の官吏の息子としてこの会場へ来た。

 いわゆる替え玉だ。

 一次試験にさえ受かってしまえば、あとは運が良ければ二次、最終と進むことができると言われており、高官の息子たちは金を払って替え玉を雇っていた。

 この男以外にも、おそらく多くの替え玉が紛れ込んでいるだろう。


「————春東チュンドンから来た、太姮テハンです」


 受付で堂々と雇い主の名乗り、真っ新な解答用紙を受け取ると、空いている一番後ろの席に座り硯に水を垂らし、墨を磨る。


(さてと……これからが本番。ほどよく手加減して、合格ギリギリを目指す————)


 ひとつため息をついてから、間違えて自分の名前を書かないように、慎重に雇い主の名前を書く。


「それでは、文科一次試験を開始する————」


 問題が書かれた大きな紙が掲示され、開始の合図である銅鑼の音が会場に響き渡る。

 替え玉の男は、提示された問題に対する解答をスラスラと書き綴った。

 他の皆が難問に頭を抱えている中、手加減をしなければうっかり首席で通過してしまうほど頭の良いこの替え玉は、どこで間違うか悩みながら————


 そうして無事に解答用紙も提出し、さっさと会場から出た瞬間、後ろから肩を掴まれる。


「————……やっぱりだ。何してるの、こんなところで」


(……ジ、ジソン!?)


 口髭はないが全く同じ顔、同じ背丈で、同じような声の双子の弟には捕まった————


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