第22話
「お父さん。もうやめましょう」
張り上げていないのによく通る女性の声。地中に深く根を下ろした大木のような信頼感を発するその人は。
「母上!?」
「元気してた?凛、晴香」
そう、お母さんだ。
アタシと、驚いている晴香の母である。
「お母さん。来てくれて頼もしいよ」
「娘の頼み事とあれば断る理由がないもの」
「あの?姉上はご存じだったのですか?」
平然と会話するアタシに晴香が尋ねた。
「ご存じもなにも、アタシがお母さんを呼んだ張本人だからね」
「そうだったのですか……いつからいらっしゃったのですか?」
「実は最初からいたのだけどねぇ。どう登場するか悩んでいたらお父さんがお金の話をするんだもの。貴方という人は会った頃から変わらないのですねぇ……」
郷愁と寂寥を湛えた瞳でお母さんが語りかける。
どこか現在ではない遠くの世界を見ているように思えるのは、父のかつての人となりを懐かしんでいるからかもしれない。
「凛に呼ばれていたのか」
呆けて微動だにしなかった父も復活し、これで尾神家の役者が揃ったことになる。
「えぇ。娘たちの行く末を案じる母のお節介というやつですよ」
「俺の娘でもあるぞ」
「では晴香のことをどう愛しているのでしょう」
波がない穏やかな水面のような声音でズバッと本題に突入したお母さんは、自分なら即答できるぞと語っているようだった。
「……晴香が秘めている可能性を引き上げるのが俺のやり方だ。辺境で埋もれたままでは本人のためにならん」
「私はどう愛しているのか訊いたのです」
「チャンスを与えることが晴香にとっての愛情という意味だが」
聞いた途端、お母さんは深くため息を吐いた。
漫画の登場人物がわざとらしく呆れるように肩をすくめる。
「貴方は歪んでいるんですよ。ええ、この際だから率直に言いましょうか。1位でないと価値がない――トップを取るに足る資質がない者は切り捨てるという凝り固まった思想で、晴香のことを愛しているとは到底思えませんよ」
「俺に晴香を見捨てろと?」
「でなくば貴方が晴香に見捨てられるでしょうね」
「娘が頂点を極めるのは誇らしいことで正しさの証明となるのだ」
「貴方の教育方針の正しさ?」
「そうだ。凛には根性が足りなかったが晴香はコツコツと積み重ねることができる人間だ。あいつがどうなるか見届けてやるのが俺たちの役割ではないか?」
「否定はしません。しかし貴方が見届ける前に愛想を尽かされますよ。貴方をまだ嫌っていないはずの晴香に」
お母さんの忠告するような口調にも反論を続ける父。
何が父に執着心を持たせているのか。
単純に育児放棄しているなら晴香を引き取ろうとはしなかったはずだし、かなり過剰だけど教育熱心だから晴香を磨き上げることを使命と感じているのか。
「なんだと?」
「子供に親の願望を背負わせるなと申しているのです」
「願望を背負わせてなど!」
「いるではありませんか。凛に背負わせ、晴香に背負わせ……この子たちの気持ちを考えたことがあるのですか」
「…………」
「貴方、過去に自分が成し遂げられなかったことを引きずっているのですね……」
お母さんの問いかけに明らかに動揺する父。それはあの人の考えがそうであると白状してしまったようなもので。
恐らくは当人同士しか知り得ない事情なのだろうし、この父親がどう失敗したとか不完全燃焼なのかは些末なこと。
「貴方がこれまでの半生で成果を上げられず、肩身が狭い思いをしてきたことは汲みますとも。ご両親が厳格で、貴方はただただ従順でいることを求められ……」
「そうさ。俺たちの中で意味を持っていたのは首位という立場だけ。2位以下は失敗と同意義でお払い箱――奴らはそんな親だった」
苦虫を噛み潰したような顔で父は呻いた。
この親の境遇はアタシと似ているのか、はたまたアタシでは足元にも及ばないような人生だったのか。
詳細を知る由もないけどこの人も相応に苦労してきたことだけは窺えた。
「俺がトップに立てる器でないというなら!他の者に託すしかなかろう!」
悔しさを発散させるように叫んだ。
それはまるで駄々をこねる幼子のようであり、抑圧され続けた被害者でもあるように見えた。
生い立ちがこの人を追い詰めて人格まで歪なものにしてしまったのだ。
「貴方までそんな人間になることはないのですよ。もう凛と晴香を解放しませんか。それで貴方も解放されませんか――ご両親の呪縛から」
「呪縛、呪縛か……はっ、そうかもしれんな」
「凛も晴香も道を逸れずにいてくれたのです。遅すぎることはありませんよ……」
母に諭され父は項垂れた。
全てを一気に手放すことはできないものの、がんじがらめになった鎖を斬り払おうとする、葛藤していてなんとも不安定な様相だった。
ともすれば暴れだしそうになるのを堪えていることが、アタシにも伝わった。
アタシも鬼じゃないから、たとえ嫌悪感の募る人物であってもここで追撃はしない。
本懐は晴香だから。晴香が納得して、アタシも納得できればいいだけだから。
◇
「晴香。今後の進路はお前の好きにするといい」
「!本当ですか?」
「あぁ。記憶を呼び起こされて胸糞悪くなるのは御免被りたいからな」
かくして父は晴香に自由を言い渡した。
残された高校生活にも晴香がいるという未来がアタシをひどく高揚させる。
「やりましたね、姉上!」
「うん」
晴香とハイタッチを交わす。
凄い勢いで乾いた音が響いた。ぶつかり合った手の平が熱い。
衝撃によって手が熱くなったのか、興奮で体温と共に手まで熱くなったのか不明だけど。
「えー、コホン。ではまとめましょう。晴香、卒業までの高校生活も引き続き頑張りなさい」
「はい!」
「楽しいこともつまらないこともあるでしょうけれど、お父さんの期待に囚われず気の向くままに、遺憾なく貴女の力を発揮しなさい」
「はい!」
早速やる気満々になっている晴香が微笑ましくて、アタシまで笑顔になって。
「凛?」
「姉上!なぜ泣かれているのですか!?」
「あ?へ?泣いてなんか――」
慌てて駆け寄られて、アタシは初めて自分が泣いていることに気付いた。
目尻が熱くしっとりして視界が次第に形を失っていく。面食らったお母さんや晴香の相好もぼんやりとした色と光の集合体になる。
「私は姉上の傍にいますから!どうか泣かないでください」
「晴香……!」
ふわりと香りが鼻腔に広がった。
ドクンと胸に他者の鼓動が打ち付けられる。
身体の前面から、そして首や背中から、回された両腕から晴香の体温がアタシの心を侵食する。
涙を拭ってアタシは晴香に抱き締められたのだと知った。
晴香と離れ離れになるという最悪の事態を免れて緊張の糸が切れてしまった。
そうして晴香に抱き締められること数分、彼女の温もりが離れた。
「お父さんもですよ。また変な条件を加えるなんて後出しじゃんけん、しないでくださいね?」
一段落ついたところでお母さんが話をまとめて、父に最終確認を取る。
「分かっている。しかしお前、最初からこの家にいたそうだがどうやって開錠したのだ。晴香の様子からして一緒に入ったのではないのだろう」
疲労感溢れる様子で頷いた父はお母さんにそう質問した。
言われてみれば、どうやって開けたんだろう。インターホンも鳴らされなかったし。
「貴方が家の鍵を変えていないから。こんなこともあろうかと新居へ行く時に旧鍵も持って行ったのが幸いしたようですね」
「ドアを開けた音すらなかったぞ」
「サプライズだから忍び足になっていたまで。折角の再会があっさりバレてしまったら興ざめでしょう?重いテーマだからこそサプライズがより効果的になるんですよ」
「忍者にでもなろうとしているのか……やれやれ、お前には敵わんな」
お母さんがおどけて、張り詰めていた緊張感が嘘のようにほぐれていく。
もしもずっと前からこんな空気感でいられたなら、などと益体のない仮定をしてしまうけど。
なにはともあれ、アタシたち姉妹はまた一歩前進できて胸を撫で下ろすのだった。
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