零王威風 ジグルス

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第一話 天上ト地獄

 ある森の中、鬱蒼として人の気の一切しないような深緑の中で、暗澹とした雰囲気に似つかわしく正気の抜け切った人間たちが、今日も汗水を垂れ流す。そんな雫もまるでなかったかのように飲み込んでしまう土の上で、ある少年が腹を抑え蹲っている。


「オラ!とっとと立てよ!こんな所でへばってサボってんじゃあねぇぞ!」


 腹を下から蹴り上げられ、地面を跳ねるように転がり木の幹にぶつかる。

 最早消え掛かっている意識の渦の底で、それでも少年は抗っていた。決して心の奥底に灯した火を消すまいとして。


「相変わらず気色悪い。どうせ抵抗もできねぇくせに一丁前に睨みつけやがって」


 何度踏みつけられても、何度罵声を浴びさせられても決して潰えることのない意志が、少年を生きながらえさせる。地獄の果てで抱いた一縷の野望。


「ッペ!お前は後で罰則だ。後で俺の部屋に来い。タップリと可愛がってやるからな!」


 唾と共に捨て台詞を吐き掛けられ、再び静寂が訪れる。このような横暴を目の前にしても、変わらず淡々と薪を運んだり石炭などを荷台に詰め、挽き続ける子供達。誰もからもその一部始終を目にできたはずなのに、聞こえていたはずなのに誰も助けようとはしない。自分も同じ目に遭うことを恐れているからだ。日常茶飯事の厄介ごとに誰がわざわざ首を突っ込もうか?


 少年は二束三文もしないボロい布に付着した泥を、払いのける。周囲はまだしも自分も大して気にした様子ではない。周りに打ち捨てられた果物や野菜を傍目に、誰もいない森の奥地へと歩き出す。


 不気味な草木や枝を払いのけた先。そこにはまるでやぞのに輝く星のように堂々とした佇まいで、水面を煌めかせる泉がある。

 少年は何やらその神秘的な雰囲気と対照に無表情でなんの感慨もなく、その泉を覗き込んだ。両手で水を掬い出すと手のひらから抜け落ちる前に何度も自分の顔をゆすいだ。


 ただ水面に映る自分を眺める。じっと向こう側の自分を見つめ続ける。黒い髪、黒い目そして黒い意志。

 少年の目の底は周りの奴隷たちと違って、微かに闘志が燃え上がっていた。


「絶対に……絶対に」


 か細く小さく。ただ決して揺らぐことのない決意を口にする。


「この地獄を越えてやる。上位気取りの家畜の糞にも劣るヘドロどもを、地獄の底に叩き落として支配してみせる。この豚箱を出て森を……山を抜けて……」


 少年の目の奥に確かに漆黒が揺らいだ。


「自由を。誰にも奪われない自由を手に入れて見せる。俺はこんなところで終わらない……!」

 

 少年の意志を燃やす薪は、その理不尽への復讐心にあった。これは少年が地に転がる骨と肉を踏みしだき、地獄を這い上がって世界に羽ばたき、一世を風靡し目の前の理不尽を打ち砕いていく。復讐と人類への下剋上を誓った冒険譚である。

 


 

「こちらが今月分の上納品となります」


 恭しく頭を下げながら、手を擦る小太りの中年。そばの青年たちに指示して鉱石を持って来させる。青年たちは息も絶え絶えで今にも崩れ落ちそうだが、担いでいた麻の袋や籠の下に二輪のついた手押しの運搬車を運び終えても決して膝に手をつき休む事なく、秋を整えながら姿勢を伸ばし指の先まで動かす事なく中年の後ろに下がる。


「ふむ」


 対して腕を組み頷くのは、モーニングコートを着て中のシャツまで皺一つない服を着こなした髭を整えた若い男性。この場に限っては浮いて見えるも、それでも上品さがいたる部位が漂っている。


「先月より随分と量が多いな」


「ええ。豊作も豊作。露天掘りで一山当てまして……へへ。是非とも御領主様に献上させていただきたいと思った次第でございます」


「殊勝な心構えだな。しかしこれでは馬車につぎ込むのも一苦労だ」


「無論さらは我々がそこに居られる騎士様たちのお手を煩わせるまでもなく、請け負いますゆえ」


 おい!と先ほどまでの謙った態度から急変し後ろに控えていた、青年たちに上納品を運ぶよう指示をした。


「丁重に扱えよ。これは領主様への献上品だ!傷一つでもつけたら……分かってるな?」


 青年たちが怯えた様子で、口ごもりながら返事をすると癒えきってない身体に鞭を打って、鉱石を持ってヨロヨロ歩き出す。

 領主側についていた騎士たちは、黙って後ろについてくるように促すと青年たちもその案内に従い、森の外へ歩き出す。


「かなり奴隷を使い込んでいるみたいだが大丈夫か?若手の労働力は値も張る上有限だ。使い潰して過労死されてもこちらから補填は出せんぞ」


「ハハハ。ご心配なさらず。彼らは教育者たちにより日々鍛えられていますから、この程度で倒れるほどやわじゃないです。元は士官学校に在住していた際、犯罪を犯してここにいる者もいますし心身ともにタフなんですよ。それにここは他の区画に比べまだ生ぬるいもんです」


 領主に対し、冗談混じりに忠告を笑い飛ばす男。不敬極まりないが両者は気にした様子は見せずただ仏頂面で男を見つめている。


「私がこの鉱山の採掘及び開拓の監督責任者となったからには、全力で領主様に献身を尽く所存であります。この志を成就させるにはやはり彼らは必要不可欠なのですよ。彼らは罪を悔い改める機会を与えられ私は、夢を具現化できる。こう見えて丁度いい間柄なのです、彼らとは」


 領主は男の貼り付けた笑みの下に垣間見えるドス黒い感情が見え透いているようでフンと小さく嘲笑する。


「確かにここ最近の鉱山資源は我が領地の収入源として破竹の勢いで財源が潤ってきている。だが私はこの運営を長期的に行っていくために労働力は欠かせないと思っている。貴様の私腹を肥やすために労働力を分け与えたのではない。もう少し先を見据えたまえ」


 領主は襟元をなぞるように整える。


「一つ忠告しよう。爆発的な勢いというのは人間に於いては燃え尽きるのを早める。それでいて最後はあっけなく灰と風しか残らんのだ。心しておけよ」


「ご忠告痛みいります」


 両者はそれだけ言い残すと踵を返しこの場を去ろうとする。ふと立ち止まり領主は振り返る。


「私はこれより第12区画の中継地点へと向かう。他にも通告してきたが、二日後には鉱山の利権を巡った会議がある。その責任者として貴様らも召集するつもりだ。場に即した服装はこちらで用意しよう。心の準備をしておくように」


 そう言うと今度こそ兵士を引き連れこの場を後にした。


「フン。若造風情が。だが今はこれでいい。あいつの元で甘い汁を吸わせてもらう。搾り尽くしたところで今度は俺らの反撃だ」


 領主御用達の荷馬車に荷物を積み込み終え、戻ってきたと思われる青年たちは休む間もなく中年の男に檄を飛ばされまた仕事に戻って行った。



「いいことを聞いた。2日後偉そうに、ふんぞり返ってる肥えた豚どもがどこかに行くのか」


 それを陰ながらこっそり覗いていた少年。密かに復讐の計画を企てていた少年にとってこれはまたとないチャンスだった。

 鉱山に危険はつきもの。落盤や粉塵爆発、天然ガスによる中毒。今までいろんな奴がそれらを原因として死んでいった。


「目にもの見せてやる」


 そう呟き残して少年は急ぎ足に仕事は戻って行った。



「聞けお前ら」


 太陽も山から登っていない早朝。奴隷達はいつものように現場に召集される。今日はあの小太りのおっさんではなく、いつもそばで記録をつけている監督の補佐役が目の前に立ち朝礼を行う。


「今日は監督は会議に呼び出され不在だ。よって現場監督の指揮は俺が取る。言っておくが俺は監督ほど甘くない。少しでも足を止める奴がいたら制裁を加える。心しておくように」


 制裁?笑わせる。今日はお前らの命日だ。神気取りで胡座をかく豚どもを在るべき地べたに返してやる。

 少年はそう意気込んで一足先に鉱山へと向かった。


 森の外に出て数は歩いた先に木の枠組みで縁取られた高山の入り口に辿り着いた。


 左右の壁面に等間隔にランプが並べられており中は明るく、高山の中のゴツゴツとした岩や黒光りする鉱石などが所々に埋め込まれているのが分かる。道中の壁や天井は切羽とそこに繋がれた木製の柱で支えられていた場所から抜けると、


「おら!弛んでんぞ!この腰抜けが!」


 喧騒と共に甲高い音が鳴り響いた。視界に皮膚が裂ける肌の勢いで振るわれた鞭が痩せ細い少年の背中に振るわれるのが収まる。

 その少年は呻き声と共に血に蹲る。そこに容赦なく次々と追撃を加えるとその少年は、悶絶の表情を浮かべながら力尽き失神する。


「この!役立たずが!!」


 そんな様子に怒りを相好に滲ませながら、指導者が少年を蹴り飛ばした。少年は気を失ったまま奥の岩肌にくの字にぶつかり、無機物のように転げ落ちた。指導者はその少年のそばにいた次の少年に執着し始め、そちらに叱咤を飛ばしに行く。

 何があったのかわからないが、この班の指導者は随分と機嫌が悪そうだ。目に入る全てに八つ当たりする勢いである。


 同情するわけでもなく、かと言って馬鹿にするわけでもなく、一瞥だけすると漆黒の少年はその横を平然と通り過ぎた。

 

「お前も何休んでやがる!奴隷風情が!役に立ちたければ身を粉にして働かんか!」


 後ろで聞こえる怒鳴り声や悲鳴を聴きながら、持ち場に急行。


 持ち場にやってくるとこの壁面の頑丈性を調べるためツルハシを持って岩肌をつつく。岩盤が崩れる恐れはないと安心すると、手押しの荷台を自分の隣に置きツルハシで石炭を砕き次々と荷台に放り込んでいく。


「腰を入れろ!クズども!そんなんで飯が食わせてもらえると思うな!」


 奥から響く怒声。それもあちこちから木霊し、反響したものが重なり合う。どうやら役者は揃ったようだ。


 少年は荷台にこっそり隠していたある物を見る。


「遂にこの時が来た」


 荷台を転がし一旦鉱山の入り口にまで戻る。外にも大勢人がいて、あくせく荷物運びをしたり掘り出した石炭や希少な鉱物を、分別している班もいる。


 もう一人監視役がいた気がするが……中に入ったのか?


 不思議なことに外に監査役が見つからない。奴隷たちを野放しにしていると思えないが、それなら僥倖だと、入り口のそばでポケットからライターを取り出す。カチッとスイッチを入れ火をつけるとそのまま荷台の中に放り込んだ。


「さぁ、地獄に堕ちろ」


 入り口から現場までは下り坂で勾配がある。三輪の荷台も奥深くまで進んでくれる事だろう。


 入り口から遠く離れて数秒後、空気が震えるほどの爆発音が轟いた。それと同時に鉱山の中で岩が砕ける音や、岩盤が崩れ落ちる音、硫黄などの天然ガスが漏れ出す音などが加わる。

 中は言うまでもなく見るも無惨に崩れ落ちていく。あちこちから火の手が上がり坑内が真っ赤に染まる。


「な、何だ!?」


 まるで操り人形のように言葉を発さなかった奴隷たちも、声を上げて驚いている。作業の手を止めて慌てふためき奴隷同士で、騒ぎあったり、呆然としている者もいる。


 先ほど投げ込んだのはダイナマイトの束だ。数年前に掘削用に持ち込まれた火薬とライターをコッソリ時が来るまで隠しておいたのだ。

 中では可燃性の石炭や天然ガスなどにも引火し、念の為この前奥地にも仕掛けた爆弾にも誘爆しているだろう。


「これで晴れて自由の身だ」


 少年は心がまるで浮いてしまうかというほど、幸福感に包まれていた。奴隷という名の呪縛から解き放たれ夢が広がる。


 早足にこの森から出ようとしたその時、振り返ると怒りで顔が人間のようではなくなっている、まるで鬼に憑依されたのかと思うほど顔をグシャっと歪めている大人を発見する。ドシドシと大股で拳を握りしめながら寄ってきた。


「な、なんだこれは!!何が起こっている!どいつだ!どいつがこんなことを!くそ!あの人がいない日に限ってなんでこんな事に!」


 頭を掻きむしり眼球をひん剥いて、苦悩している。それはそうだ。鉱山の一部廃坑化は鉱石による加工、製造、輸出。この地区の鉱山にまつわる全ての計画が頓挫することを意味する。 上の貴族に献上することで得られた利益も損なわれ、最高責任者にも大目玉を喰らい最悪監督不行き届きで処罰されるかもしれない。

 だが少年にとってはどうでもいい事。このまま姿をくらまして、どこかに旅に出る。先行きの決まらないあやふやな目標であるが、今までの生活よりはずっとマシなはず。


「さよならだ。永遠に」


 監視役の男は狂乱し、あちこちに指示して回っている。鎮火をしろだとか、岩をどけろとか、どうにかしろと子供のように騒ぎ立て自分から行動を起こす事なく指図してばかり。

 こういうしょうもない大人ばかりが周囲にいて、それでも権力だけは一級品だから逆らうことができずにいた。本当にメッキが剥がれると、どうしようもなく矮小で情けないクズに見えてしょうがない。


 そんな底辺にこれまで、奴隷たちが怯えてきたのかと、辟易する。が、少年は他人でしかないやつに気にかけているそんな自分にどうでもいいだろと自嘲する。

 

 とりあえずこの森を抜けようと、当てもなく歩き出そうとしたその時だった。

 ガラガラと身が震える程の振動と共に、音が聞こえる。そんな頭の上の音が次第に大きくなっていって、まさかと思い上を見上げると、岩石がこちらに向かって大量に転がってきた。


「うわぁぁあー!!」


 周囲の人間は蜘蛛の子を散らすように、森に撤退していく。流石に奴隷として生きてきただけあって走力はなかなかのものだ。このままいけば全員逃げ出せるだろう。たった一人を除いて。


「ま、待て!お前ら!この俺を置いていくな!!」


 身体能力の低い奴隷など、うちにはいない。まして炭鉱夫のようなものなのだから、そこらの人間より強靭なのは言うまでもない。ならば残されたのはあの憎たらしい指導者に他ならない。


 奴隷たちは岩から逃げ切ってなお奥へと走り続ける。振り返ることなく。ただひたすらに。


 自分はいかにも人形ですって感じで、あいつら奴隷のことが好きではなかった。天上のヘドロは言うまでもなく、自壊する泥人形のようなあいつらも。それがこの後に及んで息を吹き返すとか……勝手に諦めて、結局自分が死にそうになると生き生きとしだすなんて人任せが過ぎる。


 轟音も鎮まり、また一段と静かになった。俺は逃げている途中で振りかえる。余裕も生まれあのノロマの豚足がどうなっているのか、見届けてやろうと。


「ぐ…う…!」


 なんと下半身が岩に埋もれ、身動きが取れないではないか。岩と地面の隙間から赤い液体が見える。少年は、そんな無様なアイツを冷ややかに見下ろす。


「そ、そこのお前……!俺を…助けろ」


 少年は黙って奴の元に近づく。これ以上無いほど胸を高ならせながら。


「そこの岩を…どかせ」


 少年は話を聞いていないのか、ただ黙ったまま。


「聞いているのか……!?どか…せと……言っている!」


 なんとか声を張り上げ、蛆虫のように体をくねらす。抜け出せるわけもないのに。そこで初めて少年は初めて笑った気がした。


「お前…なにを」


「こんなに……こんなに心踊ったこともない。物心ついてから初めて征服感という感情が分かった気がする」


 自分が生き残ることで必死で、自分のことしか気にしていられなかった。まして他人なんて気にしてる余裕などない。

 少年はさらに、奴に近寄る。


「お前らはいつもこんな気持ちを味わってたんだな。他人を見下してこき使って。思うがまま操って、弄んで」


 少年は奴の顔面を思いっきり蹴っ飛ばした。


「ぐぼ!き、貴様……!ぶえ!」


 何度も何度も。今までの恨みを晴らすように。今までの人生の鬱憤をぶつけるように。


「こういう気持ちだったんだな。圧倒的強者の立場というのは。こうやって弱者を思うままにしてたんだな」


「貴様こんな事……許されると思うな!」


「お前の許しがないと俺は死ぬのか?よしんば助かったとしても、そんな体で……まだ天上気分とは、なかなか立場にへばりつくじゃないか」


 少年の笑みがさらに深くなる。


「初めてお前に感謝するよ。おかげいいことを知れた。俺のこれからすべきことも分かった」


 遂には乾いた笑い声を上げ、奴に馬乗りになる。


「殺して……殺してやる!覚えて……おけ!お前の顔は覚えたぞ!」


「だからどうやって?そんな身動きも取れずに?睨み殺すとでも?そんなことが可能なら俺もとっくにお前らのことを殺してるよ」


 今まで、奴隷たちに恐れられていた大人も今じゃ見る影もない。何言われたって、脅されって、何も怖くない。むしろ哀れでしょうがない。この状況を作ったのは他ならぬ俺。俺が初めて大人に勝てる瞬間なんだ。


「苦しい?苦しいよな?俺も苦しかったとも。俺に強者という立場を教えてくれたお礼に、弱者という立場を教えてやるよ」


 指導者はヒューヒューと空気が抜けるような音で息をする。今まで逆らわず従順でいた奴隷の変わり様に唖然としているのか、気管支がやられて喋れないのか、その両方か。

 そんなことよりも、口のきけない状態でなされるがままというかつての強者の姿に、少年は興奮を覚える。

 少年は指導者の顔を覗き込む。これほどはっきり全貌を見たことはない。怒りで睨みつけたり、遠くから穢らわしいものを見るように見たり、純粋に人の顔を覗いたことなんて今日が初めてだった。


「お前はこんな顔だったのか。なるほど。油まみれで不細工じゃないか。心の内がそのまま外面に現れたみたいだ。なぁ、顔面ヘドロ」


 好き勝手言っても睨みつけることはない。政治の狭間に彷徨って聞こえていないのか?


 少年は、蹴るだけでは飽き足らずマウントポジションのまま殴りつけ始めた。


「ぐ……!フッ!」


「ヘドロがもっと醜く……俺は皮膚が切り裂かれようが肉が千切れようが骨が砕かれようが、お前らの金を作ってやったのにお前ときたら……鼻血とか唾液とか、汚いものしか生産できないのか?本当にどうしようもないクズだな?なんのために生きてるんだ?」


「う……────」


 今まで言いたかったことをぶち撒ける。もはや指導者の意識はなく、生きてるかどうかもわからないがそれでも少年は心が済むまで殴り続けた。



 数分後。ようやく心に広がるじんわりとした熱が引いてきたころ。少年は顔面に放った最後の一振りをやつから引く。奴は鼻血や口内から出血し、鼻が俺左右非対称になり、歯も不細工に欠けている。もはや人間としても見る影もない。


 少年は冷静になり自分の拳を見ると、いろんな分泌物で汚れ赤く染まっている。


 少年は嫌そうに目を細めると、ブラブラと手を振り汚物を振り落とす。


「取り敢えずいつもの泉に手を洗いに行くか」


 それから異変を感知した、領主とその取り巻きどもが戻ってこないうちにどこかに離れる。そう決めた少年は、駆け足で早速手に洗いに向かった。




 少年はいつもの泉に手を突っ込む。どこから水が湧き出ているのか?今更ながらこの森は深くで随分と不思議だと思った。


 ついでに服についた汚れも落とすと、少年はどの方角に向かおうかと、思案する。


 あの崩落から逃げ出した奴隷たち。集団とまでは言わなくても群としてまとまりがあり目立つ。追っ手がいるとして目撃されやすいのはあいつらだろう。単体で動いた方が森では便利だと、少年は鉱山の反対側へと向かうことに決めた。


「この光景も見納めか」


 森の駐屯地のことではない。あそこなど思い出すだけで反吐が出る。無論この泉のことだ。物心ついてより奴隷として生きてきたかつての少年や他の奴らは、自分の生き方に何の疑問も抱かなかった。ただ苦しい。でも生存本能に従って、働けば生き残れると幼いながらルールは飲み込めていた。

 

 自分が何者なのか?なぜこんな生き方しかできないのか?やりたいことはないのか?そんな疑問を抱いたのは、当時の領主が連れてきた子供達を遠巻きながら見た時だった。

 見た事ない表情。あれは笑顔なのか?大人たちが浮かべるものとは随分と違う。なんのしがらみもなく遊びまわり大人には何の注意もされず、豪華で煌びやかな服。絢爛な髪飾り。

 見た事ない衣類や装飾品、相好。まるで別世界の住人だと思った。


 そこが分岐点だったのか?成長するに従って、感情というものが分かり始めた。怒り、嫉妬、憎悪、絶望。どれも負の感情ばかり。今の自分が幸福とは程遠いと知ったからか?奪われ、殴られ、怒鳴られ、仕事を押し付けられ、頭が沸騰しそうになるほどの毎日。

 なぜ自分の思い通りに生きれないのか?俺の意思はどこにあるのか?

 いつものようにボロ雑巾にされ自問自答を繰り返していたある日。この泉を見つけた。行くあてもなく出歩き彷徨っていた日。まるで一筋の光明のように俺のあるべき道を照らしてくれた。

 自由になればこんな美しい光景も見れるのかと。

 神秘への好奇心、類似する芸術性の先を見越す想像力。心が晴れやかになる清潔感。

 色だと知った。目の前にあるなんて事ない深い青色、身の回りでいくらでも見たはずの生い茂った緑。赤々と情熱を感じられる紅葉。それらがいつもより鮮やかで心に風が透き通るようで心地よかった。


 俺は表情こそ変えなかったものの、活力が湧いてきたようだった。不思議と自分の意志の在処が何処にあるのかも理解した。。

 幸福こそ人があるべき姿。今の俺は幸福ではない。では周りの大人たちは何故笑えるのか?幸せだから。俺たちと同じ場所に生きてきて?


 ……いや違う。アイツらは俺たちとは違う。アイツらは指図し、搾取する側で俺が搾取される側。幸福が奪われている。どうやったら取り戻せるのか?殺せばいいのか?

 でも敵わない。領主を見た時、自分は非力であるにも関わらず謎の自信を常に纏っていた。寸分狂わないあの先を見通す目。自力だけでは……権力に敵わないと知った。こことは違う。目に見えない力。何かはわからないが、領主に楯突いたある奴隷がある日忽然と姿を消したのを覚えてる。

 不気味だった。

 自分の知ってる大人たちの方がわかりやすい力で御していたのに。あの力がなんなのか?自分も手に入れられるのか?そんな取り止めのないことを考えるも今の自分では無理だと悟った。周りの奴隷も気力が削がれ、団結やそれによる蜂起が起こせない。もとより頼るつもりなど毛頭なかったが。


 知らないことが多すぎる。不可解で未知。なんでも知っている奴ら。俺はいろんなことを知ったつもりだった。森や山、或いは鉱山とはまた違う露天掘り。食用の植物と毒物の見分けや採取、掘削、道具の扱い方、組み立て型、整備の仕方、安全な場所の確保、身を守る方法、病気や怪我に効く薬。でもそれだけじゃ圧倒的に足りない。敵わない。


 自分が恐れているのは、未知だから。じゃあ大人たちは?知らなければ、知られなければ……あの目に映らなければ……俺を殺せない?

 大人たちは執拗に俺たちの衣類の中や、手持ちを細部まで確認していた。それだけ警戒しうる力を俺たちでも得れるから。それは単純な力ではない。

 そう、文明の利器。それと、好機。それさえあれば───


 こうして計画を企て新調に準備し2年を経て今に至る。長かった。とてつもなく。忍耐力と体力、技術力、権謀術数、何より運。その全てが兼ね備えられてないと一人でやるなんて、無理だった。


 一瞬の記憶が須臾にして駆け巡り蒸発した。


「今となってはどうでもいいこと」


 俺は俺のあり方を見つけた。


「行くか」


 そうして少年は鉱山の反対側へと向かった。


  


 森を歩き続けて、数十分。ジメジメとした景色も変わり始め、日光が差し込んでくる。あまり感じたことのない目の刺激に少年は目を片手で庇う。


「あれは」


 森の外だ。木々が拓けて草原が見える。風に揺られて連続するように凪がれる草。自然と新たな冒険の始まりを予感させるものだった。


「外だ……!」


 自然と足が前へ前へと急かされ、小走りになる。そのまま森を抜けると、ブワッと風が少年の顔を撫でた。


「ハ…ハハ……ハハハハ……!」


 少年は目をきらめかせると、両腕を広げて空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「すぅー……はー」


 あれだけ渇望していたのだ。少年の感動も計り知れないものだろう。


「あれは……人間?」


 咄嗟に草原に身を潜めて、奥の平らにならされた道を歩く人間を見る。まず目に入ったのが服。黒いズボンに腰の革製のベルト、清潔な白いシャツの上にマントを羽織り、靡かせている。

 少年は下を向き自分の服を見る。

 俺のようなボロく適当に見繕った薄汚い布のシャツと腰巻きとは大違いだ。


「この服装では直ぐに奴隷とばれてしまう」


 森を抜けて早速直面した問題。少年は取り敢えず人間たちの行く先を見ると小さく建物が密集している場所があるのが見えた。


「あれは……村と言うやつか?」


 何かいい足がかりになるかもしれないと思い、こっそり奴らの後をつけて行った。



「領主が連れてきた子供ほどではないにしろ、中々整った身なりだな。あれが普通なのか?」


 どこを見ても村人たちは、先ほど後をつけた人間と同じく俺とは格の違う服装をしていた。様々な種類があり皆着こなしている。


「贅沢な奴らだな。家があって寝床がある。食物も育てられてて栄養に困らない。家畜もいて肉も食えるのか」


 俺が食料を与えられたのは、昼と夜に奴らの残飯として地面に投げ捨てられた干し肉や腐りかけた野菜くらい。基本的には自分で採取して食うしかなかった。最悪雑草をむしってでも空腹を満たすときもあった。


「理不尽だな。俺も生まれが違ければこう生きられたのか?」


 少年はこの世の不条理に怒りが湧いてくるも、折角の門出だと怒りを霧散させる。


「村に入るには危険だな。せめて身なりだけでも……あそこの家の窓の外に干してあるあの服。あれを奪って念の為他の村に行くか」


 少年は見つからないように、村と外の境界線となっている家の敷地にこっそり侵入する。そばに生えていた並木を登って衣類に手を伸ばすと素早く回収した。


「初めて手にした。これが村人の服か」


 見た目ばかり今まで気にしていたが、手触りも違う。どこか温かみもあって材質そのものが違うように思える。


「奴隷の服をこの辺に捨てるわけにはいかない。手がかりにされたくもないしな。しょうがない。この服の上から着よう」


 少年は木を降りて草むらに隠れる。下の粗末な服が見えないように、奪った衣類を着る。


「少しサイズが大きいか?見た目より着心地が悪いな」


 今更返すわけにもいかず、しょうがないと思いながら、この先につづく道を歩いた。


「冒険か……ふふ。悪くないな。道なりに歩いてるだけでも何もかもが新鮮に感じる」


 この先に何が待ち構えているのか?街道を堂々と闊歩する。道ゆく人々も総じて肩らを気にする様子はない。


「あいつらは……」


 目の前にある馬車を見て思わずその歩みを止める。そばにあるあの人物。堅苦しくて動きづらそうな胸当てと統一された装い。騎士たちだ。その辺の人間と何かを話している。


「チッ。胸糞悪い気分にさせてくれる」


 少年は、俯いたままその横を通り過ぎようとすると騎士たちの話し声が聞こえてきた。


「この辺で何か異常はなかったですか?」


「異常?なんてこたぁねぇ!いつも通りの毎日さ。俺も村を転々としながら商売しとるがよ、どこの村も平和そのものよ!領主さまとその騎士様のおかげかね」


 形式的な質疑応答。事情聴取のようだった。少年は次の質問に再び立往生してしまう。


「ふむ。では数時間前爆発音や振動のようなものは感じませんでしたか?」


「そういや朝に森の方から、爆発音と共に鳥が一斉に飛び去っていくのが見えたが……何かあったのかい?」


「今領主さまが領内の村や街におふれを出して回っています。とんでもない大事件だったそうで……容疑者を全員確保するまで領内を封鎖するみたいです」


「そいつぁ大変だな。頑張ってその犯罪者を捕まえてくれよ」


「お任せください。質問は以上ですので行っていいですよ」


 質問されていた男は腕を捲りながら、なにやら独り言を呟いてどこかに去っていった。


 俺は必死に息を潜めながら、騎士たちの横を急いで通り過ぎる。


「もう発覚しているのか。いや問題はそこじゃあない。事故ではなく事件、それも容疑者だと?」


 まるで誰かの犯行だとわかりきった言い草だ。できる限り事故に見せかけたが岩の破片や瓦礫を撤去して爆発物を検知することは可能かもしれない。だがこんな短時間で……それも領内を封鎖するからには、確信があるはず。

 現場に重大な証拠を見落としたか……まさか目撃者がいて証言してしまったのか?


「だが奴隷の顔などいちいち覚えているはずもない。俺個人の特定は限りなく不可能に近い……はず」


 逃げ出した奴隷が捕縛されて終わるならそれが一番だ。あいつらを生贄にして俺は生き残ることができる。


 そうやって自分を何度も落ち着かせる。後ろから差し込む影に気づいたのはその後だった。

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