第71話 合気

 マーリンの始めのコールがマイク越しに響いた。トキネと春野はそれぞれのコーナーでお互いに一礼をすると、たがいに構えてリングの中央へと進み出る。誰もが見慣れた白い道着に対してのトキネの深紅の道着は、二つが寄り集まると確かに紅白でめでたい感じがしなくもない。

 

 お互いに素手同士であるので、間合いは柔道や空手と同じく極めて短い。各々の腕が届くぐらいの距離に近づいたところで、試すようにトキネは春野の左襟を右手で掴んだ。春野の方も柔道の試合のように掴み手を嫌うでもなくあっさりとつかませた。しかしトキネがもう一方の襟も左手で掴もうとすると、その前に春野は自分の左手で既に襟を掴んでいるトキネの右腕の肘のあたりに横から手を当てた。彼が軽く横から力を加えるとトキネの体制は崩れて、重心は下方にずれて左ひざを床に着く。すぐにトキネは襟を掴んでいた右腕を解き、付いた左膝を軸に回転してまた立ち上がると春野とは距離をとった。


「やはりあなたのギフトは、琢磨君と同じで合気でしたか」トキネは言った。

「そうです。先ほどのアルベルトのプレリードと似ていますが、合気の場合は相手の動きを読むというよりは心をシンクロさせます。古武道にもある考え方なので釈迦に説法でしたかね」春野は言った。


「トキネさんが膝をつかされるところなんて初めて見ました。あれは琢磨君と同じギフトなんですか?」リングサイドでは長十郎が草壁に聞いている。

「ですね。合気です。琢磨君はまだ相手の動きを先読みするぐらいの事しかできませんが、本来合気は相手と自分の気を合わせる事で、相手の動きまでもコントロールしてしまう技です」


「合気は掴んで投げる様な柔術の技とは相性が悪いんですよね」そう言ってからトキネは懐からいつもの手ぬぐいを出して頭に巻いた。そうして正面に構えて大きく息を吸うと、ゆっくりと吐き出す。息吹だ。そうして今度は両掌を軽く握って拳をつくり、やや上方に構えた。


 構えたその瞬間に上半身は動かさずに足さばきのみで、春野との間を一瞬にして詰める。縮地だ。そうして今度は左拳を前方に出して春野に突きを繰り出した。春野はやや後方に下がりながら左横に動いてそれを躱す。トキネは更にもう一歩踏み込んで、今度は右こぶしで突きを繰り出す。春野はそれを右側に体を動かして躱しつつ、今度は前方に体を出して右手の掌底でトキネの胴体へと突きを繰り出した。カウンター気味に自分に向かってくるその掌底をトキネはすんでのところで躱した。


 再びトキネは下がって距離をとる。

「よく鍛錬されていますね。ギフトなど関係なく鍛えられた武だけで相当なものです…しかしまだまだ若すぎる」


 そう言ってから再びトキネは両拳を使って連続して突きを繰り出す。速度は先ほどとは変わっていないのに、春野の回避の精度は落ちていた。躱してもそれはギリギリで道着を霞めている。かろうじて体に向かってきそうな突きは手で受け止めて避けている。数回のやり取りを経て二人は動きを止めてまた対峙する。


「気を合わせられません。どういうことなんでしょうか?」春野は手合わせしている状況も忘れてトキネに助言を求めている。

「ギフトによるものかどうなのかは分かりませんが、合気は古武道にもある考え方です。それは自分の気の物差しで測れる相手までならシンクロできるかもしれません。ただ、その物差しで測れない大きさの相手だったらどうしますか?」トキネはそう言って今度は拳での突きに加えて脚による蹴り技も混ぜて攻撃を始めた。


 現代柔道では打突技は反則となって使うことはできない。しかしもちろん古武術においてはその限りではないし、柔術には当て身と言って打突技や蹴り技も存在している。


 春野は確かに自分の大切な存在を失ってからというもの、自分の持つ武の研鑽に励んできた。世界中を巡る中で、数々の武道家と闘い経験も積んできた。しかしそれはたかだか数年の話である。確かに体術としての春野の持つ技は、達人と呼ばれるレベルにまで充分に達していた。ギフトともいえる生まれつきの合気の才もある。


 しかしトキネの研鑽してきた時間は春野のその数十倍に及ぶ。彼は確かに多くの格闘を通して経験を積んできたかもしれないが、トキネのそれとは次元が違っていた。


 トキネが経験してきたのは格闘では無く殺し合いである。既にもう数としては認識できないぐらいの人間を殺めてきてしまっていた。通常であれば正気を保つことも難しそうな、普通の人間には悠久にも感じられるその時間を彼女は生き抜いてきた。その人間が発する気に全てを合わせるには、ギフトを持っていたとしても今の春野には荷が重すぎた。


 本気を出した彼女の気は春野が合わせられる領域を遥かに超えていた。

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