第35話 縮地

 最後の素振りに入って、稽古ももうすぐ終わりという所で自分は次郎おじさんに呼ばれた。なんでも今日から稽古に加わった小佐波さんと手合わせをしてみないかという事だった。話によるとどういう理屈かは知らないが、彼女は剣道も柔道も本当に十段の達人らしい。普段であれば他流試合など御免こうむりたいところだが、先ほどの彼女の素振りを見て興味がわいていた。別に田村さんの前でいいカッコをしたいというわけではない。


 自分も小さい頃は武道にとても興味があった。はじめは父に構ってほしくて一緒に道場で短槍の稽古をするだけだったが、小学校も高学年になると柔道と剣道を始めた。小学生の部活レベルではあっても両者ともに子供心には面白く、真面目に練習して技も色々と覚えた。中学に入ると近所の道場にも通ってみた。


 小学生の頃からその兆しはあった。中学生になると試合形式の稽古、柔道で言えば乱取り、剣道で言えば地稽古になると誰も相手にならなくなった。同年代だけではない。大人も同じだった。相手が次にどう動くのかが全て分かってしまうのだ。最初は誰もが同じことが出来ると思っていたので、どうして自分の攻撃を避けないのか不思議だったくらいだ。

 道場にいた大人の中には大きな大会でそれなりの成績を残した人もいた。体格も力も、大人と子供では比べ物にならないはずなのに、全く勝負にもならなかった。井の中の蛙かもしれないが小中学生の子供の行動範囲ではそうだった。


 回向院流槍術道場の師範である父にその事を話すと、自分には合気に関して類まれなる才能があると言われた。合気とは古武術における概念で、相手の気に合わせることで動きを読み、最終的には相手の動きを自分でコントールさえしてしまうというものだ。それでも父には一度も勝てたことは無かった。いつの間にか柔道からも剣道からも遠ざかって、父がいなくなった今では武道全般に興味が失せていた。


 それでも自分の経験した武道の、嘘か本当かは分からないが高みにいる人間と手合わせができるというのであれば、そこには興味を惹かれた。

 自分だけ武器を持って、素手の女性と相対するのには気がひけたが、彼女の動きで目が覚めた。予備動作無しでいきなり懐に飛び込んでくる縮地という技だ。ものすごい速さだ。自分はかろうじてそれに合わせて同じ動きをすることができた。

 彼女とすれ違って振り向いて構えをとると、彼女は一礼をして覇気が無いと言い残し、今日から稽古に加わった二人の方へ行ってしまった。何が何だかよく分からない。


 最後に全員が整列して正座をし、礼をして今日の稽古は終わった。自分は見学していた田村さんと広崎さんの方へ歩み寄った。寄ってはみたが汗くさいといけないので、それなりに距離を保って立つ。


「どうでした広崎さん?何か参考になりそうですか?」自分は広崎さんにそう聞いた。

「お助け…草壁さんに聞きましたが、先ほどの縮地という足さばきを私も教えてほしいです。型も素振りも剣道に似ている部分もあって、是非稽古に参加させて頂ければと思いました」彼女はそう答える。

「それなら良かった。平日も稽古しているので好きな時に来ればいい。自分は日曜日のこの時間しかいないけどね」自分がそういうと

「平日は部活があるので、私も日曜日だけ参加させて頂きます」と、広崎さんは言った。


「田村さんは退屈だったでしょう」自分は隣に座っている田村さんにもそう話しかけた。彼女は武道には興味が無いと言っていたし、傍から見て稽古はそんなに面白いものでもないだろう。

「フローリングじゃない板敷きの床なんて、お寺さんぐらいでしか見たことなかったので面白かったです。先輩の実家の酒蔵もすぐ近くですよね。そちらも見学させてもらっていいですか?」確かに彼女の言う通り実家とそこで営む酒蔵は道場から数軒先ぐらいにあった。昔は道場も含む大きな敷地だったようだが、切り売りされて今は道場が飛び地の様になっている。


「あ、実家が造り酒屋だって言ったかな。もちろんいいんだけど、ちょっと汗くさいだろうから家に帰ってシャワー浴びて着替えてくるね。15分くらいここで待っててもらっていいかな?」


 女の子を長く待たせてはいけない。自分は掃除に参加できない非を次郎おじさんに詫びて、そそくさと短槍を倉庫に片付けて道場を後にした。次郎おじさんはいいから急げ急げとニヤニヤしていた。


「私は用事があるんでここで失礼しますね」広崎さんはそう言って、訳あり風にウィンクをしてからそのまま去って行ってしまった。

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