第2話 始まり(その1)

  もちろん彼女の突拍子もない発言をそのまま信じられるわけもない。

「トキネさん、冗談にしても盛りすぎですよ。1851年て言ったら明治時代どころか江戸時代じゃないですか?今度は人魚の肉を食べたとでも言い出すんですか?」

 彼女の意図は分からないが、前の歳上にしか興味が無いという発言に比べても随分と大きな話になった。


「信じるか信じないかはあなた次第」

 そう言ってトキネさんはウインクをすると、いたずらっぽく笑ってカウンターの中に戻っていってしまった。


 その後も「乃木坂」通いは続いたが、先日の年齢の件はそれ以上の話題になることは無かった。少し気になって1851年という年数に何かあるのかなと思い、ネットで調べても見た。歴史の教科書にも載っていそうな大事件は中国で起きた『太平天国の乱』くらいで、日本では特に目につくような話はなかった。老中水野忠邦が死去したというのも関係なさそうだ。171歳であれば年上の男は存在しないので、今は誰とも付き合う気はないよという、彼女なりの意思表示なのかなと理解することにした。


 そんなある日に事件は起こった。


 ここ喫茶『乃木坂』は客は少ないとは言っても流石にゼロではない。僕は営業中ずっと居座っているので、数少ない常連さんはもう覚えてしまった。


 その中には世間的には結構な有名人もいた。本人はマスクに帽子姿で変装をしているつもりなのかもしれないが、目の感じや体形でそうだろうなと分かってしまったのが、現文部科学大臣の吉森照治氏だ。時たま秘書らしき女性と一緒に来ることもあったが、他にSPらしい姿はいつも見当たらない。多分お忍びなのだろう。

 確かにここ平河町は国会議事堂からも近い。つまりは議員会館からも近いという事なので、そういう人がいても不思議ではない。ただ吉森氏以外には国会議員は見かけたことは無い…というか、全議員の顔を覚えているわけではないので僕には分からないだけかもしれない。


 吉森氏は文科大臣という地味なポストながらも結構庶民人気があって、近いうちに総理大臣も狙えるんじゃないかと言われているので僕でも知っていた。彼は僕なんかよりずっと前から常連だった様で、トキネさんとも結構親しげに話したりしている。

 トキネさんは彼を『テルちゃん』と呼んでいる。店が狭いので聞き耳を立てずとも聞こえてきてしまう。お忍びだとすれば本名で呼ぶのはまずいのだろう。まさか歳上が好きというのは…いや、吉森氏は70歳前後だったと思うので、流石にそれはないだろうと思い直した。


 その日も吉森大臣は午後三時くらいに1人でお店に現れると、コーヒーを頼んでトキネさんと雑談をしてから出て行った。…出て行ってしばらくしてから…突如店の外から銃声が聞こえてきた。


 一度『パンッ』と音がして、すぐ後にもう一回同じ音がした。最初きいたとき僕は車のバックファイヤー音かと思ったが、トキネさんが

「銃声ですね」というので、僕と彼女は慌てて外に出た。


 他の建物に反響していた事もあり、音が聞えてきた方向はおよそしか分からなかったが、嫌な予感がして僕とトキネさんは店の前の道を議員会館の方に向かって二人で走った。


 その先には吉森氏が倒れていた。人だかりという程ではないが、あたりに数人が群がっている。トキネさんは吉森氏の傍らに歩み寄って傷口を確認している。傷口からはシャツに血の染みが広がっている。吉森氏はトキネさんの姿を見るなり、

「おおば…」と言葉を発しかけたが、言い終わる前に彼女に頭をパンとはたかれた。


「走ってきて損した。全く命には関わりそうにはないですね」銃で撃たれた人間を前にやけに冷静なトキネさんの物言いではある。誰かが呼んでくれた救急車がすぐに到着し、土地柄が土地柄なだけにすぐに警官も集まってきた。それを見たトキネさんは

「面倒くさいことになる前にドロン…とんずらしましょう」

 と言った。ドロンと同じくらいとんずらも若い女性には似合わない言葉だと思った。


 そうして僕とトキネさんはすぐにその場を離れて店に戻った。


 トキネさんはサービスだと言って、冷めてしまったコーヒーの代わりに新たにコーヒーを入れ直してくれた。そうして自分の分も含めて僕の座るテーブルに運んでくると、向かいの席に腰かけた。


「こんな場所で現職の大臣を襲撃するとか、頭のネジが一本飛んでますね」

 トキネさんの発言には僕も同意だった。近辺には国会図書館や国会議事堂があるが、それは警視庁も目と鼻の先という事だ。


「さっき吉森大臣はトキネさんに『オオバ』と言いかけましたよね?あれは襲撃犯のヒントかもしれませんね。警察には伝えておいた方がいいんじゃないですか?」

 コーヒーを一口すすってからそう言った僕に

「見たところ弾丸は貫通していて大した傷でもなかったので、言いたいことがあるならテルちゃん…吉森大臣が警察に自分で言うと思います」

 と、トキネさんは言った。


 先ほどの事件現場と同じく、妙に場慣れしているかのような言動には、喫茶店の女主人としては違和感を覚えた。そういえば銃撃された現職大臣の頭をはたいたようにも見えたが、あれは何かのおまじないなんだろうか?

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