第9話 初恋の真実
わたしは泣きながら抵抗続けた。しかし、カルビは重く、その手はわたしの身体をまさぐり始めた。
絶対嫌だけれど、あきらめが、ほんのちょっと頭をよぎった。
と、ふと彼の動きが止まる。
でろんと、そのまま動かなくなった。弛緩して、わたしの身体にのっかかっている。
不意に身体か軽くなる。カルビが横に流れるように、わたしからどさりと落ちた。
「え」
ストローのようなものを口にくわえたイライジャ先生の姿が目に入った。わたしが起き上がるのを助けてくれる。
思わず彼に抱きついた。
怖かったのだ。
泣きながらすがりつくわたしを、背をなぜ、「大丈夫」と慰めてくれる。
「ここを出よう。安全なところへ」
「はい。でも、あの、彼らは?」
絡み合うヨーコとジョンだ。
先生は首を振り、もう遅い、と言った。確かに、チラ見しただけでも、ストップには遅すぎるのがわかる。
「催眠のかかり具合で、ああいったことは毎年起こる。目をつぶるしかない」
部屋を出た。
廊下を通る時、あちこちで「ああいったこと」が起こっている気配がした。
「あの、カルビは?」
「カルビ? 肉のことかな? 僕は肉の種類には疎いんだ」
「いえ、あのさっきわたしを襲おうとした、あの彼です。幼なじみで…」
「心配なの? 自分を襲おうとしたのに。大丈夫、しばらく眠っているだけだよ」
吹き矢で、睡眠薬を仕込んだ矢を飛ばしたのだという。
ああ、あの口にくわえていたやつだ。
先生はわたしを自分の宿坊へ連れて行ってくれた。
「今夜はここで眠るといい。僕は出て行くから」
「行かないで」
思わずそんな声が出た。
口にしてから頬が熱くなる。彼のわたしを見るまなざしも怖い。
生徒と保険の先生の間柄だ。それ以上は求めてはいけないのだろうか。
彼は初恋の人なのに。
沈黙が怖い。
何か言ってほしいのだ。
冗談にしてくれてもいいから。
「君のおかげで、今夜は大成功だ。軽度の催眠は生徒に残ったが、それも一夜で覚める。敵国の言いなりになる本格的な催眠はかからずに済んだ」
敵国のスパイ。十八年前に容姿枠で入り込んだ男が、信長役を務めた際に、催眠術を仕込んだのが始まりという。
それにかかった生徒たちが、自分の意志とは関係なく、後催眠によって国の機密を漏洩し続けて来たのだというのだ。
「もちろん全員じゃない。でも、一部でも成功すればそれでいいんだ。後は黙っていても成果が出る」
「今年の生徒は大丈夫でも、既に催眠術にかかった人たちは?」
「それはもう処理が出来ている。上流学園の出身者にはすべて、特級催眠術師により洗脳を解かれているんだ」
「うちの父も?」
彼は少し笑った。うなずく。
「お父上は、ごく浅いものだったから、僕でも解けた。邸にうかがった際に」
「先生は催眠術もできるんですね」
「僕のレベルは、せいぜい二級術師止まりだよ。才能がない」
「これで、もうお終いなんですか? 学園での任務は」
「ああ。監視は置くが、僕でなくてもいい」
「え」
異動になるのだろうか。
そんなことに心がふさいだ。もう会えなくなるのだろうか。
また涙がぶり返す。カルビに襲われた時のような恐怖の涙じゃない。悲しみの、恋の涙だった。
「どうして泣くの? もう大丈夫なのに」
「先生は、せっかくお元気になったのに、こんな危険な任務をこなしていたら、また悪くなっちゃうかもしれないじゃないですか」
「え」
彼は凝らすようにわたしを見た。アイスブルーの瞳は怖いほどにわたしを見つめる。
「君は…」
「わたし、先生がまだ少年の頃に、会っているんです。公爵邸で療養されていたでしょう? それをわたし、窓から見ていて…」
「それは僕じゃない」
「え」
「僕じゃない。君が見たのは、兄のフィンだ。僕たちは双子だった」
「だった?...」
彼は目を伏せ、少し低い声でつぶやくように告げる。
「十四歳になってすぐに、亡くなった。だから、君がフィンを見たのは、亡くなる間際の一年ほどのことではないかな。その頃は、母の里の公爵家に療養していたはずだ」
初恋の君がイライジャ先生ではなかったこと。そして、既に本当の初恋の君が亡くなってしまっていたこと。
それらの事実は、わたしを打ちのめした。
わたし、一体何を見ていたのだろう。
何を信じていたのだろう。
肉の町でも、ずっと夢見ていた。青味がかった美しい金髪の、透けるような肌の彼を心に思い、会えないとは知りながらも、憧れ続けて来た。
何もなかったけど、何も望めなかったけれど。その憧れだけを胸に、わたしは頑張って来たのだ。
欲がない子だね。両親思いの働き者だね。偉いね、我慢が出来て…。両親や町の人々のそんな声をわたしは浴びて暮らしていた。
欲がないなんて。
あきらめるしかないから、ほしがらなかっただけなのに。
我慢が出来たのじゃなく、それしか選べないからだ。
そんなわたしの唯一の心の支えが、憧れの初恋の君の面影だった。それを思い描くだけで、頑張れたのだ。前を向けたのだ。
その初恋の君が、もういないなんて。
衝撃に、涙がほとばしった。子供のように泣きじゃくる。思いに没頭し過ぎて、抱しめられていたことにも後で気づいた。
「フィンが好きだったんだね」
「うん。ずっと、ずっと...」
「僕もそうだ。十年経った今も、忘れられない」
「あ、ごめんなさい。わたしなんか。家族でもないのに」
双子の彼らの絆の深さは、初恋を失ったわたしの比ではない。今頃、自分のみっともなさに気づく。
彼は首を振る。
「ありがとう。今もこんなにフィンを思ってくれる人がいて、うれしい。心からうれしい」
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