どうかしてるぜ
どうかしてるぜ
うとうとしていたら、あの人の声を聞いたような気がした。
あの人の吸っていた煙草を、酔い醒めに吸った匂いのせいだと分かった。
目覚まし時計がどこかで鳴ったような気がしたのに。
ドアのチャイムだった。
爪先を並べて、スリッパを履いた。
「ご主人が・・」刑事の二人連れが来た。
「あぁっ!」夫人は短い悲鳴を上げその場に平伏した。
「見ますか?」
「ええ」夫人はハンカチで口を押さえていた。
覆いがはがされた。
夫人は思わず顔をしかめた。
「・・恐らく、散弾銃か何か・・、三か所、・・銃声を聞いた者も、・・」
夫人はハンカチを開いて顔に当てていた。
「簡単な話でも、・・」刑事は夫人を奥へ通した。
「これがご主人の、・・遺品です」
刑事は古ぼけたモスグリーンのトランクケースを差し出した。
「あの人、これを、駅に忘れた、って、・・取りに行ったんです。私があの時、あんなに急かさなければ・・」夫人は目頭をハンカチで押さえている。
「ご旅行でも?」
「ええ。私達の結婚15年目の記念にって、あの人が・・」
「そうでしたか・・」刑事は肯いて、後ろに居た二人を外に出させた。
「お辛いでしょうが、何か思い当たるふしはございませんか。少しでも、気になることがあれば・・」
「いえ。あの人は、誰にも、・・」夫人は泣き出した。
沈黙の後、刑事はそっと夫人の肩を抱いて立たせ、「どうぞお帰りになって・・」と夫人を見送った。
夫人は秋の寂しい道をトランクケースを脇に抱え、泣きながら歩いて行った。
24時間営業の看板が点滅していた。
「遺失物管理に引き取りに来たのが午前11時53分。恐らく、ベンチに座って中を確かめていたんでしょうな。銃声に驚いて見た者も、誰も逃げる者を見ていない・・」
ハレーは気づいていた。
でも確証が足りない。
翌日、ハレーは夫人を訪ねた。
「ミセス、いえ、失礼。ミス・ロール」
夫人は少し驚いた顔をして、「ミズでいいんですよ?」と言った。
「いえ、ミス・ロール」ハレーは言い間違いではないことを強調した。
「お一人で淋しいでしょう?」
「あなた、お子さんは?」
「ハレーです。結婚もしていませんよ」
「まだお若いものね」
外からは子供たちが騒いでるのが聞こえる。
やっぱり、落ち着き払ってるな。
「ご主人の鞄、もう一度見せていただきたくて」
「ええ、いいですよ」
ミス・ロールはキャビネットの上に置いてあったトランクケースをハレーに渡した。
ハレーはしばらく触った後、鼻を近付けた。
ミス・ロールが指を組んだのを、横目で見た。
「いえね、これ昨日のですか?」
「は?」
「中に何も入ってない」
動機は何だ。
「火薬のような匂いもしたんですがねえ・・」
血は拭き取った。警察で。だがその跡も無い。
夫人はラジオをつけた。
後から陽気な音楽がついてきた。
空々しかった。
夫人が煙草に火をつけた。
「ご主人のですか?」
夫人は一瞬ためらった表情を見せ、「ええ、そうよ」と答えた。
「僕は煙草はやらないんですよ。昔から」
ハレーは続けた。
「ご主人とはどこでお知り合いに?」
「教会で・・」
たいしたタマだ。
「ご主人はどんな方でしたか?」
「優しくて、とっても几帳面で・・」ロールはそこで言葉を切った。硬い毛を手櫛で梳いてから、ラジオを消した。
窓辺に寄りかかると、子供たちを見ていた。
白状する気は、ないな。
「煙草の残り香じゃないかしら。あの人よく煙草吸ってたから」
「火薬と煙草の匂いは違います。間違えるはずありません」
「ならそうなんじゃないんですか?」
「火薬の匂いはちょっとやそっとじゃ消えないんですよ」
「知る訳ないじゃない」ロールはハレーの方を向いた。
「ミスター、何が言いたいの?」
シロってことはないだろうな。
「来たかいがありました」
乾いた風が髪を撫でた。
安い煙草を吸ってたな。
シラを切るつもりなのか。
いつまで続くかな。
夢?
部屋の中を鳥が飛んだ。
紙飛行機。
私は白紙の本を読んでいる。
「――、何してるの?」
子供の名前が出て来ない。
くぐもった声がしている。
私の子供だ。
多分。
料理をしたまま寝てしまった。
いつも二人分の食事。
増えもしないし減りもしない。
今日からは一人前でいいのだ。
食べ盛りの子供もいない。
涙は流れない。
顔だけ泣いている。
心は泣きたいのに。
心だけ泣いている。
表から子供のはしゃぎ声が聞こえてくる。
泣きたい。
「お呼び立てしてすいません」
ハレーは椅子を空けた。
透明な袋から銃弾を三つ抜き取ってロールの前に置いた。
「ご主人の、・・体内から取り出された欠片です」
ハレーも浅く椅子に腰かけた。
「不可解なのはね、ミス・ロール。薬莢が見つかってないんですよ」
ロールが何も言わないのでハレーは後を続けた。
「至近距離から撃たれたのは明白です」
「そんなに珍しいことなの」ロールが口を挟んだ。
「犯人が持ち去ったとしか考えられません。が、犯人は見られてません。一目散に逃げ去ったはずです」
「私は被害者なの? どっち?」
単刀直入だ。
「被疑者です」
「ずいぶんじゃない」
「本当は何したんですか?」
「どうもしない」
ロールは固く口を結んだ。
窓からは子供の遊び声が聞こえる。
目を逸らしたのか、ロールはそっちを見る。
公園のあるブランコ。
「子供さんお好きなようですね」
「大嫌い」
「あれ? でもなんか」
眼差しが優しいような感じがする。
「そうですか」
「アンチョビもオイルサーディンぐらい嫌いよ」
「僕はどちらも大好物なんですけどね。この頃、教会へは?」
「行ってないわ」
「それはどうして?」
「信仰に自由を奪われるから」
「そんなもんなんですかね」
何故だろう。ザワザワする。
「ミスター、あなたは?」
「私はすっかりご無沙汰で」
「幼児洗礼の時から?」
「ええ、まあ」
「多いわね、そういうの」
ふと遠い目を子供にやる。
「私の子供なら・・」
ロールはそう言いかけて、やめた。
「なんです?」
「何でもないの」
「子を作れなかった夫への恨みからの殺人?」
「ご執心じゃないか」
「疑いを残したまま、白になんて出来ませんよ」
「こんなに汗かいて」
そう、男の子だ。
「どこ行ってたの?」
「公園だよ」
「どこの公園?」
「知らない公園」
「後は凶器ですね」
「だからそれは・・」
「簡単ですよ」
「なにが?」
「血まみれのシャツを見ただけです」ハレーは鞄をパタンと閉じた。
「銃を作るなんて簡単ですよ」
「仕掛けるのはもっとか」
「夫婦ゲンカなんて一度もしたことがなかったそうですよ」
雨の音がうるさい。
「当たってみます」ハレーは電話を掛けていた。
「ジャム作ったの。食べる?」
「要らないよ」
ロールはトーストだけを食べていた。
「その、ジョニーだかジャニーだかの職業は?」
「
ハレーは直属の上司と話していた。
声を潜めた。
「退役軍人です」
「銃も作れるのか」
ハレーは肯いた。
「「頼まれたから作った」と」
「証言できるのか?」
「「さあね。何も約束できない」と」
「ジョニーだかジャニーだか・・」上司はため息を吐いた。
「ついてこないでよ」
ロールは妊婦を見て思わず顔をしかめた。
なんて醜い。
「ママって呼んで?」
灰皿まで手が届かない。
昼寝が日課になってしまった。
灰をこぼす。
ハレーが一人で来た。
同じ型のトランクケースを持っていた。
色違い。
「旅行に行く前にすり替えておいたんですね」
ハレーがそのトランクケースを開いた。
「僕が見たのはこれくらいの大きさでした」
少し狭い。
「注文しただけです」
ロールは黙って聞いていた。
「上げ底だ。何も入っていませんがね」
遠くで笑い声が聞こえる。
「残念です」
「ガイ者って殺害者?」
ハレーは少し笑った。
「女性刑務所に、と」
ロールは肯いた。
「あなたは? これからどうするの?」
「さて、・・遠くにでも行ってみましょうかね」
「どこでもいいじゃないの。行ければ」
「ちょっと待ってて」とロールは二階に上がっていった。
「ミルクよ」ベッド脇に置く。
湯気をため息で吹き消した。
下りてきたロールはアイボリーのツイードのジャケットを着ていた。
「やっと出来たと思ったのに」
「上物ですね」
「一生のお付き合いですもの」ツイードの襟を立てた。
「私が欲しかったのは平凡なの。それのどこが悪いの」
ジョニーともジャニーとも判別しかねる発音で、「さあ、ジョニー。お行きよ」と少年が庭にアオガエルを離している。
「行けったら」
少年はカゴの蓋を閉め、立ち上がった。
「ジョニー。ああ、ジョニー」
食事を終えて、自室に向かう。
ベッドに本をパサッと放りなげて少年は呟く。
「お母さんは綺麗だな」
音楽に包まれて見える家。
音楽に
今日は特別に静かだ。
女神がほほ笑みかけるようなこの家で。
いつもは無表情なのに。
「オヤスミ」
今夜のことは。
粉雪が降っていた。
ハレーの唇からため息が零れ落ちる。
「転んでもタダじゃ起きないダルマニウム」
ロールはハレーに連行されていた。
署に引き渡す。
「手の離し方が上手いわね」
ハレーは自分の指を見た。
「芸術家みたい」
「マダム」
ロールは雪のひとひらを舌の上に載せ、笑った。
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