SHARAKU

SHARAKU



 描くは修羅の道。進むも地獄、引くも地獄よ。


人影が立つ。飛草ひそうに抱かれて娘、篠芽しのめは月を見ていた。まるでその手は絵筆を持っているかのようだった。

江戸の末期、飛草は特に役者絵を得意とした自分の工房を持っている浮世絵師だった。

洒落臭いのアナグラムから写楽と号を取った。写楽は工房の名だ。

「絵は楽しくなければいかん」が常で、民草の中では人気があった。

その筆致は自由闊達、豪放磊落で他の畫業の者にとっても一歩抜きん出ていた。

工房は飛草の肉筆を刷り画にするのだが美人画や錦絵、果ては春画まで民草の求めるままに多岐に及んだ。

篠芽の母は誰も知らない。時は浮世、飛草が誰と子を生ませようが男の甲斐性と夜は言っている。

子を育てるだけ偉い、と写楽の名はそうなると高まるばかりであった。写楽の工房はどぶ川にせり出した町屋だった。

夏は暑く、どぶ川の匂いが鼻につく。ひっきりなしに門下生はやって来るが飛草の目に留まるのはごく少数だった。

そのどぶ川にはぬしが棲んでいる。はんざきが誰も見たことはないが岩の陰に隠れていると言う。はんざきは大きくなった山椒魚で半分に裂けても生きているという。

そのはんざきが動き出す夜中、飛草が篠芽に英才教育を施すことはないが、墨を擦り篠芽に絵筆を持たせる。飛草はただ見ているだけだ。

篠芽は器用に陰と陽を描き分け、筆先に付けた墨で鼻を塗った。紙に覆い被さるような憑かれた背中はもうどんな門下生も凌駕していた。

上手く描けたら牛皮しかやる物がないが、一緒に月を眺めながら食べた。

篠芽は父の匂いが大好きだった。指にすり込んだ顔料の匂いと、汗が染み込んだ甚平がとりわけ好きだった。

釉薬が溶け出すような夕焼け、飛草は腰を上げる。鮮やかな赤の半纏を羽織り、町を歩く。描くのは人々だ。絵描きの目と現実とは違う。

その頃、写楽の板間で篠芽は立て膝を突いて鬼の目をしていた。どうも違う。

一枚の紙から浮かんでくる絵と目に映る絵が重ならない。

土間に並んである草履を避けて、飛び石に裸足で乗った。跳んでいるとどうも違う。

土に足を乗せると涼風が吹き抜けた。両足を付く。

土壁に手を付いて、魚になった気分に目を閉じて身を任せる。

板間に駆け上り版木を踏みつけ、一本の線を描いた。これだ。篠芽は鼻血が出た。

ボタボタと赤い点が線の横に広がる。

それはまるで青背が悠々と浮世を縫って泳いでいるかのようだった。

「わしはもう絵は描かん」一目見て飛草は言った。

「私は魚だったんだ」篠芽は牛皮を貰えるとばかり思っていた。

「後の事は篠芽に任せる」碁盤に白が勝った情勢が残されたままだった。



 飛草が度々、酔い潰れて助け起こされるのが目にされるようになってきた。

その頃から、写楽は篠芽なのではないかと噂が立っていたが、役者絵は飛草の筆致に違いなかった。

飛草は腕が震えてもうまともな絵を描くことができなかった。

「余計な事しやがって」

「誼よ」

写楽は今日も写楽の浮世絵を刷る。

はんざきを一度見たいものだが、宵越しの銭は皆、飛草の赤ちょうちんに消えた。

せっせと描いても、「どっこらせ」と飛草が腰を上げるとその日の取り分はなくなる。

どぶ川に網をかけて篠芽は朝市にも出かける。篠芽が描くのは青背ばかりであった。

コノハダをどぶ川に浮かべ夜明けまで描き続けた。

朝方、門下生が飛んできて飛草が死んでいると言う。

飛草は水飲み場で倒れていた。

「布団の上じゃ死なせないと思っていたけどね」篠芽は飛草を助け起こした。

「お父さん」

飛草は篠芽が火傷するほど熱かった。

「家督を継いでくれ」飛草は熱にうなされて言った。

霍乱だった。服を全て脱がせ、窓を開けて風を送った。涼風はその日は吹いてこなかった。

「描くは人の群れ、描くは人の道よ」それが飛草の最期の言葉になった。

「絵は修羅の道。進むも地獄、引くも地獄よ」篠芽は汗にまみれた甚平を干した。

鮮やかな赤の飛草の半纏をまとうと篠芽は、「写楽は人に任せる。私は私の道を行く」と門下生たちに告げ、一画を借りて絵を描き続けた。

それはどれも似たような青背で、素人には見分けがつかなかった。

すぐに、写楽の名声は落ちたが篠芽が手を貸すことはなかった。

次々と門下生が離れる中、篠芽は紙から絵筆を離さなかった。

果てしない欲望がある。もっといい絵を描きたい。この恨み晴らさでおくべきか。

篠芽が描く青背は死んでいたが目は活きていた。赤い半纏には鳳凰が飛び、その背中はもう往年の飛草を凌駕していた。

誰もいなくなった写楽で、篠芽は半纏を脱ぐ。下の飛白も脱ぐと背中が青くなっている。

月を仰ぐと目回めまいがした。

「空が青くなる」と呟いた。

宝永大噴火である。その噴煙は江戸に甚大な被害をもたらした。

降灰はどぶ川に降り積もり、空を覆うと江戸は寒冷の渦に巻き込まれた。

ぬしのはんざきが川から陸に這い出てきた。



 篠芽は茅舎を建て、そこで暮らした。来る日も来る日も青背を描き、写楽は割り箸が喉に突き刺さって死んだ。

いつの頃からか、篠芽の指間膜は広くなっていた。どの絵にも満足できず、茅舎の中は水の中のように青背の絵でいっぱいになった。

雨ざらしの青背の絵は次第に浮いてきた。寝食も忘れ描き終わった青背はどぶ川に流した。

茅舎に誰か住んでいるのか誰も知らなかった。江戸も落ち着きを取り戻した頃、篠芽は写楽に寄ってみた。

そこは荒れ果て、過去の栄華が嘘のようだった。篠芽は一人で版木を削り、自分の青背を刷った。

手で紙に擦り取り、昔の美人画や役者絵で培った彩色を施した。

青は青ではなく魚は魚でなかった。熱い。人間に触られた魚のように熱かった。

鬼の目は和らぎただ青背を擦る音がする。

外では細雪が目庇を濡らし灰を洗い流し空を青くした。

手は楽しくなければいかん。飛草の声がした。

青背の浮世絵ならぬ物が町中に放られた。「何にでも使ってくれ」

篠芽は茅舎に帰って行った。腐れた青背が腸だけ食われていた。

篠芽は鼻血を出した。そのまま急いで紙に落とすと絵筆を持ちランチュウを描いた。それは飛草だった。

舌には牛皮の味がした。月を眺めるのを忘れていた。

茅舎から見る月はあの日と変わりなく茅舎の屋根が抜け落ちても月の背はいつも青い。

篠芽は賑やかだった写楽を思い出すのだった。そこには父の背があり裸足で駆け回る門下生がいた。

汗とどぶ川の匂いが混じり、墨を擦る音、壁には漉かれた紙が何枚もかけられていた。

全て夢の中だったのか?

目回がした。篠芽は茅舎の中へ倒れ込みランチュウを指でなぞって息絶えた。

青背ばかりがヒラヒラとまるで泳いでいるかのように涼風に揺れた。

篠芽の足の先には進むも地獄、引くも地獄の悲愴な月の光が当たっていた。

もう茅舎の中に誰が住んでいるのかはんざきが棲んでいると言う。

半分に裂けても生きているという。

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