第2話 白い犬と浅葱色の羽織の女

 私は剣のつかに手を掛けた。


 身構えた私を見て恐れたのか、その犬は急停止し地に臥せた。仰向けになり腹を見せている。


 降伏を示しているのだな。なかなか潔い犬だ。


 私は柄から手を放した。


 犬はひっくり返ったまま舌を出し、ハッハッハッと呼吸しながら頭部を必死に地面に押し付けて、何かを覗いてい……る……!


 私は剣を抜いた。


「この不埒ふらちな犬め! 私の草摺タシットの中を覗いているな!」


 タシットは腰当から提げられた腰回りを防護する鎧部位だ。この犬はその中を覗こうとしていた!


「狂い犬め。よかろう、貴様もその男たちと同類だ。このドレミマツーラが成敗してくれよう」


 私は剣を振り上げた。


 その犬は腹を見せたまま、うっとりとした表情をしている。少しも可愛くはないし、その体勢だと、見たくない物も見える。不愉快だ。斬ろう。


 私が一歩前に踏み出した時、その犬は頭を持ち上げた。鼻を動かす。


「おのれ。今度は私の体臭に酔うか! 我は女ぞ! レディーに向かって失礼極まる! 死をもって償うがよい!」


 と、私が気色ばんでいる途中で、その犬はくるりと体勢を戻して立ち上がり、今にも飛び掛からんとする姿勢で力を込め、牙をむいた。喉を鳴らし、何かを威嚇している。私の方を向いてはいない。何だ?


 私は振り返り、その犬が鼻を向けている方を覗いた。


 漂い始めた夜霧の向こうに人影が見えた。薄闇に溶け込む浅葱あさぎ色の人影。


 私はその人影にただならぬ殺気を感じ取った。剣を握る手に力がこもる。


 その人影の方から、ゆっくりとした声が届いた。


「無用な殺生は、やめよし」


 女? 足音も無く近づいて来るその女の姿が霧の前に浮き立つ。


 見たことのない装束だった。前合わせの襟の前に赤い胴当ての鎧らしき物を装着している。下はえらく幅の広いズボンだ。履物もわら編みのスリッパ。一番上に羽織っているめた青に近い色の上着は腰まで隠す長さで、その袖は、やけに広く、袖口に白いギザギザのダンダラ模様が付いている。


 私は剣を構えたまま、その奇妙な格好の女に言った。


「怪しい奴。何者だ。名を名乗れ!」


 月明かりがその女の整った顔を照らす。女は静かに微笑んでいた。


「怖いわあ。お犬はんも生き物や。むやみに殺したらあきまへんえ」


「何を言うか。この犬は稀代の破廉恥犬。生かしておいては、この国の女にとって……」


 私は犬の方に顔を向けた。犬はあの女の方にハート形の目を向けていた。こやつ、相手が女だと分かった途端に態度を変えたな!


 すると、ダンダラ羽織の女がその犬の傍に寄ってきて、隣に屈んだ。女の羽織の中に長物が形を浮かせている。この女、剣を持っているのか!


「羽織の中に携えているのは何だ!」


 女は犬の頭を撫でながらニコリとして答えた。


「何でっしゃろなあ。――こらっ」


 女の臀部に鼻を近づけようとした犬を女が叩いた。飛ばされた犬は通りを横切り、倉庫の壁に激突する。犬は壁の中に埋まっていた。


 この筋力! すばらしい!


 月明かりの中、女がスラリと立ち上がる。


 私は少し興奮気味に言った。


「なかなか出来る戦士と見た。その力は、鍛錬を積んだ筋肉の証だ。見慣れぬ格好だが、もしや、異国から来た傭兵なのか?」


 女は微笑みを崩さない。


「そやったら、どないしますの」


「入国証を見せてもらおう。携えている武器も。私はこの国の軍で軍事顧問をしているドレミマツーラだ。一応は軍の一員として、密入国者でないか、身元を確かめる必要がある」


「嫌や、言うたら?」


「力尽くで見せてもらう事になるな」


 私は剣を構えた。女は動かない。しかし、躰の中心線は私が肩の前に立てた剣と同じ角度の直線上に合わせている。この女、できる!


 私がそう思った瞬間だった。女は一瞬で間合いを詰めてきて、私の視線の先で体を捻った。閃光が目の前を横切る。私は反射的に剣の角度を変え、三角筋と上腕三頭筋に力を込めた。私の剣が女の刃を受け止めていた。


 それは見たことも無い剣だった。細く、長く、反っていて、片刃の剣だ。切先は鋭く、そこから落ちる刃は薄く研がれている。その表面の波模様が月の光を美しく反射していた。


 女の剣を力で押し返した私は、剣を素早く振って後退し、再び女と間合いをとった。


 顔の前でまっすぐに立てた剣の向こうで、女は穏やかに言う。


「ウチの太刀をこない綺麗に受けましたんは、あんたさんが初めてどす」


「正しいトレーニングで作った筋肉は正しく反応する。筋肉は決して裏切らない」


「筋力よりも、力の伝え方が大事どすえ」


 また一瞬で女が間合いを詰め、今度はまっすぐに突いてきた。私は女の剣を自分の剣で払い退けると、女の体をかわして、そのまますれ違った。大腿四頭筋と外腹斜筋を使って体を反転させ、同時に振り返った女の僧帽筋の上に剣を振り下ろす。


 勝負はついた。一瞬、女のさっきの言葉が頭をかすめる。


 ――無用な殺生は、やめよし――


 私は女の肩の上で剣を止めた。私の首の横で女の剣も止まっていた。


「フッ。引き分けだな」


「ほんまやなあ」



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