賢女イリスの覚え書
二枚貝
皇太子アルヴェルディス
第1話 真夜中の来訪者
その夜、大帝国レーヴェリアの帝都シルグレンを駆ける、一台の馬車があった。
いかにもお忍びといった様子の二頭立ての馬車は、飾り気もなく、紋章もなく、といって流しの辻馬車ではあり得ない手入れの良さで、ことに馬の上等さといったら、見る目のある者がいたら息を呑むだろうと思われるほどだった。
馬車は帝国一の繁華街を通り過ぎ、貴族の邸宅が並ぶ高級住宅地も通り過ぎた。帝都公園も、軍の官舎も通り過ぎて、どこを目指すのかと思えば、白亜の大神殿の裏門に入ってゆく。言うまでもなくこの建物こそ、大帝国の守護と信仰をの中心地たるレヴェリアス大神殿であった。
馬車が留まると、ひとりの青年が中から現れ、神殿の前に降り立つ。よく手入れのされた金の髪を覆い隠すようにフードを目深にかぶって、足早に神殿の貴族用出入り口へと姿を消す。
世も更けてひとけのない、しずまりかえった神殿の内部を、勝手知ったる様子で青年は進んでゆく。回廊を曲がり、中庭を横断し、そうしてたどり着いたのは、ひとめでその歴史が見てとれるほどの重厚な造りをした小聖堂であった。
青年は扉に手を掛ける直前、ほんのわずかにためらう。だがすぐに短く息を吐くと、力を込めて、その扉を開いた。
小聖堂の中にはひとりの人物が、祭壇の前にひざまづき、今まさに祈りを捧げているさなかであった。暗がりの中、明かりもつけずに月光だけを頼りとして、乱入者の存在に目もくれず祈り続けている。長い長い銀の髪が織物を敷いた床の上にまで広がっている。女性、それもまだ少女と呼んでいいような、どこか幼さの残る顔立ちをしていた。
「――――大聖女よ!」
青年の大声が神聖なる静寂を乱した。彼は少女のもとへ駆け寄ると、がばりとその場に身を伏せ、額を床にこすりつけるようにして平伏した。
「賢女イリスよ、どうかお力をお貸しください! 貴方の賢明さと叡智でもって、このレーヴェリアをお救いください!」
さすがに少女――イリスと呼ばれた彼女は祈りを中断し、青年へと顔を向けた。だが、紫水晶のように澄んだ双眸はわずかに焦点を欠いている。
「そのお声は……皇太子殿下、でございますか……?」
少女は小首を傾げてみせる。こんな夜更けに、しかも祈りの最中の乱入がどれほどの非常識に当たるかなど、世間慣れしていない彼女であってもさすがに分かるだろう。
「いかにも、皇帝エンリル2世が長子、アルヴェルディスにございます! このような形での訪問、非礼平にお許しください……っ!」
青年はますます頭を強く床に押し付ける。見えずとも気配で察したのだろう、ほんの少し、少女は困惑の色を顔に浮かべる。
「まあ、そのように慌てておいでだなんて。いったい、何かございましたの」
「この国の未来を左右する、一大事でございます。賢女イリス、もはや貴方にお縋りするより他に、私には手立てがないのです」
賢女と呼ばれた少女はわずかに微笑を浮かべた。まだ年若い世継ぎを安心させるかのように。
「殿下。まずは、お立ちください」
「いいえ大聖女よ、どうかこのままで――」
「立って、案内してくださいな。わたくしのこの目ですもの、ひとりで歩くには不自由してしまうの」
そう言われれば、気まずそうな顔をした皇太子は、その通りにするしかなかった。この国でもっとも高貴な女性のひとりを相手に、さすがの次期皇帝といえども、普段のような態度には出られない。
「それに、神の御前で俗世の相談ごとなど、罰が当たってしまいます。ですから、まずはここを出ましょう。お話は、それから聞かせていただきますわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます