禁句禁止

そうざ

Ban Taboo

 カツゾウにとって初めての入院だった。

 これまでは大病はおろか、三十年勤め上げたタクシー会社も体調を理由に休んだ事は一度もない。

 健康だけが自慢のカツゾウは、元来一所でじっとしているのが苦手な性質で、高々数日の検査入院でも退屈極まりなかった。病室に居るというだけで気が滅入りそうだった。

 商社勤めの一人息子は海外赴任が多くて留守勝ちだが、身の回りの事は同居している嫁のシズカがやってくれるから不便はない。女房が死んでからというもの、シズカは何かと世話を焼いてくれる。結婚前は広告モデルをやっていた時期があり、近所でも評判の器量良しなのだった。

 半年程前、そろそろ仕事をリタイヤし、残りの人生は古女房とのんびりと暮らそうと思っていた矢先だった。女房は脳溢血で呆気なく逝ってしまった。

 仕事と連れ合いを同時に失った事が流石に堪えたのか、カツゾウは体調の優れない日々が続いた。

「お義父さん、一度調べて頂いた方が良いですよ」

 根っからの病院嫌いではあるが、妙に広々としてしまった家で特にやりたい事も浮かばない。カツゾウはシズカの提案を受け入れたのだった。


              ◇


「読書でも如何ですか?」

 その日、カツゾウの個室にやって来たシズカは開口一番、満面の笑みでそう言った。片手に分厚い本を抱えている。

「本なんか真面まともに読んだ事がないよ」

「退屈凌ぎになるかと思ったんですけど」

 図書館から借りて来たものらしく、小口が黄ばんでいる。中々の分厚さで、内容が想像出来ない抽象的なタイトルだった。ぱらっと捲っただけで、眠気が襲いそうだった。シズカが帰った途端、カツゾウは老眼鏡と一緒に枕元に放り出した。

 シズカの甲斐甲斐しい姿を見るに付け、愚息には勿体ない良い嫁だとは思う。ただ、少々お節介なところがあり、良かれと思っているのだろうが、相手の気持ちを察する思慮深さが足りないようにも感じる。それに何処か抜けている。おっちょこちょいと言えば可愛らしいが、唖然とさせられる事もしばしばなのだった。


              ◇


 入院の前夜、風呂に入ろうとした時の事だ。

「そうだ、昨日は宝籤の当選発表だったな」

 宝籤は特に趣味のないカツゾウの細やかな愉しみだった。台所で洗い物をしていたシズカは、カツゾウのこの何気ない呟きを聞き逃さなかった。

 カツゾウが風呂から上がると、茶の間の座卓に宝籤の束と新聞、老眼鏡が揃えられていた。カツゾウはいつも茶の間の戸棚に私物を仕舞っていて、シズカもそれを知っているのだ。

 機転が利くな――カツゾウはよっこいしょと座卓に着き、老眼鏡を掛けた。当選番号の確認作業こそ至福の一時ひとときだ。高額当選など夢のまた夢とわきまえつつ、もしやという期待感が堪らないのである。

 宝籤の束を手に取った時、カツゾウは一番上に紙が添えてある事に気付いた。

『50組の378411262。6等の三千円が当たっていました。他は残念でしたが、また頑張って下さい』

 カツゾウは言葉もなく老眼鏡を外した。


              ◇

 

 レントゲンで胆石らしきものが見付かった。更なる精密検査の為、入院期間が延長になった。医者は、結果次第で手術になるかも知れないと言った。

 酒も飲めなければ煙草も吸えない。取り敢えず新聞を隅から隅まで読むのが日課になった。

 不図、テレビ欄に目が留まった。

「今夜、ボクシングの世界タイトルマッチがあるんだな。家で録画しておいてくれないか」

「分かりました」

 シズカは二つ返事で引き受けたが、カツゾウは何だか心配だった。ちゃんと機械を操作できるだろうか。新聞のテレビ欄を見せ、チャンネルや時間をしっかり伝えものの、シズカは機械の扱いが大の苦手で、家電が動かないと騒いでいると思ったらコンセントが入っていなかった、という事が日常茶飯事なのである。

 翌日、カツゾウは朝一で病院から電話をした。

「無事に録れた?」

「はい、ばっちりです。放送時間にちゃんとテレビの前に居ましたし、録画した後に再生して確認しました」

「そうかそうか、それは良かった」

「凄かったですよ~、赤いパンツの人が白いパンツの人を思いっ切り殴って倒しちゃいました!」

 受話器を持つカツゾウの手から力が抜けて行った。


              ◇


 退屈極まりない。

 何とか気を紛らせようと、ずっと放ってあった例の本を手にした。連続殺人事件が起き、素人探偵が捜査に乗り出す話だった。推理小説なんぞに全く興味のないカツゾウだったが、意外にもページを捲る手が止まらなくなった。いつの間にやら日が暮れ、いよいよ物語が佳境を迎えた頃にはもう就寝時間だった。

 完璧だと思われたアリバイが崩されつつあったが、踊る心を抑えつつ栞を挟もうと次のページを捲った際、余白に何かが書かれている事に気が付いた。カツゾウは外した老眼鏡を掛け直した。

 本文の登場人物に丸が付けられ、ページの隅へと矢印が引かれている。そこに手書きの文字があった。

『この人が犯人ですよ』


              ◇


「お前は言われた事だけをやってりゃ良い。今後は一切、出しゃばるな!」

 翌日、カツゾウは病室にやって来たシズカを頭ごなしに言い放ってしまった。

 流石にあの書き込みはシズカの仕業ではないだろう、と信じたかった。不特定多数が借りる図書館の本だ。過去に悪質な利用者が居たのだろう、と考えたにも拘わらず、ここ最近の溜まりに溜まったわだかりと入院期間の延長とが相俟って堪忍袋の緒が切れてしまった。仕事柄、横柄な乗客にも愛想を振り撒き続けたカツゾウのたがが遂に外れた瞬間だった。

 シズカは口を閉ざし、最低限の身の回りの世話をそそくさとこなすと、早々と帰り支度を始めた。

 カツゾウは堪らず口火を切った。

「……さっきの事だけど」

 シズカの肩がぴくんと動いた。そして背中を向けたまま言った。

「肝に銘じました。今後は言い付けを守ります」

 心なしか潤んだ声だった。いつもの溌剌さは失われていた。

「……分かれば良いんだ、うん」

 結局、カツゾウは詫びるタイニングを逃し、その内に折りを見てと先送りにしてしまった。


              ◇


 以降、カツゾウはシズカに何かを頼む事も、問いただす事も、増してや小言を食う事など一切なくなった。

 それから三ヶ月ののち、カツゾウは胆嚢癌が元で還らぬ人となった。

 既に深く忍び寄っていた病魔の存在を知ったのは、カツゾウ本人も一人息子でさえも事後だった。

 シズカは医師の宣告を胸に秘め通し、義父の言い付けを全うしたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

禁句禁止 そうざ @so-za

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ