04.11|あきらめ、という断定

 

漠然と、漠然とだが、自分のものの受け取り方はなにか、他者が書いたホンを読んで、そのホンの拡張物となるためになにかを模索するときの事柄が近しいのかもしれない、と思った。どうすれば受け取れるのか、こうなのでは、というような。―――などと云々を書き込んでしまうわたしの、なにかの勝手なる理解者めいた特性付けで自己を表すのが嫌になる。こんなものはどこまでも勘違いをしている人間の所作でしかない。自我の肥大でしかない。


わたしは、わたしというものに自信がないから、こうなっているような気がする。「うかがい」のニュアンスが一種、近しいのかもしれない。顔色をうかがう側面がわたしにはあるから、そうなのかも、と思っただけではあるし、結論としてそこへゆきつくからこその論理展開とも感じる。


言葉として結論がなにかみえているときの、前半部のさぐり、筋道の断定、みたいなものは、どうしても危険なものがある、と勝手に思っている。思っているが、筋道を立てなければならない心理(というか、人間の思考方向としての、事象に対して自己心理が結論を付けようとする動き)は崩壊を招かないためには必要なことであるし、疲労から解放されるためにもそうなってゆくものであろうと思うから、模索、は模索でも「答えは出ない」という結論を前提にする場合もあると思う。これもこれで帰結してゆく。


先延ばしがひとつそうであり、失敗をしない、ヘマを侵す選択肢をそもそも選ばない、というものひとつ、そうだろうと思う。思慮なり憂慮なりがあるとして、けれど、それははたして本当になにか、思考的なものなのだろうか、というか、なんというか。うまくいえないのだけれども、なぜそのようにして混迷してゆくのか、という心理がある。人間はかならずどこかに着地しないといけないのだとして、そのほうが普遍なのだろうが、そうでないなにか、ひとつ、あてはまらないものがあるのにそれをなにかにカテゴライズしてゆくことでしか会話ができないとするならば、それは、どうしても、悪しきものになってゆく気がする。これもまたそうである。


わたしにはわたしがあるのだろうか。あるとしてはたして、それはわたしであるなどと勝手に申し上げてよいのだろうか。なにもわからないが、なにもわからない、と口癖のように言ってしまうあたりが短慮であると感じる。むずかしい。いろいろなものを嫌悪したり怒りを思ったりするし、無責任に当てつけで叫びたくなる場合もあるが、それは逡巡でしかない。でしかないから、根本があると思ってはいけない。あくまでも、わたしの場合は。


などと、ぼんやり感じたが、やはり身勝手で横暴である。勝手な発想である。こんなものは、おそらく、ほんとうはあまりよくないのだろう。漠然とした、どうするのがよいだろうか、という思考。あまりよくない。とはいえ結局のところ、ぼくは今後もこうなのだろう。考えているようで考えていない。それが主になるのだろう。戻ってしまった。自問自答的で申し訳ないが、今日はそういう日記だった。まだ朝だから、日記ではない気もするが。

 

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