03.28|書く

 

最近日記を書いていて実感したが、ものを書くときは「書こう書こう」と思うとまったく書けなくなる様子だ。いや実際は書けるのだが、書いた文章がなんともまとまりのないなにかになることが多い。これはたぶん、頭の中に浮かんでくる文言を捕まえて書くのでなく、無理矢理にでも文字を塗り込めようとするからそうなるような気がしている。いま現在はどちらかというと、浮かんできた文字だけをぱっぱと掴んで書き込んでいるから、文章の質感としては比較的ましなのかもしれない。


けれども、なんというか、これはあくまでも現状のわたしがそう思っているだけであって、実際わたしの文章を読んだ方々がわたしの文章をどう思うかは、わたしの意志とか意識とかが介入できない、まったく別のなにかによって判断されることになる。自分なりの「これはよい」「これはわるい」があるとしても、それが読んでくださる相手にとって「よい」「わるい」の感覚通りに受け取られるとは限らない。


とすると、限らないのだったら、いま自分の書いている文章なんていうものになにか特別なこだわりを持ったって仕方がないのではないか、という考えが浮かんでくるが、そも、わたしは文章がうまいわけでなく、どちらかというとしっかり悪文書きの部類に属しているはずだから、そこをさぼるとどうしようもない文になる率が高くなる。最初から悪いものを出力していることになるので、せめて一回くらいは読み直しと書き直しが必要なのである。小説や、なんらかの作品の感想を書くときなどは特にそうで、そうしておかないとわたしの文章は基本的にまとまりがなく、言い回しも妙になるから、とりあえずは音読などして、文の様子をみるしかない。


みるしかないのだが、いかんせん最近それら見直しがしんどい。なんらかのラインをもうけて、それに至らなければ不合格で、至っていれば一応合格、みたいな判断を自分に対してくだすことができなくなってきている。あまりよくない。集中力が年々なくなってきているせいとは思うのだが、こんな感じだとわたしが四十代、五十代になるころには、もうなにもかもより無気力になっているのではないかと、不安になる。そも、生きているのかも不明だ。


無気力というもの、無に近付いてゆく心理に、わたしは抵抗できるのだろうか。そもそも無じゃないかあなたは、ともなるし、なにかを有していると考えるほうが間違いだともなってくるから、なんにしても、まあ、朝のラジオ体操や夜のランニングのように、書くことを日課、習慣にするのがいちばんなのだろうなと思った。


と、安直な考えに着地したところで、今日の日記はおしまいだ。明日もなにか書けるだろうか。漠然と現状が不安だが。

 

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