境界屋
瀬野しぐれ
草の縁
草の縁 壱
自身の故郷である札幌から南へ一五○キロ、函館の地に少女は居た。
数か月前からこの町に住み、大学へと通っている彼女の名は「
しかし、この物語において重要なのは彼女の学歴などではない。本当に大切な部分は、とある男と出会うところからである。
――初夏。
転々とした雲が青空に浮かぶ心地の良い天気、そんな日には誰しもが外に出たくなるもので。霊道も研究室から足を延ばし、函館の中心地付近に鎮座する亀田八幡宮へと足を延ばしていた。
白地の石鳥居が凛とした空気を醸しており、川や水路が無い中で地面へと架けられた意味ありげな小橋が雰囲気を一層強く発している。
霊道は鳥居を抜けて橋を越え、大晦日になると出仕者がずらりと並ぶ木造の長屋を脇に歩く。
「へえ、この神社には本殿がいくつもあるのね」
境内の中心に立った霊道を囲むように、拝殿と本殿が四つも並んでいる。
実際は二つを除き別々の神様を祀った社なのだが、化学……もとい科学に没頭してきた彼女が興味を示すところではない。
難しいことは考えず、ただ日本らしい空気に浸りに来たのだ。
それはそれで良いのだが――
「えっと、確かお金を入れるんだったかしら」
あろうことか彼女は神社参拝もおぼつかず、全てにおいて未経験だったのである。
財布を取り出しながら賽銭箱の前で右往左往していると、見兼ねた一人の男性が背後から声をかけた。
「あんた、もしかして神社に来るのは初めてか?」
突然の声にびくりと肩を上げながら振り返ると、そこに立っていたのはくたびれた服装の気怠そうな目をした男。身長は平均的で髪を後ろで束ねている、どこか清潔感に欠ける人相であった。
「参拝方法は人それぞれだが、初心者っていうならこれも何かの縁だ。俺流にはなるがやり方を教えてやろう、どうだ?」
「え、と……お願いします」
赤の他人という事もあり妙に馴れ馴れしい男の態度に気圧される。
しかし相手も親切心で教えてくれるのだ、と霊道は黙って従うことにした。
「まず賽銭を左手に持って、投げるんじゃなくてそっと流し込むように賽銭箱へと入れる」
「左手で持つ意味は?」
「日が登るのは天子から見て左、
「なるほど」
畑違いとはいえ理由があるとなれば興味をそそられる。これも研究者の性であろうか。
少しずつ楽しくなってきた霊道は、自分でも意外なくらい真剣に彼の話を聴いていた。
「次に
「神様を呼ぶんだっけ」
「そ、あとはインターホンみたいに挨拶って感じだな。アドバイスするとしたら鈴から伸びてる鈴緒を振るんじゃなくて、たゆませるように上げ下げして鈴を打つつもりで鳴らすと良いぞ。振ってもあまり音が出ないからな」
「覚えておくわ」
説明を終えると男はおもむろに一歩下がると、二回お辞儀した。
頭を上げた男がちらりと視線を霊道に向ける。恐らく、真似しろという事だろう。
ぎこちない動きで二礼した彼女は男と共に柏手を二度鳴らした。
「ここで祈る。基本は挨拶だがどうせなら祀られている神様の名前を呼んでやるといい」
「私、神様の名前なんて知らないわよ?」
「この神社の名前は憶えてるか?」
「亀田八幡宮」
「そう、八幡宮という事は御祭神は
「それは学問も入るのかしら」
「勿論」
研究者として、学者として。知識への貪欲さを才能とし、伸ばし続けたいと願う霊道。そんな願いが届いてか否か、ここから彼女は様々な未開の智を得ることとなる。
この男によって――。
「祈り終わったなら一礼、これで終了だ」
「意外と簡素な手順なのね」
「まあ、突き詰めればキリがないからな。明治時代に神社作法を統一しようっていう動きがあって、結果的に二礼二拍一礼が基本形になったわけだよ」
なるほどと頷きながら彼女はスマホを取り出した。
タタタと指を走らせて開いたのはメモ帳アプリで、初めて知った知識や興味のある内容は後から調べられるように備忘するのが霊道の癖であった。
すると慣れた手つきで黙々と文字を打ち込む彼女の肩に、突然男が手をかける。
「え?」
「ちょっと下がれ!」
焦るようにぐいっと霊道を引き寄せる男。勿論のことバランスを崩した彼女は男の胸元に寄りかかるようにして後ろへと倒れ込んだ。
いきなりの出来事に数秒のあいだ硬直した霊道だったが、すぐ様男から逃げるように離れて距離を取る。
「ちょっと、いきなり何するのよ!」
「あー……いや悪い、そのまま立ってたらぶつかりそうだったもんでな」
「あのね、人なんてどこにも居ないじゃない」
言い訳をする男を睨みつけながら参道を指さす。
確かにぶつかるほどの参拝客などどこにも居ないし、何なら人が十数名横並び出来るくらいの広さを誇る道。男の言っている事が滅茶苦茶なのは明白であった。
「いざという時には警察を呼びますので、一応名前を教えてください」
敢然たる霊道の態度に男は大きくため息をつきながら頭を下げた。
「悪かった。俺は
「……意外と古風な名前ね」
総司郎は額をぽりぽりと掻きながらばつが悪そうに語り始めた。
「あまり癖をつけさせるわけにはいかないから深くは言えないんだが、あんたの立っている場所は参道のど真ん中なんだよ」
ハッとして霊道が足元を見ると確かに参道の真ん中。彼と会話してメモを取っているうちに、いつの間にか歩み出てしまっていたのだろう。
「そういえば前に何かで読んだわね……参道の真ん中を通るのはマナー違反だって」
「そう、真ん中は神様の通る道だからな」
「それじゃあ何、私が神様……えっとほんだわけさん? とぶつかりそうになったとでも言いたいわけ」
「……どうかな」
フッと鼻で笑う霊道。
「悪いけど、私オカルトは信じない主義なのよ。神道、仏教、妖怪、幽霊……勿論文化として尊重はするわ。でもそこまでよ」
「そうかい」
「科学で解決できないことはある、けれど昔の人達が思い描いた不可思議な内容はほとんど科学で説明が付くの」
霊道は参道の脇道へと移り、得意げな表情を浮かべたまま鳥居へ向かって歩き出す。
「民俗学とかに詳しい人かと思ったけど、ただの不審者だったようね」
「……散々な言われようだがあんたの為にひとつ言っておく、むやみに耳を澄ますなよ」
「はあ?」
流石に会話が噛み合わないと思ったのか、霊道はそれ以上の話は切り上げて神社を出ることにした。
願わくば総司郎と二度と会いませんように、なんて思いながら。
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