第6話

「久しぶりだね」

 あれからのどかくんの家に居候を始めて三日が経ち、土曜日を迎えた。今日はまきちゃんとの約束があり、送られてきたURLから開いた高円寺の喫茶店で待ち合わせをした。

「久しぶり。まきちゃん髪色変えたんだ」

 平日はOLをしているまきちゃんの髪色がところどころピンク色に染まっていた。今まではキャラ付けとして暗い色に染めていたけれど、会社的には自由な会社だから派手な色も解禁してみたらしい。

「そうなんだよね。ピンクのメッシュ、入れてみちゃった」

「かわいい」

 素直にそう伝えると、まきちゃんは大げさなくらいに手をぶんぶんと振りながら

「ありがとう。照れるな」

と笑っていた。まきちゃんは大人だけど、褒められることに慣れていない。わたしはそんなまきちゃんの子どもっぽいところが愛おしいと思う。十個も年齢が離れているのに、対等に関係を築いてくれる安心感がある。包容力という言葉を、まきちゃんの動画のコメント欄ではよく見かける。

「ご注文はいかがなさいますか」

 喫茶店を営む夫婦の奥さんが注文を聞きにきた。

「クリームソーダを二つ。それから、灰皿も」

「かしこまりました」

 まきちゃんは最近喫煙者になった。彼氏の影響らしい。どんな人なのかと訊いても、なかなか詳細を教えてくれない。まきちゃんは口が堅い。だから信頼できるのだけれど、うまくかわされる度に壁を作られているような気がして寂しくもなった。

「彼氏とは順調?」

 小さな灰皿が机にことり、と置かれると、まきちゃんは鞄の中から白いパッケージの煙草を取り出した。彼氏と同じパーラメント、らしい。煙草のことはよく分からないけれど、パーラメントの箱は少し縦長で、白くてきらきらと光る部分があり、他の煙草よりもまきちゃんに似合っているように見えた。可愛いのだ。

「仕事熱心なのは変わらないけど、このままいけば結婚したいと思うくらいには順調」

「そっかぁ。前は酒癖がちょっと悪いって言ってたけど、それは大丈夫?」

 まきちゃんは煙草を咥えて、ライターで火をつけた。間もなく煙がふわふわと香りだす。小さな喫茶店のなかにいるのは、わたしとまきちゃん、それから一人ぼっちのおじさんが二人。わたし以外はみんな煙草を吸っているから、喫茶店のなかは少し煙たくなった。軽く煙を吐き出してから、まきちゃんは

「大丈夫。最近はお酒より煙草のほうが好きそうで、前より安定してるんだよね。怒ることも減ったし、仕事で彼が出掛けてる時間が増えたのもあるかも」

と言った。まきちゃんの言葉にはいつも不安が透けている。

「えー。まぁよかったのかもしれないけど、それって浮気とかじゃなくて?」

「違う違う! だって毎日ちゃんと連絡くれるし、可愛いとか優しいとか好きとか伝えてくれるし、それに、わたしも一人の時間好きだからちょうどいいの」

「そっかぁ。なんか前会った時とは全然違いそうだね」

「うん。全然違う。付き合い始めたときはただ優しい人って感じだったけど、今はだいぶ心を開いてくれた感じ。信頼してくれてる、みたいな」

 クリームソーダが二つ運ばれてくる。バニラアイスがぽっかりと乗った緑色の炭酸水に目が奪われる。喫茶店のメニューはどれも魅力的だけど、わたしはクリームソーダをよく頼む。まきちゃんが以前教えてくれたのだ、悩みや辛い日々が続いてもクリームソーダを飲んでいる時間だけは甘い気持ちで過ごせると。

「どんな人なんだっけ、一般の人?」

「いや、同業。動画クリエイター」

 混ぜるたびにバニラが溶け出し、炭酸が抜けていく。クリームソーダはおいしく楽しめる時間がとても短いと思う。だって、炭酸が抜けたらただの甘ったるい飲み物でしかない。そうなってしまえばもうおいしくないし、忘れていたはずの悩みに再び引き戻されてしまうのだ。

「あ、そうなんだ。わたしが知ってる人?」

「知ってる知ってる」

「マジ? 本当に世界って狭いよね」

「狭いね。だからすぐ噂が広まるから困っちゃうよ。みんななんでも動画のネタにしようとするし」

「えー。誰なんだろう。まきちゃんってどんな人がタイプなのかよく分からないよね、いつもまきちゃんより恋人の主張が強いのかなとは思うけど」

「そう? わたしも我儘だって言われるよ」

「恋人だけが知ってるまきちゃんの顔ってこと? ちょっと気になるなぁ」

 飲むたびにストライプ模様のストローが緑色に染まり、グラスに入ったソーダが減っていく。幸せな残り時間も、どんどん減っていく。

「若い?」

「彼氏はわたしと同い年だけど、コンビで活動してる相方の子はぽぽちゃんとちょうど同じ年くらいだったと思う」

 そこでようやく理解したのだった。まきちゃんの彼氏はあの、ラップ頭なのだ。ラップ頭の彼女がまきちゃん。そういえばラップ頭のスーツに煙草の匂いが染みついていたことを思い出す。

「ラップ頭」

「え?」

 思わず小さく言葉が漏れていた。

「別れたほうがいいんじゃない?」

 まきちゃんは目を見開いて、吸っていた煙草の煙をわたしに向かって吹いた。目が痛い。灰皿に煙草をぐりぐりと押し付けると

「ぽぽちゃん、レオくんと仲直りしなよ」

そう呟いて、まきちゃんはそそくさと喫茶店を出て行ってしまった。今までのような仲直りが透けた喧嘩ではなくて、二度と会えなくなるような、そんな勢いだった。喫茶店のドアにかけられたチャイムがまきちゃんの出ていった余韻を薄っすらと残している。

 悲しくて、だけど、泣けなかった。グラスについた無数の水滴が、わたしの代わりに泣いてくれているようだった。

 のどかくんの家に帰ってから、三日前の夜と同じようにトイレで吐き戻した。のどかくんは動画の編集作業を中断して駆けつけてくれた。わざわざ編集を中断してもらうのは申し訳なかったけれど、放っておかれるとそれはそれで寂しいから、背中をさすられるたびに安心した。

「今日もまたなんかあった?」

「あった」

 のどかくんはまきちゃんのことを知っているけれど、コラボをしたことも飲み会で会ったこともないし、動画で姿を見たことしかないらしい。だからわたしがどれだけ熱弁しても、今日の一連の流れがわたしにとってどんなに辛いことかはわからないだろう。

「なにがあったの」

 自分の痛みは自分にしか分からないのに、それでものどかくんは人の痛みを分かろうとする。あとで裏切られるくらいなら、一人で抱え込むほうがいい。

「ほのかちゃん」

 わたしは黙っていた。客観的に考えて自分はとてもワガママで面倒な人間だと思うけれど、それでものどかくんに話したところで何が変わるんだろう。分からない。分かってほしい。言わなくても察するなんて無理だと知っているけれど、人の気持ちは言葉にすることで初めて伝わると知っているけれど、分かってほしい。

 ゆっくりと立ち上がってキッチンまで行き、洗われたばかりで水滴のついたコップを手に取り、蛇口の水を注いで飲んだ。のどかくんはわたしを追ってくるかと思えば「言いたくないこともあるよね」と、また動画の編集作業に戻っていった。へぇ、大好きな彼女よりも仕事ですか、そうですか、と心の中で悪態をついて、長細いキッチンマットの上に崩れるように座り込む。

 まきちゃんのことを信頼できると思ったきっかけは、コラボ動画の撮影だった。わたしは閉ざされた関係の中で過ごすことに飽き飽きしていたのもあり、数少ない学校や家族以外の他人と関わる機会に、胸を膨らませていた。しかし、女の子というのは時に厄介である。その日、わたしはちょうどタイミング悪く生理になってしまったのだ。しかもこの時に限って生理痛が激しく、子宮が助けを求めて唸っているのではないかと思うほど痛かった。それでも撮影の予定を崩すわけにはいかないと、わたしは覚悟を決めて二錠のバファリンを飲み込んだ。

 まきちゃんは「初めまして!」と母親のようなあたたかさのある笑顔でわたしに挨拶をしてくれた。なぁちゃんの笑顔はずっと見てきたから営業スマイルだとすぐに分かるけれど、まきちゃんはいつも本当の笑顔だった。底を掬い上げても、水をすべて抜いても、ゴミ一つなく煌めく海のような笑顔を浮かべる人だった。

 動画は二本撮りで、一本目がうちのチャンネル、二本目がまきちゃんのチャンネルで上がることになっていた。わたしは一本目が終わるまでバファリンが効いたおかげで無事にやり過ごすことができたのだが、二本目の撮影が始まった頃に問題が発生した。薬が効かなくなってしまったのだ。突然薬の効能が切れ、わたしの子宮はずんと重くなり、一旦撮影を止めてもらうことになった。

「ごめんなさい……わたしのせいで」

 お腹を抱えながら謝るわたしを見て、まきちゃんはスマホで検索したお笑い芸人の写真を見せてきた。これを見ると生理痛が和らぐと話題なんだよ、と言ったまきちゃんは真剣な顔をしていて、確かに一瞬だけ痛みの波が治まったような気がした。なぁちゃんは撮影が順調に進まないことに少し苛々している。あまりにも痛かったので、それから三十分くらい寝かせてもらうことになった。しかし何十分経ってもまだ痛みが治まらないわたしを見て、なぁちゃんはとんでもない言葉を滑らせた。

「もう生理痛まで含めて動画にしちゃう? あれじゃない? 今って男も女も関係なく生理のことを詳しく知ったほうがいいみたいな風潮あるし、ああいう動画って結構伸びてるの見かけるし」

 そこまで言った瞬間、まきちゃんがソファに横たわるわたしの手を優しく包んで

「それは嫌ですね。人の痛みをネタにするような大人にはなりたくないので」

ときっぱり宣言をした。そのときのなぁちゃんの顔を忘れることはないだろう。屈辱に塗れた母親を見るのは初めてだった。大人ってこんな顔するんだ。瞳は底なし沼のように淀んでいて、開いた口が塞がらないという言葉通りの顔だった。まきちゃんはわたしの味方に立ってくれた。親よりも、クラスメイトよりも味方でいてくれた。それ以来、まきちゃんとのコラボ動画があがることはなかったけれど、わたしは密かに友達としてやり取りを続けている。

 今日は本当に最悪だ。わたしを大切に想ってくれる人を傷付けてしまった。素直な言葉はときに誰かを傷付ける。相手が嫌な気持ちになることなんて簡単に想像できたのに、去っていく彼女を止めもせず、悲しくなって、勝手にのどかくんに八つ当たりして。わたしは時折こうして自分の気持ちの押し付けで誰かを傷付けることがある。それは取り返しのつかないことになると分かっているのに止められない。嘘をつくのは嫌だと、自分の気持ちを曲げられない。自分に嘘をつくのは嫌なのだ。

「ほのかちゃん、はい、チョコ」

 餌付けのように渡された小分けのキットカットを受け取り、のどかくんを見上げようとしたら、のどかくんも私の隣に座ってきた。同じ地面に座り、同じ物を食べて、同じ目線で過ごす。こういう小さな幸せの積み重ねが一気に崩れてしまうのが怖くて、ときどきうろたえる。

「ごめん。居候してる身なのに」

「全然。人生色々あるからね。僕も色々あったし、ほのかちゃんも色々あったから、重なってぶつかりかけただけだよ」

 のどかくんも色々あったんだ、と言おうとしたら、キットカットの粉っぽいところが気管に入ってむせた。すぐに水で流し込む。

「色々ってなに?」

「子どもに怒ってきただけ」

「何歳の?」

「うん。三十二歳の」

 それは紛れもなく、なぁちゃんの年齢だ。のどかくんには大人と子どもに年齢なんて関係ないのだ。大人だと思えば大人、子どもだと思えば子ども。そういうスタンスで生きていないと、この世界の新鮮でピュアな心はすぐに腐って溶け消えてしまう。

 消え入りそうな優しい人を「儚い」という言葉でまとめてしまう人間が嫌いだ。思春期と決めつけるな! エモいで片付けるな! 幾度となく呟かれてきた知らない人からのコメントを見て、何度もそう思ってきた。動画の中のわたしはいつまで経っても子どもとして扱われるのだ。みんなのぽぽちゃんなのだ。訴えても届かない心の底から湧き出る嫌悪感は、静寂を極めた沼のように、わたしの身体をどんどん暗闇へ引きずり込んでいく。底がなく抜け出せない、次第に声や心まで飲み込んでしまう沼。嫌悪感を止めるには、ぽぽちゃんを消すことしか方法がない。それでも、広大なインターネットの海にぷかぷかと流されてしまっているぽぽちゃんは、完全に消すことはできない。なぁちゃんがわたしを産んだように、動画は一度ネットに流したら一生消えることはない。わたしが〝純粋無垢なぽぽちゃん〟という商業コンテンツとして扱われることに一ミリも嫌悪感を抱いていないとでも思っているんだろうか。生まれたときから顔が知られている恐怖、選択肢の狭さ、自分が自分でなくなる感覚。きっと二人は何も知らない。子どもなのだ。無知の子どもは一番恐ろしい。わたしが教えなくてはならない。本来子どもであるべき娘のわたしが、本来大人であるべき両親に教育しなくてはいけないって何なんだろう。

「……怒られて、その子どもはどうしてた?」

 のどかくんはキットカットを飲み込んでから

「逆ギレして泣いてた。ボロボロ涙をこぼして。同じ量、いや、それ以上の涙を自分の娘が流していることは知らないふりしてさ。僕は本当に最低だと思うんだけど、そんな親でもその娘にとっては世界にたった一人の親だから」

そこまで言って、少し思いとどまった。それからわたしの瞳を覗いて

「ごめんね、僕一人じゃ変えられないくらいに、その人は子どもだったみたい」

と謝ってきた。ごめんね、と言われると、その子どもがなぁちゃんのことを指していると認めなくてはいけないようで、わたしは何も答えることが出来なかった。

 夜になってからなんとなく自分のチャンネルを検索すると、昨日の夜の時点で新しく動画が投稿されていた。タイトルは「ぽぽちゃんイケメンに襲われちゃうドッキリ!?」。まきちゃんがわたしとキモ男の関係を知っていたのは、この動画のせいだったのか。もう吐き気すら襲ってこなかった。心の中で静かに、なぁちゃんとカズマがチャンネルを辞めてくれるようにおまじないをかけてから、眠りについた。

 こんなに残酷な気持ちにばかりさせられているのに、どうしてわたしはいつも家族のことを考えているんだろう。いつだったか、クラスメイトが「マジでうちの親、過保護すぎてうざいんだよねー」と吐き捨てていた。ちょうど反抗期真っ只中だったとはいえ、わたしにはそんなこと言えない。だって世界にたった二人の親なのだ。愛情の掛けかたが下手なだけで、きっとなぁちゃんもカズマもわたしのことを愛してくれている。そうでなきゃ生きている意味がない。愛情は、信じることでしか受け取れないのだから。

 気を失うように眠り、わたしは昨日起きたすべての嫌なことをまるっと忘れた気になって生きることにした。信頼できる友達はいなかったし、娘の嫌がることを動画にしてネットの海に流すような両親も知らない。きっとそのうちわたしのことなんてみんな忘れるだろう。今、わたしが死んだとしてもお葬式の三ヵ月後には「そういえばそんなこともあったね」という呟きがちらほら見える程度になるだろう。動画クリエイターや芸能人というのは、所詮みんなにとってその程度の存在なのだ。動画にコメントをくれても、高評価を押してくれたとしても、グッズを買ってくれたとしても、イベントで会いに来てくれたとしても、いつかはきっと忘れてしまう。それでもたった一瞬の煌めきが誰かの日常を照らすということに繋がるのは、この職業の素敵なところだと思う。みんなに笑顔や活力を気軽に、身近な距離で届けることができるのは動画クリエイターの魅力である。なぁちゃんもカズマも、最初はそこに魅せられて活動を始めたのだろう。いつからここまで視聴回数に執着するようになってしまったのだろう。チャンネルが人気を博すきっかけになったのは、ぽぽちゃんの存在だ。やっぱりわたしのせいなんだろうか。

「おはよう」

「おはよ。あれ? まだ編集してたの?」

 ノートパソコンの横に並べられた二つのエナジードリンクの空き缶が、徹夜の頑張りをたたえている。のどかくんは猫のように大きな伸びをして

「そう。今回のはちょっと時間かかっちゃった」

と眠そうな声を出した。のどかくんは編集作業が早いほうだ。慣れはあっても、人それぞれ編集にかかる時間はバラバラだ。わたしの中ではカズマが一番早いと思っていたけど、それは身内しか見ていないから比較対象がないだけだということに最近気が付いた。それでもこんな時間になるなんて、よっぽど凝った動画だったのだろう。

「誰かとコラボしたやつ?」

「いや、企業案件だったから今日の昼までにとりあえず送らないといけなくて」

「そっか。お疲れさま」

「ほのかちゃんはよく眠れた?」

 時々、なぁちゃんやカズマ、わたしやのどかくんが動画クリエイターじゃない職業に就いていたらどうなっていたのかを想像する。なぁちゃんとカズマはただ愛情を注ぎ合い、わたしは一人娘として大切に育てられ、「思い出」として写真や動画が撮られていく。のどかくんは懸命に小さな希望や愛情を求めながら、きっと頭の良い大学に入って、有名な大企業の営業なんかに就職するんだろう。どんな人生が幸せで、どんな人生が不幸かなんて人それぞれだ。親にとっての幸せと、子どもにとっての幸せ、友達や恋人にとっての幸せは違う。なぁちゃんやカズマにとっては今の家族の形が幸せなんだろうか。

「うん、よく眠れた。のどかくんも眠ってきなよ」

「うん」

 ぷっつりと仕事の糸が途切れたのか、それからのどかくんは夕方の四時になるまで沈むように深い眠りについていた。わたしは極力物音を立てずにこっそりとお昼ご飯のたらこパスタを作ったり、静かにのどかくんに借りたばかりの漫画を読んだりして時間を潰した。

 のどかくんが四時ぴったりに起きたのは、夕方になると必ず鳴り響く街のチャイムが聞こえたからだった。もぞもぞと小動物のように起きてきたのどかくんは「あれ、一日以上寝ちゃったか」と呟いた。

「いや、全然朝に眠ってその日の夕方に起きてるよ」

「あれ? あ、ほんと。ほんとうだ。ほのちゃん、ご飯食べた?」

「ごめん、勝手にパスタ作って食べた。お腹空いた?」

 一緒に住み始めて五日が経ち、のどかくんは時折わたしのことを「ほのちゃん」と呼ぶ。ほのちゃん。ぽぽちゃんではないニックネームを誰かにつけられたのは初めてで、呼ばれるたびに心が高揚してしまう。

「ちょっと空いちゃった」

「のどかくんの分も作ろうか? たらこパスタ」

 浮ついたわたしを他所に、のどかくんがレースカーテンを捲ると、白い壁に夕焼けのオレンジ色がしみ込んできて、夕方を実感する。わたしの言葉を聞いて振り返ったのどかくんは、幸せに満ちた顔をしていた。

「え! たらこパスタ食べたの? 好き、食べたい!」

 幸せを抱え、わたしはキッチンに立つ。料理なんて企画のときにしかやらないし、のどかくんの家にあるのは生のたらこじゃなくて、混ぜるだけで出来上がるタイプのたらこだ。一人暮らしのキッチンにある材料は限られている。それでも茹で上がったパスタにソースをあえていると、のどかくんはうきうきした表情でこちらに近づき、わたしの肩に顎をのせてきた。

「なんか少女漫画みたい」

「心の声でてるよ、ほのちゃん」

「うん、ときめいちゃった。わたしやっぱりのどかくんが好きだな」

 振り返ると、視線が合う。優しい瞳だ、と感嘆する。わたしには出来ない眼差し、わたしには出来ない声のトーン、わたしには出来ない慰め方。生きてきた時間は大して変わらないのに、違う環境で育つだけで人間はこんなにも違うのだと驚く。わたしものどかくんみたいになりたい。瞳を見ただけで優しさが伝わるような人間になりたいと強く思う。

 のどかくんがパスタを食べている間、二回ほどわたしのスマホに着信があった。一回目は無視していたものの、二回もかかってくると、気付けば何かあったのかと心配して受話器のマークをタップしていた。

「もしかして、男の人の家に泊まってるんじゃないわよね」

 「どうしたの?」と訊く前に発された棘のあるなぁちゃんの声に溜め息が出る。ジェスチャーと口パクでのどかくんが大丈夫? と訊くので、口をへの字に曲げてみせる。

「心配しなくて大丈夫だよ」

「まだ子どもなんだから、家に帰ってきなさい」

「今さら? もう五日も経ってるよ」

 今までわたしが反抗することはほとんどなかったから、きっと予想外の行動に少しは動揺しているのだと思っていた。

「明日また撮影があるのよ。ぽぽがいないと何も始まらないの、ねぇ、帰ってきて?」

 けれど、それはわたしの思い込みだった。なぁちゃんは自分の娘よりも仕事を優先する人なのだ。忘れようとしていた昨日の動画もそうだ。わたしの気持ちより動画の再生数を尊重する。親に期待して、裏切られて、期待して、裏切られる。子どものように喚く親に同情して優しくしても、返ってくるのは棘のある言葉だけだ。それでも両親という存在には愛情を期待してしまう。リストカットをしてでも心配されたくて、暴力を振るわれても偽りの優しい言葉を信じたい子どもがたくさんいる。簡単に縁が切れないなんて当たり前だ。親子というのは本来、愛情を伝えあう関係性なのだから。

「ごめん。もう帰らない。カズマにもそう伝えておいて」

 カズマ、という言葉を口にした途端、父親のことを一度たりとも「パパ」や「お父さん」と呼ぶことのない環境で育てられたことが苦しくて、声が震えた。なぁちゃんは黙り、のどかくんはわたしを温かい瞳で見守ってくれている。わたしから電話は切れなった。たった一回のタップが押せなかった。でもそれはなぁちゃんも同じだった。お互いにお互いが勝手に期待して、勝手に裏切られていた。

 しかし、沈黙は貫かれる。

「もうファミリーチャンネルはやめよう」

 それは紛れもなくカズマの声だった。なぁちゃんの隣にずっと座っていたのだ。

「何言って!」

 なぁちゃんは発狂した。何度もヒスっている姿を見たことはあったけれど、電話越しにでもその怒りが声に乗せられてわたしの心まで届いた。今にも、きん! とハウリングしそうだ。わたしはなるべく息を潜めて二人の声を聞いた。久しぶりに家族が揃っている感覚がある。

「俺たちは大切にするべきものを間違えてたよ」

 どうしてか、カズマの言葉はまったくの他人事のように思えた。今さらそんなことを言われても、ここまで二人に育てられてきたのだから簡単にわたしに根付いた価値観や生き方は変えられない。ネットの海に流された動画も画像も、それに対するコメントも消えない。

「今までの努力を無駄にするようなこと言わないでよ! 私の頑張りは何だったの、いつも私の事は肯定してくれていたくせにこういう時だけしゃしゃり出て、まだカップルチャンネルの時の方がよかった!」

「じゃあ自分の娘が不幸でもいいの?」

「ぽぽは幸せでしょう! 好きな物を貰えて、沢山の人に愛されて! 視聴者だってコメントでみんな羨ましがってる!」

「羨ましがられる人生が幸せに繋がるなら、みんな幸せになんてなれないよ。誰だって悲しいことや苦しいことはあるんだから。君は、自分が得られなかった幸せを子どもに求めすぎだ」

「アンタに私の何が分かるの? 私が不幸だって言いたいわけ?」

「視聴回数ばかりに囚われるのは良くないよ」

「クリエイターなんてみんなそうだよ! じゃあアンタは動画を作ってる人はみんな不幸だなって思ってるんだ。へぇ。私のことも、友達のことも、みんな不幸だって、そう思ってるんだ!」

「冷静になって考えたら分かるだろ、娘がどんな気持ちで動画に出ているかなんてどうでもよかった奴が家族を名乗るのは間違ってる。自分にとっての幸せが母親の幸せになるなんて勘違いだよ。もう承認欲求を満たすために自分の娘を使うなよ」

「私がぽぽを産んだのが悪いの?」

「そういうことじゃなくて」

「産まなければ良かったんだ。そう言いたいんでしょう? 子どもにばかり注目がいくから嫉妬してるの? 私の事を否定してでも構って欲しいんだ? それとも私より子どもの方が大切なわけ?」

「二人とも大切だし、それとこれとは話が別だろ」

「別? 私の事はどうでもいいってこと? こんなことになるなら最初からファミリーチャンネルなんて作らなければ良かった。子どもなんて作らなければ良かったんだよ。そうしたらみんな幸せになれたんじゃない? そもそもぽぽが生まれてこなければ誰も悲しむことなんて無かったんだよ!」

 スマホを持つ手が震えていた。自分が心のどこかで思っていたことを、言われたくなくて内に秘めていたことを、あけすけと言われ、怒りと哀しみで涙がゆっくりと頬を伝った。それは静かに零れ落ちた。わたしだってこの家を選んで生まれてきたわけじゃないのに、どうして結果的にわたしが責められるんだろう。のどかくんはわたしのスマホを取り、通話終了のボタンをタップしてくれた。温かい手がわたしの背中を撫でる。撫でられるたびに自分がとても辛い瞬間を生きているのだと認識して、余計に苦しくなり、喉が詰まった。

「ごめんね」

 ごめんね、は、哀しみを倍増させるおまじないだ。いつだったかのどかくんがそう教えてくれた。視界が涙で歪み、わたしはとうとうのどかくんの腕の中で声をあげて泣いた。生まれたばかりの子どものように、わたしは温かな腕の中でただひたすらに感情を抱いた。受け止めきれない感情は涙となり、のどかくんの肩のあたりを濡らしていた。ごめんね。わたしがそう呟くと、今度はのどかくんが泣いていた。泣く、という行為でしか感情を処理することが出来なかった。

 人生は取り返しのつかない選択の繰り返しだから、後悔をしてもタイムスリップすることはできない。自分の両親に「わたしを産まないでください」とは言えない。わたしたちはそれでも生きていかなきゃならないのだ。愛情を注がれなくても、愛情の注ぎ方を間違えられても、たとえどう育てられても、わたしたちは明日も眠りから覚めてご飯を食べ、なんとか時間を潰してまた眠りにつく。死にたくても、生きるしかない。死は、嫌いな人を呪うおまじないにはならないのだから。

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