第2話
わたしの脳内のように絡み合った配線が散らばるリビングには、三脚とカメラ、照明が置かれている。生まれたときからこれが普通。わたしの両親は動画共有サイトでファミリーチャンネルを運営している。母はなぁちゃん、父はカズマ。両親はわたしが生まれる前からカップルチャンネルとして動画クリエイターをしていた。デート動画やドッキリ動画で埋め尽くされたラブラブな二人のチャンネルは、重大発表というタイトルの動画があがってからファミリーチャンネルへと変貌を遂げる。
ぽぽちゃんが誕生したのである。可愛い顔というよりも、愛おしさに溢れた顔のぽぽちゃんは、チャンネルの人気を絶大なものにした。カップルチャンネル時代100万人達成をお祝いしていたチャンネル登録者数は、今では182万人にまで増えている。なぁちゃんとカズマはぽぽちゃんをお人形のように可愛がった。カズマはなぁちゃんの言うことだけを素直に聞く。だからなぁちゃんが死ぬまで、わたしはなぁちゃんに絶対服従なのだ。きっと、なぁちゃんが死んだらわたしも死ぬ。
時折、わたしはなぁちゃんとカズマ以外の両親に育てられる想像を膨らませる。シャボン玉のように優しく、割れないように少しずつ膨らませる。虹色の模様がくるりくるりと回り、普通の母親と父親に育てられるわたしは家族旅行へ行く。カメラなんて一秒も回さなくていい、家族がのんびり楽しめる旅行。行く場所は温泉街でも、遊園地でも、広大な景色が見渡せる牧場でも、どこでもいい。
「ぽぽー、ごめん。さっき電話した旅館、撮影許可下りなかったからダメだわ」
ぱちんとシャボンが割れる。
「そっか、残念だね。違うところにしたら?」
「そうするしかないねえ」
撮影許可なんていらない、わたしたちが楽しめれば旅行なんてどこでもいいのに。弾けたシャボンが目に染みて、涙が滲んだ。そういえば、いつから本当の名前で呼ばれなくなったのだろう。わたしたちは撮影中に本名を呼んでしまわないように、普段からなぁちゃんカズマぽぽちゃんで呼び合う。今わたしのことを本当の名前で呼んでくれる人は、たったの一人もいない。
エコー写真の頃から顔出しの動画を投稿されていたから、小学校でも中学校でも「ぽぽちゃん」と呼ばれた。親しみを込めたいと、担任の先生まで「ぽぽさん」と呼びだした。わたしはそれから、常にぽぽちゃんとして振舞わなければいけないことになった。ぽぽちゃんは優等生だから生徒会長を務めた。小学校から中学校の間で八年間も皆勤賞をとった。中学三年生の体育祭だけ、コラボ動画撮影のために休んで皆勤賞を逃した。でも小学校と中学校合わせて一度しか休んだことがないなんて、あまりに健康すぎる。わたしだってクラスメイトみたいにずる休みして、なぁちゃんとアイスを食べたり、一日中ゲームをしてみたかった。中学生ではバイトが出来ず、自分でお金を稼ぐことができないから、ぽぽちゃんとして生きていないと家の雰囲気が最悪になる。例えば、なぁちゃんの前でちょっとでも友達の愚痴を言ったら、その日の夜ご飯がお茶碗一杯のご飯だけになったりする。おかずはなし。生きられるからいいでしょう、という具合だ。わたしはなぁちゃんが死ぬまで、なぁちゃんに絶対服従なのだ。ぽぽちゃんは優等生だから、友達の愚痴は言わないらしい。わたしは食べきったお茶碗に残った白いぬめりをじっと見つめ、なぁちゃんが熱く語る理想のぽぽちゃん論を聞いていた。気付けば白いぬめりは膜になってカピカピに乾いている。
高校生になったらチャンネル収入の三分の一をぽぽちゃんにあげる、と約束されていた。その約束通り、昨日は初めての給料を受け取った。なぁちゃんの丸い癖字で、お給料、と書かれた封筒には十分すぎる重みのお札が入っている。一万円札が六十枚きっかり。一日でおよそ六万円になる動画を毎日あげていたら、月に百八十万。それを三人で割って六十万。今までなぁちゃんとカズマが貰っていた今までの毎月六十万は、学費や生活費に使われていたらしい。学費も生活費もそんなにかからないことは知っているけれど、黙っておいた。わたしはなぁちゃんが死ぬまで、なぁちゃんに絶対服従なのだ。
今日は高校から帰ると、玄関に知らない靴が二つ揃えられていた。わたしのぺたんこバレエシューズの隣には、履き潰されてよれよれのビーチサンダル、その隣にきっちりと磨かれたことがわかる革靴。なぁちゃんのパンプス、カズマのグレーのスニーカーは定位置だ。なんとか今履いていたローファーを並べると、玄関は靴で埋め尽くされた。すぐに逃げられないような状況に俯くと、下瞼が細かく痙攣した。
プリーツスカートをぐっと引き上げると、しわしわになった紺色の靴下にぽっかりと穴が開いていることに気付いた。今日はわたしの誕生日だ。最近人気沸騰中の若手男性二人組ユニットとコラボ動画を撮ることが決まっている。一人はわたしと同い年、もう一人はわたしより十個も年上だったと思う。前からSNSでお互いにフォローしていたので、顔も声も、性格だってなんとなく知っている。リビングに入る前から漏れてくる一人の男性の笑い声に意識をぼんやりとさせながら、無理やり顔を上げて声のする方向に足を向かわせる。
「おかえりー!」
なぁちゃんが笑顔でそう言った。なぁちゃんはわたしから見えない位置にいるけど、声だけで表情が想像できた。動画を撮るときのにっこりとした笑顔。目がくしゃっと潰れて、口角もきゅっと上がっている。
「ほんまにぽぽちゃんやー! 初めましてー! おかえりぃ」
わたしがなぁちゃんにただいまを言う暇もなく、一人の男性が喋り始める。リビングには美容院の帰りに塗られるようなワックスのつんとした匂いが漂っていて、男性の頭はラップを巻き付けたようにぴっちりと固められていた。ワックスのなかに煙草の匂いも混じっている。うちに喫煙者はいないし、ラップ頭が動くたびに煙草の匂いが漂うので、この人がかなりのヘビースモーカーなのだろう。
「あ、初めまして。ただいま、です」
「そんな堅苦しくしないでええよ? もっと気軽に喋っていこうや。あ、もしかして人見知り?」
意外やなぁ、と呟くラップ頭の男性はわたしより十個も年齢が上のほうの人だ。外国に来たのかと錯覚を覚えるほど明るい性格とは裏腹に、着ている服は常にスーツという謎のこだわりがある。それがギャップでかっこいいのだと、クラスメイトが盛り上がっていたことを思い出す。玄関にきっちりと磨かれた革靴はラップ頭のものである。ということは、くたくたのビーチサンダルはレオくんのものだ。
「あれ、レオくんは」
レオくんは、わたしと同い年のほうの男の子だ。日本とアメリカのハーフで、彫りの深いくっきりとした顔立ちから女の子のファンがとても多い。SNSに写真を載せれば一万人がいいねを押す顔を持つレオくんは、奇しくもわたしと同じ日に生まれた。今日コラボすることになった理由は、わたしと彼の誕生日がまったく同じ日だったからである。人気ユニットとの合同誕生日会は閲覧数があがりやすいと踏んだらしい。
「レオな、さっきトイレ借りる言うてたわ」
「あ、そうですか」
「せやからすぐ来ると思うで。ね、なぁさん」
「うん! そうだ、ちょっとサプライズの予定あるからぽぽは部屋で待っててくれるー?」
わたしは分かった、とにっこり微笑んだ。リビングの隅にちょこんと置いてある観葉植物の裏に赤い点が光っていることに気付いていた。もう撮影は始まっている。わたしは家でもぽぽちゃんとして生きなければいけないのだ。息苦しさに俯くと、靴下に空いていた穴がさっきよりも広がっているような気がした。鬱々とした気持ちが穴から漏れ出ている。言葉として漏れ出なくてよかった、と安堵して自分の部屋へあがっていく。
わたしの部屋は二階建ての二階、階段をあがって突き当りにある。ここだけが自分の空間、ぽぽちゃんとして生きることがない唯一の空間だった。だった、というのは、今部屋に入って知らない香水の匂いがつんと鼻を突いたからである。きっとレオくんは今、息を潜めてこの部屋にいるのだろう。動画クリエイター特有の勘がはたらいて、そんな自分を叩きのめしたくなった。ぽぽちゃんとして生きてしまう。無意識に脳がぽぽちゃんという人格に乗り移られていて、渇いた心がぺりぺりと剥げていく。何も気付いていないふりをして、わたしは布団が不自然に盛り上がっているベッドに背中から倒れこんだ。疲れたー、と呟きながら。
すると、布団はわたしを後ろから包み込んだ。部屋に入ったときよりも強いバニラの甘い香りと、ぐにっとした肉の柔らかさを背中に受け止める。五感が死んだほうがマシだと思ったのは初めてだ。
「初めまして」
キモすぎて殴ろうかと考えたが、挨拶をしてきやがったのでぽぽちゃんという人格がわたしを制御した。ぽぽちゃんはどんなにキモい男も殴らない。キシ、キシ。静かな部屋にベッドが軋む。怯えた表情で誰ですか、とだけ訊くと、キモ男は「レオだよ」と囁き、中途半端にぬくい腕でわたしを包んだ。後ろから伸びてわたしの腹のあたりで結ばれたキモ男の両腕は、血管が細く浮き出ていて、その一本一本をペンチで切ってやりたいと思わないこともなかった。赤い線を切るか緑の線を切るかと考えていると、キモ男は「驚かせちゃってごめんね、ドッキリで」とまた耳元で囁いた。背中が震えて肩の力が抜ける。安堵したと勘違いしたらしいキモ男は、わたしの体勢をぐるりと反転させて顔を見合えるようにさせた。ギシ、ギシ。大きく体勢を変えたせいで、ベッドの軋む音も大きく響く。動画的にその画角がいいのは同感だけど、とりあえずキモ男の腕を噛むことにした。最初は甘噛み、次は歯型がつくくらい、そして噛み千切るくらいの強さで。キモ男は驚いたように腕を上に振り上げ、わたしを突き放そうとした。そりゃああの温厚なぽぽちゃんが男の人の腕を噛むなんて思わないだろう。ちょうど指一本入るほどの隙間が開いた収納扉の奥に、赤く小さく光り続けるぼんやりとした点を見つけた。カメラが回っていたのは承知していたけれど、個人的な収納の範囲まで犯されていたらしい。思わずぐっと顎に力が入ると、キモ男はカメラを捜した。わたしは咄嗟に自分のお腹を手でふさいだ。殴られる! 高校生男子に勝てるほどの力も、力に勝てるほどの脳もないと自負している。身構えている間も、キモ男は噛みついている腕をぶんぶんと振るので、わたしの脳もぶんぶんと揺さぶられる。女の子をこんなに揺さぶっていいと思っているのか! お前はあくまでも動画投稿者なんだぞ! と思いつつ、わたしもキモ男の腕を噛んでいるのでどっこいどっこいだ。どれだけ振っても噛みついて離れないわたしの顎が予想外だったのか、痛みと混乱のキモ男はカメラを見つけることができず、結局キモ男がわたしを殴ることはなかった。万が一カメラが回っている最中に女の子に手を上げでもしたら、キモ男はそこで配信者生命終了である。一応倫理観はあるらしいキモ男に少し罪悪感を覚えたが、やられたことを思い返せば反吐が出る。キモ男が派手なアロハシャツを着ていたことに気が付く。ドタドタと暴れるような足音とともになぁちゃんたちが階段をあがってくる予感がした。まずい。わたしはなぁちゃんに絶対服従なのである。
「おい!」
初めてキモ男が大きな声を出した。怒りと憎悪と困惑がかき混ぜられたような声色にちょっぴり驚きつつ、わたしは最後の力を振り絞ってキモ男の腕を噛んだ。土壇場に強いのか、今までで一番強い力で噛めたらしくキモ男は喉が千切れそうな声で「やめろ!」と叫ぶ。苦し紛れに出ている精一杯のやめろ! を無視して、わたしはキモ男の股間を蹴り上げ、それを最後に部屋を出て、階段を降りて、家を出た。なぁちゃんはカメラを持って、階段の下で待っていた。追いかけてくることはなく、わたしに噛まれたキモ男を心配する声が靴の散乱した玄関に響いていた。
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