第五幕
山の麓に車を停めて、荷物を持って、登山コースを外れて進んだ。馬は何も言わずに着いてきてくれた。
ひたすら歩いていると、男の頭にある女が浮かんだ。
X年前、男が大学に入学して間もない頃。
校内には喫煙所が無かったので人通りの少ない駐車場で、自動販売機にもたれかかって、キョロキョロしながらタバコを吸っていた。
すると、同じくあぶれ物らしい女が寄って来た。髪を後ろで結んで、キャップを被った女は鞄から何かを探している様子だった。
「火、貸してくれません?」
訛りのある、かわいい言葉だった。
黙ってライターを渡して、次に言う冗談を考えていると、女はさっさと火を点けてしまった。
おおきに、とライターを返すとそのまま自販機と向き合った。
「そこの大学の生徒ですか?僕はそうなんだけど」
男が尋ねると
「それやったら一緒。君は2回生?」
と返してきた。
「いいや、1回生なんです。199X生まれの」
今になっても、なぜ正直に話したのかは分からない。その女から感じる妙な安心感がそうさせたのだ。もしかしたら、自分は惚れっぽい人間なのかもしれない。
「そう」
一言、女は缶コーヒーを2缶取り出して
「後輩くんにどうぞ」
と片方を差し出してきた。
この時の自分には、タバコとコーヒーの相性の如何など分かっていなかった(飲酒や喫煙に取り巻く、チープな腐敗感にかぶれていたわけではなく、れいの早死の美徳による馬鹿な非行だったので)が、その時のコーヒーの嫌な甘さは未だに覚えてる。
その後その人と会う事はなく、顔も忘れてしまったのに、死ぬ前に思い出すのは昔の恋人ではなくその人だった。今思うと、これだけは唯一、人生の中で良い思い出だったのだろう。
そんな事をぼんやりと考えながら獣道を進むと、少し開けた場所を見つけたので、休憩する事にした。あたりを覆う落葉樹が綺麗だったので洒落で”上を向いて歩こう”なんて昔の曲を口ずさんでみると、確かに涙が溢れた。
月が綺麗だった。死にたかった。生きるには、あまりにも明る過ぎた。
馬はもう、一言も話さなかった。
「今、自分が何をしているのか分かっても、何をしたいのか分からない。しかし、こうするしか無いと思うと、たまらない」
声が出ていたのかも分からない。
「人並みの申し訳なさも、悲しみもあるはずなのに、最早誰の顔も浮かばなくなった。」
「話しきれないくらいあるんだ、本当は」
思考が木々に反響して、発散していった。
男は安心して、シャベルで地面を掘り始めた。
「やっとお前も覚悟出来たらしい」
馬はつぶやく。
「ずっと人に頼って、何かを言われるのを待つ事にようやく懲りたらしい」
根っこに当たると、なかなか掘り進められない。
「お前は、一言目に誰々が、二言目に誰々が、だ。それじゃ鏡と同じ」
ザク、ザク。
「天敵に出くわしてすぐに腹を見せてやがる。負け犬」
2メートルくらいになっただろうか。
深く掘った穴から這い出てくると、馬の方は自分から入っていった。
「お前とも今日でオサラバだけども、お前はどうやって死ぬつもりだい?」
穴に土を戻していく。
「最後くらいは甲斐性を見せるもんだぜ、なんせ最初の見せ場だ。」
馬の首まで土は埋まった。
「なに、お前なら出来る。早死の美徳を誰よりも知ってるんだからな!」
馬の姿はもう、見えない。
ふっとため息をついてみせた。
もう、見えない。男は一言こう言った。
「なんだか死ぬのが惜しくなったよ」
両者数秒停止、その後は予定調和のような気がした。
「甲斐性なしめ!せいぜい苦しめばいいさ」
馬は鋭く、分かっていたかのように叫んだ。
「そうする」
男は折れかかったタバコに、楽しそうに火を点けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます