黒ムチの断罪 黒鞭聖女

砂嶋真三

第1話 貴様の罪悪感を消してやろう。

「アドラ様、お願い致します」


 聖女である私の足許に、恰幅の良い中年男が跪いていた。


 十年ほど前に町へ流れてきた男は、老夫婦が経営する宿屋を買い取り、堅実な商売で成功したと聞いている。

 人当たりも良く、住民からの評判もすこぶる高い。


 その為か、付近を治める子爵家より、次の町長に任じられるだろうと目されていた。


 だが――、

 

「まあ、たれたいと――」

 

 礼拝堂の告解室にて、私は冷たい眼差しで相手を見下ろした。


 狭い部屋で両者の間を阻むものはない。

 元々は格子で仕切られていたのだが、私の一存で取り払ったのだ。


「そう申されますのね、べリック殿」

「は、はい――お噂はかねがね――」


 そう応えるべリックは羞恥と悔恨を一瞬浮かべたが、染み付いた癖であろう作り笑いで即座にそれを掻き消していく。


 私が最も嫌う人のさまを見せつけられ、今すぐにでも殺すに値するように思われた。


「でしたら、まずは罪の告白を」


 教会の告解室とは、その為に在る場所だ。


 自らが冒した罪を司祭や聖女に打ち明けて、神の許しを得ようという厚かましい仕組みである。


 神の許しがあるか否かに興味は湧かないが、少なくとも私は許しなど与えない。


「有難う御座います。じ、実は――」


 と、語り始めたべリックの話はくだらない内容だった。

 妻ある者には禁じられている売春宿に行ったというのである。


 そんな規則を守る者などいないし、わざわざと告白しに来る馬鹿もいないだろう。

 つまり、目の前で卑しい眼差しで私を見上げる男は、白痴でなければ嘘をついているという事になる。


「罪を――罪を犯しました」


 だが、私に嘘など通用しない。


 ひと時の安楽と引き換えに、聖女アドラの噂を信じて訪れた自らの無能を分からせてやるつもりだ。


「べリック殿は、本当に信心深い御方ですのね――」

「近頃では妻の顔を見る度に胸が苦しくなるほどでして」


 この男は、歳の離れた若すぎる妻が、別の男と納屋で勤しんでいる事実を知らないのだろう。


 妻との間に子は居ないようだが、彼女が孕んだとして誰の子供か分かったものではない。


「それは苦しかったことでしょう」


 私としては、声音に慈悲を滲ませたつもりである。


「解放を望まれますか?」


 べリックが何度も頷くのを確認した後、背を向けて壁に掛けられている黒鞭を手に取った。


「お尻では――ありません」


 振り向くと、男が間の抜けた姿で待ち構えている。小汚い腰回りには贅肉で伸びたさそりのタトゥーが見えた。


「え?」

「前を向き、そのまま楽に立ってください」


 訝し気な表情を浮かべたまま、べリックは言われた通り私の前にボウと立つ。


「激痛でしょうが――」


 黒鞭のグリップを強く握りながら告げた。


「――心は軽くなります」


 私が腕を振って風切り音を鳴らした後、狭い部屋にべリックの絶叫が響く。

 

 ◇


「うう――痛――あ、有難う御座います――ああ――軽い――」


 両頬を赤く腫らせたべリックが、涙を流しながら感謝の気持ちを述べている。


「心が――心が晴れましたぞ」


 痛々しい彼の顔からは、一切の羞恥と悔恨が消え失せていた。

 過去に犯した忌まわしい記憶と共に罪悪感を喪失したのだ。


「それは良かった」


 私は黒鞭を壁に戻しながら応えた。


「これで迷いなく前へと進めるでしょう」

「前?」


 いったいどこへ進む気なのかと疑問に思い尋ねる。


「いや、その――」


 べリックは神妙な様子で話しを続ける。


「宿以外の商売も順調でして、私などには不相応な財も成せました」


 妻の不逞以外は、全てが順調だろう。


「ところが、先の戦のせいもありますが、かなりの孤児がおりましょう」


 修道院などで引き取ろうとはしているが、それにも限界はあった。


「そこで一念発起したのです。町の有志と協力して、孤児院を作ろうと」


 本来ならば領主や聖職者の務めであろうが、富を得たとはいえ市井の男が為そうと言うのである。

 実に立派な心掛けだと私は感心した。


「ただ、私みたいな者が孤児院を作るなんて、どうも――ん――いや――」


 べリックは記憶に穿うがたれた空白に気付き、首をひねって考え込む様子を見せる。


「――私はいったい何をしでかしたのでしょうな?」


 そう尋ねる男の瞳には、一点のかげりも無かった。


 私は満面の笑みを浮かべて応える。


「黒鞭の恵みにて忘却されました」


 全ての罪の記憶は、私の中に在る。


「安らかに」


 貴様は応報を受けるだけで良いのだ。


 私が断罪するのだから――。

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