いまわ
富田百
いまわ
反省。
すべきことばかり。なのに、すぐには一つも思い出せない。
後悔。
すべきじゃない。なのに、後悔と呼べることは尽きない。
もう今さらどうにもなりはしないけど。こんな、最期で。
死んでゆく僕の、終わりゆく人生を。
尊く両手に包むけど、無慈悲な時間の重力が指の隙間からさらっていってしまう。
果たして、この人生は意味あるものになったろうか。意味あるものであるべきなのに、きっとあっさりと否定できてしまう。
刻一刻と失われていく命を横目に、僕は鍵盤に指を走らせていた。午前の陽がおぼろに鍵盤を照らしていた。失われてゆくものを惜しみながら、取りこぼさないように、最後の一粒まで味わえるように。必死に息をしていた。間違った音のたびに焦る。あと何回、あと何回かもわからないのに。だから、右がわに共犯者の呼吸を意識したりして。
これも、次の瞬間には後悔と呼べてしまう。無理やり必死で飲み込むものに味わいはない。それは少し、もったいない。
いつか死ぬことに気づいてしまったその日から、僕は後悔をやめた。やめたはずだ。もっとああできたのにとか、ああすればよかったとか、ああだったらとか。ああだこうだ。でもその時の選択や結果がその瞬間の最善であって、何回過去に帰ってもそれ以上は無いんだと理解することにした。後悔の無いように。無かったことは期待しないように。過去にも現在にも未来にも、失望も期待もしない。そういうふうに、自分と緩い契約をむすんだ。
青すぎる空に目が痛んだ。端の方で枝が細かく黒く切り取られていた。昼休みが終わるチャイムを聞きながら中庭のタイルの上で仰向けになって、僕は共犯者と死生観や幸福について語り合った。雲一つない晴天に向かって共犯者が伸ばした腕のシャツの白が眩しかった。袖の縁からはみ出す細い指、華奢な爪まで、その線のすべてが美しかった。しあわせだった。となりどうしで横たわって、白シャツが美しい共犯者と死生観を語る空白の午後は、しあわせだったんだ。「幸せすぎてバチが当たりそう」なんて言葉を生まれて初めて心から口にしたかもしれなかった。
積み上げた学問書の中から「利己的な遺伝子」を手に取って、開いた。縦書き越しにパソコンに小論文を打ち込む共犯者の丸い背中を見た。頭が揺れるたびに細い髪が流れていた。だんだん、文字がぼやけてくる。目は縦書きを追うのに、内容は一文字もわからない。どこまでよんだっけ……。おなじぎょうをなんどもよんでいるか……ちがう、ここはさっき……あれ、もう……
目覚めてから眠っていたと気づく。振り向くと共犯者が立っている。もうそんな時間かとのろり立つ。「閉めますよー」と、司書さんの声がする。分厚い学問書を一冊ずつ戻して、僕はカバンを背負う。薄闇の中に出て、共犯者と二人歩く。
「本当はさ、言葉って存在しないのにね」
「え?」
「だって、聞き取る人がいなかったらただの音だよ。リンゴは確かにそこに在るけど、言葉は無い」
「そっか。じゃあ、音楽も絵も無いんだね」
「うん……。意味があってはじめて存在するものごととか、受け取り手が意味を与えないと成立できないものごととか……」
別に、意味はないんだけれど。
こんな何もない毎日は、まるで消化試合だ。もったいない。とか思っちゃうけど、だからって何かのウイルスのせいでどこかに行けるわけもない。何か、特別なことができるわけじゃない。こうして授業もない学校に通って、死んでゆくのを待つしかないみたい。残り二か月と少し。
女子高生の僕のこんな肉体には高い価値があるらしい。十七歳の少女があんなえげつないものを書いて、ベストセラーを紡ぎ出すらしい。「インストール」を読むたびに、僕はあらゆるものを後悔して呪いそうになる。天才なんて大嫌いだ。なんて、八つ当たり。
僕が消費してきた年齢の数々は、資産家の全財産さえはたかせるほど高価なものだった。失ってみるまでその価値を知ることはなかったけど。ま、知っていても何も変わらなかったし、変えられなかった。変えられないはずだ。
だけどもし、もしも何かを変えられるんだとしたら変えたいのは何だろう。
ハルマゲドン春巻き丼。
青ざめた空。
「最近、今までになく毎日が幸せなんです。嫌なことが全然なくて」
「あら。彼でもできましたか?」
「要りませんよ」
あまりにサラリと出た答えに、ちょっと自分で笑ってしまった。
「高校じゃ良い人いませんか……。でもほら、きっと大学に行ったら」
要らねーって言ってるだろ。
こんな話、ああ、また思い出しちゃう。後悔と反省をしなくちゃいけないこと。僕も悪かったんだって思わなければどうしようもないから。あの日はたくさん雪が積もっていた。窓ガラスが冷たかった。……
子供が嫌いだと共犯者は云う。子供は未完成の動物だから相手にできないと。
「だから、子供は要らないや」
「私も、半分自分の人間なんか育てたくないな。それに、ただでさえ植物の世話もできないのに」
「子供要らないからさ、子宮も誰かにあげちゃいたい」
あまりに素直な意見に、僕は思わず笑った。こんな不謹慎。だけど、あまりに的を射ていて。だから、
「なんで女だからってこんな目に遭うんだよな。子供なんか絶対要らないのに」
って、いつか聞いたあの子の言葉をなぞった。何年も経ってやっと理解できたんだ。あの子が言っていたことの意味。
「結婚もしたくないしなあ」
「そうだねえ」
保健体育の授業で投げかけられた、「将来、結婚したいって思う人」という問いかけに挙がる手の数々を思い出せば寒くなる。
「じゃあ、結婚しなくていいって思う人」
それは僕だけだった。奇異の、驚愕の眼差しが刺した古い傷が疼く。
幸せは人それぞれじゃんか。結婚が幸せでもいいよ。だけどみんな、なぜ自分は結婚できるなんて思ってるわけ。
「どうしても結婚するなら、友達で、家事をやってくれる人がいいな。子供は絶対に要らないんだし、もう海外に行って同性婚でもいいかな」
「同性婚か」
共犯者は目を丸くして頷いた。
「そっか、それなら確かに」
「良くない? 生活を分担できればいいんだしさ」
「そうだね、それいいね。家事くらいするから養ってほしい」
「養うから、誰か私のご飯を作ってくれ」
「全然。作るよ」
「ほんと?」
なんて、僕たちは笑いあう。
「もうこんなに結婚観が一緒なら、僕ら結婚しちゃおうよ」って本当は言ってみたい。冗談にならないから言えないけど。言ったらきっと後悔するだろうから。だけど、それでも、この人と結婚することを考えるなんてどうかしているだろうか。共犯者はどう思うんだろう。
花のにおいが遠くなった。しゃがみ込んで、低い水仙に顔を近づけて、思う。毒のある花ほどこんなにいい香りがする。
しばらく共犯者に会わない日々が続いた。その日々の中で、僕はずっと共犯者と結婚するということを考えていた。それはきっと幸せだろう。朝は早起きの共犯者に起こしてもらって、仕事から帰ったら共犯者が美味しい夕飯を作って待ってくれていて、休日は午後じゅう連弾をしたりするんだ。どこか土地の広い国に住んで、近所がいない家でアップライトでも買って……。この日々の続きをするんだ。絶対に叶わないけれど。こんな妄想は悪いことだけど。
黒と白のスーツなんか、社会に忠誠を誓うみたいで嫌だった。それを大学の入学式に着ていくことが意味を持ってしまうように思えた。だから灰色を着てみたけど、鏡を見て卒倒しそうになった。僕じゃなかった。
潮が満ちていく砂浜にくるぶしまで埋まって、僕は何もできずに溺れていくんだ。もう、鼻で息するしかないくらいで。
とっくに必要ないのに、ワイシャツを着て、プリーツスカートをはいて、リボンを留めている。定期が切れた改札を潜って、人がいない電車に乗って。久しぶりに共犯者に会った時にはもう、余命はひと月余りになっていた。僕が僕であれる時間。共犯者といられる時間。それは気づくとあと僅かだった。
通学路の家に咲いた、あふれんばかりのミモザの黄色に共犯者ははしゃいだ。家々のウメやカワヅザクラももう、満開だった。
「黄色やピンクの花を見ると、春って感じがして嬉しいんだ」
そんな共犯者を見ると、僕もちょっと嬉しい。
でも、花々の色彩には胸を締め付けられる。終わりが迫ってくるんだ。鮮やかになっていく通学路は何て砂時計。
命乞いをしたい。今までのすべてを悔いて、反省するから、どうかもっと時間が欲しい。這いつくばって、両手を組んで、みっともなく命乞いをさせてほしい。
誰に。
共犯者には白いシャツが似合う。よく似合うその白いシャツは、僕の暴力性を掻き立てる。静かで明るい朝、あの白い胸ぐらをつかんで、つかみかかって、そうしたら、共犯者はどんな顔をするだろう。そのまま壁にでも突き飛ばして、それからやり返されたい。殴られたっていいや。そして、赤い鼻血が点々と白いシャツを汚す。言葉を交わすんだ。暴力的で優しい言葉がいいな。例えば、何だろ……
これは、この衝動は模範的に生きてきた代償だろうか。
最低だって言って許されようとする悪癖。
僕が聞いていた音楽は、派手な古着屋のばかでかくて煩いロックに掻き消された。
落ち込む僕を慰めようと、サプトノは手を差しのべた。僕は、思わずサプトノの手を取った。取ってしまった。
突き刺さった。優しさが突き刺さった。卒業式目前の絶望した心には無感動でいる努力も空しく、あっさりと貫かれてしまった。優しくさせた自己嫌悪と罪悪感と、手をつなぐ後ろめたさが傷を開いていく。優しさがこんなに痛かった。サプトノの冷たくて大きい手を、少し申し訳ないから緩く握って。誰も僕に優しくしないでくれ、なんて思った。そんな気持ちに共鳴するみたいに、冷たくて厚くて平らな大きい手がおぞましい過去を思い出させた。
カーテンの向こうで真っ白い世界や、窓ガラスの硬さや、背中を塞ぐ硬くて冷たいフローリングや、僕を見下ろす深く黒い目や、取り繕いの言葉の数々。僕はその時考えていたよりもずっと深く傷ついていた。それは人間性を正面から否定されたからだと、三年経つまで分からなかった。僕じゃなくても別に良くて、肉体であれば何でもいいんだろ⁈ そんな怒りに似た嫌悪だけが分かっていた。道具としか思われないことが、人間性を否定されることが、こんなに傷つくとは。傷ついた意味を理解するその時までは、別に平気なはずだと思っていた。
思わずサプトノの手を離してしまって、何でもないようにスマホを取り出した。取り出したスマホで意味もなく錆びた街灯を写した。
最初で最後だ。他人と近づきすぎることは怖いし、悪いことだし、自分を嫌いになるし。だから、これだけにしよう。これ以上はもう、傷つくし、傷つけてしまう。裏切り合う結末は見え切っているんだから。
痛覚は無いのに、どこかがひどく痛いと感じた。
体育館に響くバッハベルのカノンは絶望的で、花なんか飾ってあって、みんな慎ましい顔をして、制服の行列は葬列みたいだった。死が背後から右耳にささやいて笑んだような気がした。
夜景を見に行った。僕が一番好きな夜景。サプトノが撮りたいというので一緒に見に行った。記念撮影をする新郎新婦を眺めて、サプトノは云った。
「女遊びとか、したくないんです。だから、付き合うなら結婚を前提にしたいっていうか……。重いですよね、この価値観。気持ち悪いなって思うんですけどね」
誠実なだけいいんじゃない。僕の価値観の方がよっぽどキモいんだと思うよ。
だけど、価値観なんか人それぞれでしょ。
愛って何なんだ。僕は愛に何を求めてるんだろう。なんて、ボケかけのリンゴを片手に考えている。本当の飢えとはっていうけど、どうせ愛は食べられないじゃん。僕が知る愛はこのリンゴよりも遥かにおいしくないものだ。
「ガキに必要なのは恋人じゃなくて母親」だって、本当、その通りなんだなって。僕はきっと反抗したい盛りのガキなんだ。国籍にセクシュアリティにスーツに……。だからきっと僕が求めているのは恋愛なんて高尚なものじゃなく、単なる親愛なんだ。親は十分僕のことを愛してくれるんだけど。親であると同時に僕にとっては支配者たりえるから。結局、その愛は少しだけ支配や制御に似ていると思ってしまうことがある。愛だと分かってもどうしても。
眠れなかった。あの子の結末を受け止めきれずに、眠れない日が続いた。
欄干の前にしゃがんで、鉄の一本線を両手で握って、腕に顔をうずめて。正面から海風を受ける少女の背景が目まぐるしく変わるイメージがまぶたの裏でリピートしていた。
少女はつぶやく。
「他人と関わるのがこわいんだ」
「他人と近づくのがこわいんだ」
「他人と触れ合うのがこわいんだ」
って、困った笑顔で振り向くのは、きっとあの子で。あの子と僕とを意識的に重ねている。
誰も優しくしないで。誰か甘やかして。
誰も構わないで。誰か助けて。
誰も近づかないで。誰か抱きしめて。
あと何回会えるのかもわからない共犯者に会っては、欲しい気持ちになっている。
許してくれないかな。余命幾ばくも無い僕らを。
よかった、僕はまだ不幸を感じられる。なくなってゆく不幸を。
また眠れずにずっと起きている。死ぬのならここじゃない場所に行きたくなる。何もかも棄てて、スーツケースひとつに僕の生活を集約してみたい。それだけ持って、遠くへ。寝返りを打って、目につく汚い部屋に苛立ってしまう。物があふれている。
もう何も要らない。そして何もかもが欲しい。
平日の昼間、また好きなだけピアノを弾いて、共犯者と僕は校舎の裏に座って昼食を食べた。よく日の当たる場所で、カラスノエンドウが小さく花を咲かせ始めていた。向かいには 白い花をいっぱい咲かせたまっすぐな木があった。
「サクラかな」
「サクラにしては花が大きくない? モクレン?」
二人で近寄ってみて、共犯者はあっと声を上げた。
「コブシかあ」
「コブシ、これが……」
徐々に濃さを増しだした空の青に、その純白の花弁と黒い枝のコントラストが映えていた。
「コブシ、知ってた?」
ふと、その木の言葉が頭を過った。僕がコブシを描いたのは、
「つい先週、友達の誕生花だからって描いてあげたんだけど、コブシと思ってコブシを見たのは初めてかも」
「いいな、それ。私にも描いてよ。何だっけ、私の誕生花……」
その夜、愚かにも僕は画材を広げてセンニチコウを描きだそうとしていた。意味を持つべき絵に花を描くのは失格だと分かってはいる。分かってはいるけど、安直な僕には他に何も考えられなかった。だから、僕は共犯者の誕生花であり、バカバカしいような言葉を冠したセンニチコウを描くことにした。
あの白いコブシの絵をあげたのは、サプトノ。すごくつまらない形での表明にしたかった。
次会ったら、きっとこのセンニチコウを共犯者にあげよう。花を贈るたびに僕はつまらない人間になっていくような気がするんだけど。だけど、それでも共犯者が喜べばつまらない僕にも何か意味があるって思える期待をするから。
造花を掻き分けて机の上に一つ、百均の観葉植物を置いた。
一歩、前に進んだ。僕にとっては大きな意味がある一歩だった。
雨が降った日。サプトノに誘われて六本木の美術館に行った。あんなにちゃんと絵を見たのは初めてだったかもしれない。半分も見ないうちに目が痛くなった。ああ上手い絵を見ていると、辞めたくなった。いったいどれだけの時間を費やしてあの技術を獲得するんだろうか。僕のものなんかゴミに感じた。
写真に写るものなら描く意味は無いだろうと思っていた。だから写実主義よりも印象派みたいな絵の方がずっと好きだった。だけど、その日は写真を超える写実を見た。一人の少女を描いたその油画は、絵や写真というより、虚像、ホログラフィのようだった。幻を見たんだろうか。僕には絵を見た記憶ではなく、一人の少女がそこにいたような記憶がある。時間を止めて、写真よりも真に迫る姿で閉じ込めてしまう技術。ぜひ僕のことも閉じ込めて欲しかった。若いままの僕を保存して欲しかった……
とつぜん、共犯者は「もう学校には行けない」と言った。忙しくなるんだそうだ。あと十日余り。残された時間のうちで、また共犯者に会えることを勝手に確信していた。
そっか。もう一緒に音楽室に侵入することも、連弾することも、中庭でお昼ご飯を食べることもできないんだ。もう無意味に二人で制服を着て登校することは無いんだ。
空気のような喪失感が襲った。
気づかないうちに僕らの時間は終わっていた。あれが最期になるだなんて、思ってもみなかった。きっと、死ぬときも死んだことには気づかないんだろう。それならいいな。いいのかもしれない。
「人の温度が恋しい」って、そんな言葉は嫌いだ。癒しや慰めが欲しいだとか。そんな表明は大嫌いだ。僕に言われても何もあげられないのに、あげたくなってしまう。突き飛ばしてしまえばいいのに突き飛ばしてしまえない。血も涙もない人間になりたい。孤独で孤高で、救いなんか要らなくて、利用するだけ利用してポイ捨てする純正な悪人になりたい。まだ中途半端に良い人を辞めきれない。
単独犯になって、かつてきみがいた場所を歩いた。右がわが壊れたイヤホンで、きみと僕が好きな音楽を聴きながら歩いた。
たった一週間離れただけなのに、世界は変わり果てていた。サクラはこれでもかと満開で、花弁が雪のように舞っていた。落ち葉で埋まっていた花壇に花が様々咲いていた。去年密かに毎日落葉を観測していた中庭の木に、新緑が芽吹いていた。毎朝きみを喜ばせたミモザの枝は全て刈り取られていた。最期にきみと見たコブシの花は、もう半分も落ちていた。
すべて、残酷な宣告だった。
「桜の樹の下には死体が埋まっている」。きっと、それは僕の。
こんな華やかな景色の中に、僕は死んでゆくのだ。
音楽室に忍び込んでみても、きみの音がしない。物足りない。
「Quatre Mains」の片側を僕独りで弾くだなんて、こんな痛々しい比喩が偶然にもあるだろうか。こんなのはまるで、ちゃちで悪質な引用でしかありえないじゃないか。僕はこんなことを望んで選曲も分担もしたわけじゃないのに。
きみといた席を選んで座る。暖房がよく当たるから、寒がりなきみはその席が好きだったんだ。
春休みを前に今日で閉まる図書室で、最期に読んだのは僕の教科書。あんな酷い比喩にあやかって、歪な教科書にした。
僕にはまだ理解できないんだ。彼らが違う世界で首を絞め合った意味。結末が整然としている義務なんかきっと無いことを教えられた。僕も観客目掛けてバケツいっぱいのタールをぶっかけてやれたらって思う。まだ、呪縛が解けずにあの砂浜にいるんだけど。
顔をあげたって、無数に本が見えるだけだ。
病院の廊下みたいな図書室前のベンチで、独りでお弁当を食べる。お弁当に入っていたミカンはイチゴになった。つい、左がわに寄って座っている。
今日、きみはどこにもいないんだね。
振り向いたらそこにきみがいるような気がしてるけど。そんなわけは無いんだけど。
こんな明るい春の景色を見たら、きみは喜ぶんだろう。
たくさん物を捨てた。いつか僕が選んで買った物を捨てた。机いっぱいの慰めのための造花の束も捨てた。机の上には、百円の観葉植物だけを残した。ファイルの中身を捨てていたとき、ふと見覚えある軽い封筒が落ちた。開くと、そこにはセンニチコウを描いた葉書が一枚納まっていた。広くなった床に仰向けになって、葉書をかざしてみる。右と左、一本ずつのセンニチコウ。細い茎の先、右のには花が三つ、左のには花が二つ。赤々と描かれていた。空虚が襲って、葉書を胸に落として髪を搔き乱した。涙は乾いていた。どうすべきだった。
僕は最善を尽くした。尽くしたはずだ。
何度も確かめようとしている。僕の人生に意味があったことを、確かめて、肯定しようとしている。だけど見つかるのは……
僕はすでに死んでるんだろうか。
いつも水をかけてやるときにはこの植物は僕がいなければ死んでしまうんだと思う。百円のこの命を生かすのも殺すのも僕次第で、僕にその気がなくても放っておけば勝手に死ぬんだ。細い黄緑色の茎にハサミを当てる。ぐっと挟むとその肉の厚みや硬さが指に伝わってきて、僕は思わずハサミを置いてしまった。痛いかな。こいつは葉を失うのが嫌だろうか。だけど、伸びきったこのままでは当たるべき葉に光がちゃんと当たらないんだよ。想像よりも断然硬い茎を切ってゆく。最後、切り口には木工ボンドでフタをしてあげた。気づくと買ってきた日には小さかった柔い新芽の茎がもう人差し指一本くらいに伸びていた。あれから十日くらい。もうそんなにか。ねえ、おまえは何を考えているの。
あと数日という時になって、僕は一泊二日で三重まで出かけることになった。おととし死んだ祖母のお墓参り。一回忌はウイルスの流行が佳境で行くことができなかったから。
低い屋根が連なる田舎の景色を車窓の外に見る。車で五、六時間、座っていることしかできない。一時間だって余命は惜しいのに。
降り立った田舎町はコーヒーのにおいがした。工場から海風が運ぶそうだ。明日はきっと雨だと祖父が云う。夕暮れ時を歩く。ブロック塀の上に並べられた平石や、砂利の空き地に一つ放置されたボートや、狭い道に立つ小さな遮断機や、誰も乗っていない二両編成の列車を見た。コーヒーのにおいは次第に強くなっていき、雲は厚くなった。明日は雨らしい。明日。いつか、明日が来ない今日が来る。今日がその日かどうかなんて、明日になってみるまでわからないんだ。失うのはきっと一瞬だ。それが本当に一瞬かどうかを知ることもできはしないけど。
祖父はまだ祖母が生きているかのように語った。これが嫌いだとか、好きだとか。
死んでしまった人は、まだそこにいるような気がする。ひょっこり台所から現れるんじゃないかなんて思っている。仏壇に飾られた写真が幻のような、いや、その人がいたことが幻だったんだろうか。最初から僕の空想だったんだろうか。何もかも不確かで、墓石だってただの飾りに思える。それがお墓だという実感が持てない。何か、ただ灰色の置物みたいなもの? みたいな。
たとえば、生きていても僕はみんなの幻影で、死んでしまってもみんなの幻影なんじゃないか。だって、ほら、もうこんなにも共犯者の存在は不確かだ。あの日々やその幸せ、そこで僕が犯した過ちも全部、僕の想像の産物なんじゃないだろうか。きっとその日が来てしまえば、女子高生である僕という存在も空想の過去に収納されていくんだ。だから、僕は初めからいてもいなくても同じ。みんなそうで、幻影どうしが補い合って存在しているのが僕たちだったり——。なんて、途方もないけど、案外に的を射ているんじゃないかな。
そんなこと、分かったところで残された時間が余計にかわいくなるだけだけど。
祖父の予言通り、次の日は雨になった。濃いコーヒーのにおいが立ち込める中、僕はその 田舎町を後にした。
途中、事故渋滞に巻き込まれて帰りは八時間もかかった。僕は迷惑がっているだけだけど、この車の行列の先で誰かはきっとうろたえている。
そんなの、知ったことじゃないんだけど。
車窓から外を眺めているのに、気づくと虚像と目が合っている。それは若くうつくしい少女であったし、醜いヒトであった。
こんな僕を愛してくれる人がいたとして、その人のことは信用できない。僕はもう、誰の手も握りたくはないし、サプトノの手なんか二度と握らないと決めたんだ。きっと傷つけあうだけだ。誰かが傷ついたっていいけど、僕は傷つきたくないんだ。きっと、そんな未来には何も良いことなんかない。なら、一生孤独に生きていくしかないんだろう。
独りでいいだなんて、言うなよ。いつかあの子にそう言ってやりたい。じゃない。そう言ってほしいのは僕のほうだ。
剪定の切り口で透明になった木工ボンドを持ち上げて、新芽がもう顔を出した。まだ三日しか経っていないのに。三日はおまえにとってはそんなに長い時間なの。そっか。だけど僕に残された時間もあと三日なら、三日って長いのかもね。だって三日が経てば僕はもう制服を着られなくなるんだから。たった三日、されど三日。三日の違い。僕もおまえのように生きていけたらとか。
「この人生よりも硬貨な死を望む」。この人生よりも。硬貨な。この人生よりも硬貨な死を。硬貨な死を。死を望む。硬貨な死を。硬貨な死を望む。「この人生よりも硬貨な死を望む」。……
頭の中で繰り返す。
原文も訳文も秀逸で、ああ、もう、そんな秀逸なものを書くなよ。
……目覚めて、十一時半。
大きな息を漏らし、頭を落とした。今日はせっかく吹奏楽部の演奏会の日だったのに。ピアノ、弾き放題だったのに。やっちゃった。大切な一日が。こんなのって無いよ。もう行かないと。午後からサプトノとサクラを見に行く約束だから。だから、起きないと。
学校帰りってわけでもないのに、僕は寝坊をしたっていうのに、またシャツの袖に腕を通して、ボタンを掛ける。スカートのファスナーを上げて、ホックを留める。ネクタイを緩く結んで、こんな。惨めにも制服を着るんだ。今日も。サプトノには学校帰りだってウソついて。
サクラは、やっぱりこんなきれいだ。春を過ぎればサクラの美しさなんか忘れるのに。あーあ、こんなにいっぱい咲いちゃって。やっぱり、そこには僕がいるんでしょ? その根に僕を抱えているんでしょ? 僕はこんなにも喪っていって、減ってゆくのに。
いぶき。いぶきだった。
あれは何の色なのか、僕はずっと考えていた。どうして中々、サクラの花びらの色は絵の具に再現できない。だけど、今日ぜんぶ分かったんだ。
「桜の樹の下には死体が埋まっている!」
夕焼けに染まってトロンとした色にたゆたう。ひとだまみたい。そう、ひとだま。きっと、あれは命の色だ。
最期の日まで、僕は罪を犯した。
また間違った音が鳴る。指や手首がもげそうに痛い。爪の隙間から血でも滲みそう。白い鍵盤に血液の色がちらつく。それでも、絶えなく弾きつづけなければ。きっとこんな不完全な音楽も今だけの僕なんだと見做せば尊い。
すっかりこうして罪を犯すことの意識も消えてしまった。
一週間もしないうちに学校の周りのいっぱいのサクラには青々とした葉が伸びだして、夏を呼んでいる。シャツの下で肌が汗ばむ。きみがいた路で独り。降り注ぐ白い花弁を捕まえようとするのに、次々と指の隙間をすり抜けていってしまう。きみがいたら、もしもきみがいたなら喜ぶに違いない。一緒に花弁を捕まえる遊びをしたのに。きみはもういないんだ。ここにはいないんだよ、もう。
何もかもにさよならだ。みんないなくなってしまうんだ。僕も。
本当は知っているんだ。僕はたぶん、明日からも生きてくんだってこと。女子高生じゃなくなって、制服を着られなくなったって、生きているなら、明日が来るのなら、明日からも生きなくちゃいけないんだ。余命だなんて幻想で、死ぬ日は分からないなんてこと、とっくのとうに知ってたんだ。知ってたんだけどさ。
「僕の人生、意味あったよね? 価値あったよね? 有意義だったよねえ⁈」
足許に縋りついて泣いても、答えは帰って来ない。
「何も、一片の後悔も無いよね?」
「これで、よかったよね?」
「悪いことたくさんしちゃったけど、きっと間違ってなかったよね?」
「また共犯者にも会えるんだよね?」
「ねえ……」
いまわ 富田百 @tomita100
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
神様/富田百
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
新世/富田百
★3 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
郵便局はバカなのか最新/ゴキゲンとんぼ
★1 エッセイ・ノンフィクション 連載中 5話
億り人の告白新作/ミチタリン
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます