第7話 フィット

 また二日ほど陽を回して、移住の日がやってきた。

「女王樣……なんとお礼を申したらよいか」

「ありがとうございます……!ありがとうございます……!」

 クババを慕う国民たちは、みなそれぞれが感謝の気持ちを畏怖の念に乗せて伝えてくれる。それに真摯に向き合い、ときに幼子に術語の守護をかけながら見送る。


 だけどクババは恥じていた。

 この避難は逃げだ。本来すぐに制すことができるはずの無謀な反逆を止められず、故郷を離れず安堵できたはずの彼らを逃がすことになった自分を恥じていた。

 

 飛行船に振る手を下げ、ケルビムと目配せしたクババは彼の運転で北の荒れ地に向かった。

 クロノスはそこでクババにこう告げた。


「お前の病めるところに強さがある。風が当たるほど削れていくから、私は風を吹かせている」

 

 その意味はなんとなく理解したが、正直何がしたいのかわからなかった。


 だけどクババには彼を徹底的に痛めつけるような気は毛頭ない。最近はその姿勢に懐疑的な国民もいるにはいるし、その意見もわかるのだが、やはりどこか最後まで美しくありたい気がしていた。


 帰り際、門番が電話をクババに寄越してきた。セラフィムからだ。

「えっ?!」

 クババは即研究所へ向かうためハンドルを握った。


 白亜の壁。相変わらずの殺風景な空間に、研究所員は並んでいた。礼儀作法、彼らは目を伏せて、天使の輪を指でつまむ。最大級の敬意を表す仕草だ。

 クババはそれに応えるようにレガリアを外して術語を背にだした。術語は青い炎の姿で現れ、天高く昇って結界を張る。外部に音を漏らさないこれをセラフィムが要求するということは、相当な報せがあるのだろうと容易に察せた。


「まずはこれをみてください」

 セラフィムとゼルエルが計器を操作しながら地球の表皮を映した。

 そこには、少しばかり背が高く毛の薄い猿のような生き物が美しい草原の中で走っている。

「これはホモ・サピエンスといいます。少し前から出現していた”人間”のなかでもっとも新しい人種です」


 人間。

 地球上で正当に進化した生き物の中で、最も知的生命の可能性が高い生き物。雑食性で昼行性、コミュニケーションを扱える。

「いかがいたします?」

 ゼルエルが問うた。


 ボイドにコピーした世界は仮縫いに過ぎない。五年ほどしたら戻さなければならなくなる。それまでに、クババはもう一つ実験をしたかった。

 それは、他の知的生命が争いから抜け出す方法は何なのかという観察。


 宇宙空間もこのホモ・サピエンスも、もとを辿ればクババが生み出した物質から生まれている。だがいまやこの空間に漂うあらゆる物質は、もうこちらの世界とは構造から異なっている。

 だから、クババには思いつけない形の講和が結ばれるのではないか。


「やるわ。ケルビムも連れて行く。国は術語の担当と国としての象徴をウラノスに、政治と統率はユピテルに任せるから」

 クババはその旨を紙に記す。

 術語の炎で焦がして印を入れ、セラフィムに渡す。


「それでは最終調整を行い、ひと月後、発つとします」


 クババは城へ戻り、同じ経緯を九臣に伝えた。

「それってどんな……」

 ビーナスが尋ねた。

「私も本当に実現できるとは思ってなかったんだけどね」


 まず私が地球に降りて、ホモ・サピエンスに知恵を授ける。術語の力でね。知恵ってのは具体的には信仰心や社会性のことね。そのうえで私とケルビムも含めて文明とかを築いていくの。そうしたら争いが起こるでしょ。その争いのデメリットに気づき、講和へ持って行くまでにどんなプロセスがあるのか……それが知れれば、クロノスに応用が効くかもしれないの。相当大掛かりではあるけど、そのためにこっちから宇宙空間の時間をいじれるようにしてあるしね。


 ビーナスは逆に狼狽ろうばいした。

 この方は不思議な方だ。圧倒的な力と支持を持ちながら、腐ることなく君臨しつづけ、その身をもって尽くそうとする。

 椅子に座って頷くだけで片付く仕事も、疑問点をなくしてから対応。

 机に世界が乗らないことを知っている。それが、女王クババという存在だ。

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