1-3
家にたどり着き、階段を上がり、二階にある自室のドアをあげる。六畳一間の僕のお城はいつも通り手狭だ。バイクのヘルメットを机の横のフックにかけて、ベッドの上にゴロンと横たわる。じんわりと全身が緩慢していく感覚があった。
柳田に悪絡みされたり、バイトの先輩の雑談に付き合わされたり、今日はなんだか疲れる一日だったな――スマホで時刻を確認すると、すでに十時半。……風呂、入らなきゃ。シャワーだけでいいか。……それにしてもだるい、起き上がれない。
僕はベッドの上でぐずぐずしていた。睡魔さえ襲ってくる気配があった。……あと五分だけ、横になろう。僕はゆっくりと瞼を閉じやり、
「遅かったな。平日の金曜日は、いつもきっかり九時半には帰宅しているお前が」
秒で開眼した。秒で飛び起きた。
確かに聞こえたんだ。『誰かの声』が。
前のめりになって事態を確認する。声を発したその『誰か』の姿を僕の視界がハッキリと捉えた。僕の机の上に腰をかけ、だるそうに足を組んでいる女性がいる。
真っ黒なローブをまとった長髪の女性だった。怖ろしく白い肌、くすんだ灰色の瞳――まるで生気の感じられないその顔に、僕は全く見覚えがなかった。そして、
遅れて気づく。不可解な事実に。
さっき僕は、机の横のフックにヘルメットをかけた。その時、僕はその女性の姿を見ていない。そして僕がベッドに横たわったあとドアが開く音なんて聞いていない。つまり――
「お、お前……どこから入ってきた!?」
思わず大声をあげる。混乱のあまり、声は裏返っていたと思う。
女性は返事を返さない。微動だせず、色のない目つきで僕を薄く睨んでいる。無言に耐えられなくなった僕はさらに声を荒げて、
「だ、誰だ!? 何しに来た!?」
女性がふぅっと短く息を吐く。そのまま、機械のように淡々と声を発した。
「私は死神だ。お前の命を取りにきた」
――はっ……?
……いきなり何を言い出すんだ? ……死神? なんで、僕の命を? ……いやいや、冗談に決まっているだろう。……冗談? 顔見知りでもない僕の家に勝手にあがりこんでこんな真似、冗談にしてもやりすぎじゃないか? 一体、何が目的――
「――しまった。間違えた」
女性が再び声をこぼす。先ほどとは違い、やけに間の抜けたトーンだった。
僕の思考が一時停止されるのは必然だ。一瞬だけハッとした表情を見せた女性だったが、すぐに真顔に直って、
「私は恋の神だ。お前の片思いを成就させにきた」
――はぁっ……??
脳が限界だった。わけがわからない。わけが、わからなすぎる。
机からトンッと地面に降りた女性が片手を前に突き出すと、何もない空間から、禍々しい形状の鎌が出現した。彼女が慣れた手つきでそれを掴む。……えっ?
僕は言葉を失う。目の前の光景は、科学で説明できる類の現象ではなかったから。
真っ黒な女性が不敵に笑い、
「藤吉玲希。お前の命、私が預かるぞ」
躊躇ない所作で鎌を横に凪ぐと、刃先が僕の胴体を貫通した。
一瞬の出来事だった。あまりにも自然な女性の所作に、僕は一つも身動きを取れなかった。
僕は言葉を失ったまま、パクパクと口を開閉させている。全身から血の気が抜け、急な目眩と吐き気に襲われる。えっ? えっ? えっ? ……えっ??
恐怖に支配された僕は目線を動かすことができない。『現実』に目を向けることができない。
僕の上半身は今、真っ二つに割かれてしまっているだろうに。
脳が僕の神経に緊急指令を達した。『意識を体から手放せ』と。
急激に瞼が重くなる。そのまま僕の全身は、グラリと前のめりに倒れていき――
「――アンタ、何やってんですかーっ!」
すっとんきょうな声が耳に飛び込んで、僕の意識がギリギリのラインで現世に繋がった。
僕の眼前、どこからともなく現れたブロンドヘアの女の子が、真っ黒な女性を両手で思いっきり突き飛ばしていた。
体勢を崩した真っ黒な女性は本棚の角に頭を激突させており、しかし追撃を許さぬブロンドヘアの女の子が、真っ黒な女性の首元を掴んでその身体を引き寄せたかと思うと、力任せに前後に揺さぶり始める。
「た、ターゲット殺しちゃって……どーすんですかっ!? この、バカ死神―っ!?」
「ちがっ――わたっ――やめっ――」
真っ黒な女性は頭をガクガクと揺らされながら、発言を阻止されていた。
「だから『死神付き』なんてイヤだったんですよーっ! こんな失態、恋愛課では前代未聞ですよーっ! この世の終わりじゃーっ!?」
ブロンドヘアの彼女が半泣きになりながら阿鼻叫喚している。僕は状況についていけてない。あらゆる出来事があまりにも突飛だったから。そして、
奇妙な事実が僕に疑問符を投げかける。
胴体を真っ二つにされたはずの僕は何故、揚々と思考を保っていられるのだろう。
恐る恐る手のひらを胴のあたりにやった。……しっかりと肉体の感触がある。血がしたたっている気配もない。そして何より、僕は痛みを感じていない。
目を腹部に向けると、僕の五体は満足の状態で傷一つついていなかった。
「あれっ?」僕が漏らした間抜けた声に気づいたのか、ピタリと喚き止んだブロンドヘアの女の子が僕に視線を移し、「へっ?」彼女もまたお間抜けな声を漏らした。
首元を掴まれたままの真っ黒な女性が、ようやく声を取り戻して、
「……私は、殺してなどいない。この鎌は実体を持たないんだ。肉体に傷を与えず、人の魂にのみ干渉する」
彼女はハァハァと肩で息をしながら絶え絶えに言葉を発した。ブロンドヘアの女の子が恐々とした口調で、「……じゃ、じゃあシレネ様、彼に一体何をしたんですか……?」そう訊ねると、シレネと呼ばれた真っ黒な女性は、改まるように一呼吸を挟んだ。
「別段、ちょっとした『呪い』をかけただけだ」
「……呪い?」ブロンドヘアの女の子が訝し気に眉をひそめる。僕もまた、物騒なその言葉にざわざわと胸騒ぎを覚えていた。
「おい、藤吉玲希」真っ黒な女性が相変わらず薄い目つきで僕を睨んだ。混乱した僕は返事を返せず――というか、なんで僕の名前を知っているんだ?
混乱に混迷が二乗されるさ中、シレネと呼ばれた女性が驚愕の宣告を、僕に。
「お前は一か月後のこの時間に、死ぬ」
――はっ……?
「死を免れる方法はただ一つ。片思いを成就させること。それが私のかけた呪いだ」
――はぁっ……??
この段になって僕はようやく声を取り戻した。しかし早すぎる展開に脳の整理が追いついておらず、「……死? 呪い? 片思いを……成就?」バカみたいに反復するくらいしかできない。
「……シレネ様」
しばらく口をつぐんでいたブロンドヘアの彼女が声を発した。何かを諦めたようにふぅっと嘆息し、大きなブルーアイを野犬の如く細めて、
「――どっちにしろ、勝手に何やってんだアンタ―っ!?」
再びどーんっ。真っ黒な女性の全身を突き飛ばす。
ありていに言うとこの場はカオスだ。誰か助けて。
僕が平静を取り戻すのに半刻ほどの時間を必要とした。その間、ブロンドヘアの女の子が自分たちの正体について必死に説明を試みていたが、僕は半分も理解できていない。
「……ええと、つまり。キミたちは僕の片思いを成就させるために天界からやってきた恋のカミサマで、決して僕の命を取りにきたわけではないと――」
「はいっ! アタシは神と言っても、まだ新米の天使ですけどね! あっ、自己紹介遅れました! アタシ、エーデルっていいます!」エーデルと名乗った彼女がピースサインと共にニッコリと満面の笑みを作る。僕は彼女の全身を品定めするように眺めやった。
頭上に漂う金色の輪っか。および背中から生えている真っ白な羽根。
コスプレの類にしては精巧すぎる。っていうか、その輪っかはどうやって浮いているんだ?
気づかない内に僕はエーデルを凝視してしまっていたようだ。「あっ、アタシがいくらカワイイからって……そんなに見つめないでくださいよーっ、イヤーンっ」彼女は頬を赤らめながらくねくね身体をくねらせている。……なるほど、中々いい性格をしているらしい。
彼女は仕切り直すように背筋を伸ばし、さきほどぶつけた頭に掌をやっている真っ黒な女性に視線を向け、「で、こちらが正真正銘、恋の神――」
「シレネだ」エーデルの言葉を奪い取るように、真っ黒な女性が名乗った。
窓の外に目を向けているシレネの瞳は何かを捉えているようには見えない。目の奥に一切の光が宿っていなかった。一体どんな人生を送ったらこんな目つきになるのだろうか。……神様だから、人生っていうのもおかしいか。っていうか――
「……これ、ドッキリか何かなの?」
僕はポリポリと頬を掻きならそうこぼした。エーデルが「エッ」とキョトン顔を作る。僕は構わずに、「いや、天界がどうとか、神がどうとか、呪いがどうとか……、いきなり言われて信じろっていう方が無理あると思うんだけど」
平静を取り戻した僕は、努めて冷静に自身の考えを述べる。
エーデルが眉を八の字に曲げながら焦ったように、「あ、アタシたちは本物のカミサマなんですよーっ! 信じてくださいよーっ!」僕の肩を掴んでユサユサ揺らし始めた。
「そ、そんなこと言われても、何か、証拠でもないと――」
「鳴海美百紗」
それまで僕らの会話に介入していなかったシレネが、ボソリと呟く。
その名前に僕のこめかみがピクリと反応し、エーデルも僕の肩から手を離してシレネの方へと顔を向けた。シレネは窓の外に目を向けたまま、
「トップアイドル『idol.meta』に所属する、お前と同い年の高校二年生。……お前は鳴海美百紗へ一方的な恋愛感情を抱いているな。いわば片思い。そして」シレネが僕たちに視線を移ろわせる。
「――お前は、自身の恋心を口外したことがない。にも関わらず、私たちはお前の胸中を知っている。それは私たちが恋の神だからだ。……知りえることのないお前の心の内を把握しているという事実は、私たちが人智を越えた存在であるという証拠にはならんか?」
僕は押し黙ってシレネを見つめていた。脳内で、思考をグルグルと回転させる。
僕はたしかになるみもに恋をしているし、それを人に言ったことはない。他のドメタヲタと交流を持たない僕が、そもそもドメタのファンである事実を知っているのは須王くらい。そして須王とて、まさか僕がなるみもに本気で好意を抱いているとは思ってないだろう。
彼女たちがカミサマかどうかは一旦置いておいても、『僕がなるみもに恋をしている』事実を彼女たちが知りえる術は、確かに存在しない。シレネの発言には反論の隙がなかった。
僕は慎重に言葉を選びながら真実の検証にかかる。
「……百歩譲って、キミたちが本当にカミサマだったとしてもさ。僕にかけた呪い……僕が片思いを成就させないと、一か月後に死んじゃうってやつ……に関しては、ちょっと実感が沸かないっていうか」僕はペタペタと全身をさわりながら、
「さっきは混乱しちゃったけど、僕の身体ピンピンしてるし、いきなり『死にます』って言われても突拍子がなさすぎるというか……それに、おかしくない?」
僕は順繰りに二人を見やった。エーデルは不思議そうに首をかしげており、シレネはなおも冷たい目つきを僕に向けている。僕は再び口を開いて、
「キミたちは、僕の片思いを成就させるためにやってきたんだよね。言うなれば、僕の味方のはず。なのに……『呪い』をかけるなんて、やっていることがちぐはぐだと思うんだけど」
「……そ、それは、ですねーっ、ええと――」僕の問いに対して弁解するような声を返したエーデルが、しかしその先が続かない。あげく何故だかギロリとシレネを睨んだ。睨まれたシレネはというとエーデルを一瞥することもなくジッと僕を見つめたままだ。やがて彼女は静かに口を開いた。
「私の仕事は、『お前の片思いを成就させること』。その任務をまっとうさせるためには、どんな手段もいとわない。それが私のスタンスだ」
シレネがユラリと右手をあげて、人差し指を僕の顔面に向ける。
「いいか、藤吉玲希。私は恋の神だが、恋愛の『れ』の字もわからない。何故なら私が、昨日まで『死神』だったからだ」
……死神?
そういえば、開口一番にそう名乗ったあと、慌てて訂正していたような――
「だから私は、死神流のやり方でお前の恋を成就へと導く。恋愛なんぞ、いくら外野がフォローをしたところで当人が自発的に行動しなければどうにもならん。私がお前に先の呪いをかけたのは、お前が『死に物狂い』で恋を成就させなければならない『理由』を作るためだ」
「なっ……」僕は思わず立ち上がり、「そんな、勝手なっ!」思わず語気が荒くなる。
「僕は確かになるみもに恋をしている。でも、アイドルである彼女とどうこうなりたいなんて一つも思っちゃあいない。僕は、なるみもを好きでいる『だけ』で充分なんだ。カミサマだかなんだか知らないけどさ……恋の成就なんて、余計なお節介なんだよッ!」
興奮のせいか全身が熱い。こんなに大きな声をあげたのは久しぶりだ。
僕の豹変に困惑しているのか、眼下のエーデルはおろおろとした顔つきで僕を見上げるばかり。反面、シレネは一つも表情を動かさず灰色の瞳を僕に向けている。
「じゃあお前は、目の前に鳴海美百紗が現れ、交際を申し込んできたとしても断るのか?」
色のない無表情のまま、その口調が乱れる気配が一切ない。
「それは……」僕は二の句が継げず、唇を噛む。その様そうを醒めた目で眺めていたシレネがふぅっと息を吐いて、
「いいか、藤吉玲希。『何故こうなったか』ではなく、『このあと自分がどうするべきか』を考えろ。『片思いを成就させないと、一か月後に死ぬ』。この呪いは、お前がいくら抗議しようがもう覆すことはできん。つまり」
シレネが言葉を放つ。まるで、喉元にナイフを突きつけられるように鋭い声だった。
「お前に与えられた選択肢は二つだけだ。理不尽な現実から目を背け無様に死ぬか。自身の恋に全身全霊を懸けて望みを勝ち取るか」
……無茶苦茶だ。
いくら神様だって、やっていいことと悪いことがある。そもそも僕は『なるみもと付き合いたい』なんて願を懸けた覚えはない。僕はガシガシと頭を掻きむしったあと、憎悪のこもった目つきでシレネを睨んだ。
「……どうしろってんだよ。なるみもはトップアイドルだぞ? 向こうは僕の名前どころか、顔すら知らない。例え握手会とかの接触系イベントでなるみもに会えたところで、彼女は僕のことをファンとしてしか見てくれない。……接点もないのに、僕の片思いを成就させることなんて、無理だよ」
僕はこのミッションの無謀さを彼女に説いた。そんなこと知るかと一蹴されるのがオチだろう――そう、思っていたんだけど。
「なるほど」納得した様子でシレネが口元に手をあてがう。予想とは違う彼女の反応に僕は虚を突かれてしまった。彼女は斜め上に視線を向けながらニヤリと口角をあげた。
「接点があれば、いいのだな」
シレネが浮かべた不敵な笑みは、僕の不安感を煽るのには十二分だった。
「……一体、何を――」僕は彼女を追求しようと口を開いたが、その試みは失敗に終わる。
ドンッ! ドンッ! ドンッ!
「――玲希っ! さっきから何騒いでいるのよ! 何時だと思っているの! まさか、誰か来ているの!?」慌ただしく鳴るノックの音と共に、僕の意識が部屋のドアへと向かう。……まずい。両親が起きたらしい。
僕の部屋には鍵がついていない。両親が部屋に入ってきてこの状況を見られては色々と面倒だろう。焦った僕が必死に視線を泳がせると、二人も異変に気付いたらしい。
「今宵は頃合いかな」シレネが事もなげにそうこぼして、「藤吉玲希、少しの間待て。先ほどお前が挙げた問題は私が解決してやる」
「えっ」僕が呆けたように漏らすと、今度はエーデルが僕の両肩をガシッと掴んで、その顔面をずずいと近づけてきた。
「玲希さん。シレネ様のやり方はちょっと……いや、かなり強引ですが、アタシたち恋の神はあなたの味方です。それだけは……信じてくださいね」
ニッコリと屈託ない笑顔を僕に向け――その表情が、視界からフッと消えた。
ガチャン。大仰な開閉音と共に母親が僕の部屋に入ってきた。バカみたいな顔でボーッと突っ立っている僕を訝し気な表情で見やりながら、
「……なんだ。誰もいないじゃない。いい時間なんだから、一人で騒いでないでさっさと寝なさいよ」一言そう言い、退場する。
さきほどまで混沌を極めていた空間に、今はただ静寂だけが流れている。
シレネとエーデルは、僕の目の前でその姿を消した。
「……まさか、本物のカミサマ?」
思わず独り言がこぼれる。脈打つ鼓動がエンジン音のように全身を震わせており、僕は思わず左胸に手のひらをあてがった。ドクッ、ドクッ、ドクッ。
一か月後、このまま何もしなければ、僕は本当に死んでしまうのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます