裁きの拳

武田コウ

第1話 勝利の味

 煌びやかなネオンに照らされた表通りとは対照的に、シンと静まり返った薄暗い路地裏。

 硬質なモノで肉を打つ湿った音が響き渡る。

 雲の合間からわずかに差し込んだ月光が、薄暗い路地裏を照らし出す。

 三つの人影。

 体を縮こませ、ガタガタと震える女。その視線の先には、大柄な男に馬乗りになり、一方的に相手を殴打している奇妙な格好をした男の姿。

 所謂コスプレというやつだろうか?

 黒色の全身タイツの上から、硬質なアーマーのようなものを身につけ、顔をすっぽりと覆うようなメットには派手な装飾が施されている。

 昼間に出会ったのなら笑ってしまいそうな滑稽な格好。しかし、その滑稽な男は女の数メートル先で大柄な男に一方的な暴力を振るっている。

 殴られている大柄な男も、最初は抵抗していたが今はもうピクリとも動かない。

 死んでしまったのだろうか?

 あまりの恐ろしさに、女は一歩も動くことができなかった。

 どれだけの時が過ぎただろう?数分の出来事のようにも思えるし、数時間が経過したようにも感じられた。

 一定のリズムで拳を振り下ろしていたコスプレ男がピタリと動きを止めた。

 ゆっくりと立ち上がり、あろうことか女の元に近寄ってくる。

 女は声にならない悲鳴を上げて後ずさりした。

 恐怖で体が動かない。

 月光に照らされた男の衣装は、返り血で赤く染まっている。

「……裁き執行」

 聞き取りづらいザラザラとした声でそう言うと、コスプレ男は女のいる場所を通り過ぎ、夜の闇へと姿を消した。

 残された女は倒れている血だらけの大男をちらりと見て、それからコスプレ男が去っていった方角を見る。

 何が起こったのかわからない。

 それはまさに、女がこれまでの人生で経験したことのない吐き気を催す非日常であった。






 日向総一郎は自室のベッドで目を覚ました。

 寝ている間にかいた汗で、着ているTシャツがぐっしょりと濡れている。

 良くない夢を見ていたようで、目覚めは快適とは言い難い状況だった。

 ずきずきと痛む頭を押さえながらゆっくりと上体を起こす。部屋のカーテンを少し開けると、暴力的な太陽の光が部屋に差し込んできた。

 世間はすっかり昼になってしまったらしい。

 スマホのアラームもかけずに寝ていても許されるこの状況に、総一郎は自嘲する。

 つい先月、20年も務めていた会社からリストラされたばかりだ。

 物価はどんどん上がっていくというのに、この国の平均給与はずっと停滞したまま……簡単に言うと不景気、言葉を飾らずに表現するなら単なる地獄だ。

 起き上がると、全身に引きつるような痛み。筋肉痛だろうか?無理もない、何せ20年も仕事ばかりでまともに動いていなかったのだ。

 貯金は少しある。嫁も子供もいない。1年程度なら仕事をしなくても生きてはいけるだろう。

 本来ならすぐにでも次の仕事を探すべきなのだろうが……小さくため息をつく。

 これが燃え尽き症候群というやつなのだろうか?全く仕事を探す気力がわいてこない。

 20年……障害の半分近くを会社に捧げてきたというのに、そのお返しがこれか。

 世の中腐りきっている。

 単なる地獄。先ほど思い浮かべたフレーズを繰り返しながら、総一郎は服を着替え、財布をジーンズのポケットにねじ込んで家を後にした。

 あんな小さな部屋に閉じこもっていても、気が滅入るだけだと思ったのだ。





 腹が減ったので適当なファミレスに入る。

 道行く人々が見渡せる窓際の席に座り、不愛想なアルバイトの店員に注文を告げる。

 注文の品を待つ間、総一郎は席からぼうっと窓の外を眺める。

 せわしなく道を行き来する、きっちりとスーツを着た社会人や、小さな子供を連れた若い母親の姿。

 お冷を一口含むと、口の中がヒリヒリと痛むことに気が付いた。

 どうやら、昨晩酷く口内を切ってしまったようだ。舌を動かして傷を確認すると血の味が口内に広がる。

「お待たせいたしました」

 やる気のない店員が、いかにもマニュアル通りといった風にハンバーグのセットを持ってきた。

 総一郎が軽く会釈をするが、店員は総一郎の顔を見もしない。

「ごゆっくりどうぞ」

 心無い言葉を聞きながら、総一郎は安いペラペラなナイフとフォークを手に取り、ハンバーグを切り分けて口に運んだ。

 口内の血の味と、ハンバーグの安い肉と濃いソースの味。

 ゆっくりと味わって飲み込む。

 あぁ、それは紛れもなく勝利の味だった。





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