第10話

 自分のかばん越しに触れていた。前橋まえばし教授が声も立てずに、微笑む。「陳腐な物言いですが」と前置きした上で続ける。

菅沼すがぬまくんは、恋をしたんですね」

「恋?」

 言われてみれば、確かにそうとも言える。しかし、相手は、もう死んでしまっているのだ。死人に恋心を抱くなんて、やはり、一般からは逸脱してしまっている。

 違う。そうではなくて、自分で自分を「おかしい」と感じること自体がもうすでに異常なのだ。

「恋は、特に人の生き死にが加わってしまえば、さらに、人ひとりの人生を狂わせるには十分なものとなり得る」

 何だって、この人は、こうも僕のことを的確に言い当ててしまうのか。物を言う死人だなんて、もはや、死人ですらないではないか。嫌だ。離れたい。逃げ出したい。

「前橋教授は、僕の想い人が誰だか知っているのでしょう?」

 顎に手を遣り、前橋教授はわざとらしく唸って見せる。俄かに、僕の手元を指す。

「菅沼くんがいつも大事そうにもちあるいてあるものがありますよね。それと何か関係あるのではないでしょうか」

 この大学ノートは、あの人の人生そのものだ。

「これは、僕への手紙です。あて名は書いてないけれど、あの人は、ずっと助けを求めていました。自分の苦しみや哀しみを誰も解ってくれないってさんざん嘆いています。でも、僕は、僕だけには理解できます。生きているか死んでいるかだなんてどうでもいい。彼女だけは、どうしても救いたい」

 これが、世間で言う恋なのか。はたまた、愛なのか。熱いものが込み上げてくる。

 一方で、急に前橋教授の目が暗くなる。

「菅沼くん。それは、ただの自己満足ですよ」

 皿の乗ったテーブルを叩く。食器が恐れ戦く。

「何故ですか。あなただって、僕と似たような恋をしたのでしょう?」

 前橋教授が僕から視線を外し、深く溜息を吐く。

「菅沼くんは、どこか危なっかしいところがあるから、あなたの先生として目をかけていただけです。僕のことは、関係ないでしょう」

 いつもは穏やかな語り口の前橋教授だが、このときばかりは苛立ちが感じられた。

 人の生き死に。きっと、亡くなってしまった友人らの中に、前橋教授の恋人も居るのだ。

「自殺、したんですね」

 本当に意識せずに、呟いていた。

「わざわざ医学部に再入学したのも、理由があるんでしょう?」

 目を見開き、ひきつるようにして僕は歯を見せる。前橋教授の顔色がおもしろいように変化する。赤、白、蒼。

「あなたのせいで、恋人が亡くなってしまったのでしょう?」

 それが精一杯といった感じで、前橋教授がまばたきする。

「解りますよ。前橋教授は、未だにその人のことが忘れられない。そりゃ、そうですよ。自分のせいで、恋人に死なれたんですからね。それなら、前橋教授と僕の恋愛に大した違いはないと思うのです。もう、僕らの愛する人はこの世にはいないのだから」

 再び、食器が震える。

「一緒にしないで下さい。僕は確かに、愛する人と同じ時間を過ごしました。結局、菅沼くんが亡くなった人ばかりを気にかけて、『ああ、可哀想だ』と思うことは絶対的に優位な立場から傍観しているだけだ。死んでしまったから、何も解決できないでいるのを、おもしろがっている。それに、そのノート。勝手に持ってきてしまったんですよね? どうやら、プライベートなことが書いてあるようですが、あなたのやっていることは人として間違っています。どうしたら、ご遺体を解剖しただけの人間が、そんなに大切なものを持ち出せるというのですか。菅沼くんは、その人の家族でも、友人でも、ましてや恋人でもない。赤の他人なんですよ」

 他人。僕は、やはり、先輩にとって、ただの背景でしかないのか。

 気付かれないように、どうにか唾を呑み込む。

「どうして、知り合いでなければ、死者を救うことができないとおっしゃるのですか」

 納得できない。歯を噛み締める。

「だから、そういうところが思い上がっていると言っているのです。菅沼くんが、たったひとりで亡くなっていった女子大学生に共感をして、恋心を抱くのに馬鹿げているとまではさすがに言いませんよ。それは、感情ですからね。そして、ご遺体の恋人きどりになった菅沼くんは何をしますか?」

 前橋教授が顎で僕を指す。大学ノートに指先で触れる。

「どうしたら、救えていたか。それを考えます」

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