第8話
桜の花びらが舞っている。
ここは、どこだ。夜に溶け込むような漆黒のワンピースを着た人が居る。スカートに空気を含ませたながら、その人は振り返る。肌の白さが際立つ。
手を伸ばし、僕は「先輩」と声をかけようとする。
暗闇の中でも、先輩が欄干のようなものを握るのが解る。続いて、顔のあたりに光を感じる。あれは、眼鏡のレンズではない、確かに涙の粒だった。
先輩は、死してなお、僕に助けを求めている。
*
ふと思いつき、携帯の電源を入れる。
「わ、こんなに時間が経っていたのか」
「盆地の朝は、冷えるな」
電車の中でもずっと謝罪の言葉を考えていたが、四十分かかっても最適な言葉はみつけられなかった。
「城先輩は」
「君におにぎりを作って、さっさと家に帰ったよ」
言いながら、前橋教授はおにぎりを握っている。何だ、この状況は。
「
椅子をひき、ここに座れと目で促される。電気ケトルで沸かしたお湯で、インスタントの味噌汁を作り、お茶をいれてくれる。
「前橋教授は、僕を解剖したいのではなかったんですか」
「院生にもなって冗談も解らないのですか」前橋教授が顔をしかめる。「おにぎりふたつ以上食べないうちは帰しませんから」手を洗う水音が研究室に響く。
おにぎりにかぶりつく。そう言えば、手作りのおにぎりを食べたのはいつ以来だろう。まだ温かみが残っている。ふやけた海苔に、塩の味が切ない。そうだ、自分にはもはやおにぎりを握ってくれる母親はいない。父ががんで亡くなって、数年後には母も事故で亡くなったのだった。
「誰も、誰もいない。父さんも、母さんももう死んだ」
前橋教授が席に着き、いつものように顔の前で手を組む。
「寂しい?」突き放すように言う。
「そんな訳ない。子供の頃はともかく、大きくなったらあいつらは子供である僕を無視するようになって」
「本当に? 無視を始めたのは、君のご両親だったのかい? 菅沼くんがご両親を顧みなくなったから、ではないのですか?」
顔中の筋肉をゆがめ、前橋教授に顔を向ける。
「僕は、病気だったのに、大人になるまで気づかなかった。もっと早くにそう解ってさえいれば、もっと楽に生きられたのに。病気になればいいとか、大怪我をして健康を害せばいいだなんて思うまで苦しまなくてよかったのに」
前橋教授が目を細める。
「菅沼くんがそういう状況で育ってきたのな確かに不幸です。法医学教室では皆が菅沼くんの病を理解しているから、配慮もできて随分楽でしょう。でもね、こうは考えなかったのですか?」
前橋教授が表情を緩める。
「ご両親も菅沼くんと同じ病気だったとは」
「そんなこと」歯を食いしばる。「そうだとして、僕にはどうしようもない。健常者だと思って生きてきた人にあなたは病気だと宣告しろと言うのですか。そんなの酷です」
僕は首を振る。腕で、食器を押しやり、机に顔を突っ伏す。
「菅沼くんは、優しい」
後から後から涙が溢れ出てくる。嗚咽が止まらない。机に怒りをぶつける。
「悔しいですよね。自分の力ではどうしようもないことは。僕だってそうです」
ひどい顔をして僕は前橋教授を見上げる。
「もしかして、前に聞いた…」
手を解いた前橋教授が優しく微笑む。
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