犬神様と名前
「コロ、コロや」
名を呼ぶ声がした。
懐かしさを感じて、孤狼は目を開ける。
真っ白い空間に、孤狼は浮かんでいた。
「儂はコロではない、孤狼じゃ」
孤狼は煩わしそうに尻尾を振る。
忌々しくも、懐かしい呼び名だった。
自分のことをコロと愛玩動物のように呼ぶ人物はそれほど多くない。
愉快そうにその名を呼ぶ人物には覚えがあった。
「今も昔も、私にとってあなたは小さなコロちゃんで変わりはないもの」
白く、巨大な狐が孤狼を見下ろしている。
随分懐かしい顔だ。
「ふん、狐神か。最近姿を見とらんかったが、どこへ行っておった?」
自分と同じく神の位をもつ狐、狐神の美琴が後光を背に孤狼の前に佇んでいた。
神として孤狼の先輩にあたるこの狐には、昔よく世話になった。
ただ、孤狼の記憶ではここ100年ほどその姿を見ておらず、気まぐれな彼女のことだからどこか旅にでも行っているのだろうと思っていたのだが……
「いなくなったのはコロちゃんの方じゃない。ここ最近音沙汰がなくてみんな心配していたわよ」
「うぅむ……」
確かに、孤狼はここ何十年(何百年かも)の間ずっと寝ていた。
神仲間にとっては行方不明となっていたのは、孤狼の方だろう。
まさかのんきに寝ていた、などという恥ずかしい事実を告げるわけにもいかず、孤狼は唸った。
「あなたと鹿神が姿を消して、世界は何だか変なことになってしまったし……」
「うん、鹿神?あやつも消えたのか」
もう一つの懐かしい存在に、孤狼は目を瞬かせる。
鹿神は犬神である彼女の古い友人の一人だった。
「そうよ、あなたなら彼のことを知っているかと思ったのだけれど……」
「知らんのー」
孤狼が首を傾げると、美琴は肩を落とした。
狐神としては共に姿を消した二人のうち一人を見つけたのだから、鹿神の行方も分かるかと思っていたようだ。
だが孤狼は寝ていただけなので、勿論旧友の所在など知る由もなかった。
そんなことより孤狼はどうして人間が街から消えたのかを知りたかった。
「なぁ、美琴……」
だから、孤狼は美琴に尋ねようとした、人間のこと、廃墟となった街のことを。
だが、その疑問は突然鳴り出した電子音に遮られた。
甲高いその音は孤狼の耳を刺激した。
「あら、鳴っているわよコロ」
美琴が指摘する。
鳴っていると言われても孤狼にはなんの覚えもない。
孤狼はただ煩くて、犬耳をぺたんと伏せるしかなかった。
しかしその音はどんどん大きくなっている。
「もう朝みたいね、それじゃあまた今度」
美琴が手を振っているのが見える。
その視界が、グニャリと歪んだ。
……………………………
…………………
……
「んあ〜〜」
孤狼は煩わしい電子音に寝返りを打った。
伸ばされた腕が音源を探してバダバタと床を叩く。
『おはようございますコロウ様!ただいま午前10時です。Moは起床を提案します』
煩わしい電子音は空中に浮いた緑に光る球体から発せられていた。
それは孤狼の周りを飛び回るとその顔を照らしてくる。
孤狼はそれを煩わしそうに追い払う。
昨日侵入した一軒家、そのベットで気持ちよく寝ていたのに、全く不快な目覚めだった。
せっかく夢で旧友が呼びかけてくれたというのに。
こいつのせいで現実に戻されてしまった。
はてさて、あれは友人からの交信だったのか、それともただの夢か……
「うるさいの、なんなんじゃお主」
『Moです!』
「それはもう聞いたわ」
孤狼は眠気を振り払うように頭を振る。
彼女にとって昨日出会ったこの球体は訳のわからぬ物体だった。
人間のように話をする球体など孤狼は知らない。
「面妖な奴め」
物の怪か、他の神の使いだろうと彼女は当たりをつけていた。
孤狼はMoを無視をして階段を降りる。
Moは駆動音を発しながら孤狼についてきた。
男の死体と木があったリビングのドアを開け、侵入する。
その部屋のタンスや冷蔵庫は開け放たれており、そこに入っていた中身が床に散乱していた。
まるで物取りが入ったような惨状だが、その犯人は孤狼である。
彼女の昨日の晩飯はここから調達されたのだ。
孤狼は床に落ちている缶詰を拾うとソファーにどっかりと腰を下ろした。
対面に横たわる男の死体と目があったが、気にはしない。
昨日はその異様さから恐怖を覚えたが、所詮死体だ、動きはしないのだから怖くはない。
宝剣を引き抜くと缶詰に突き立て中身をこじ開ける。
そうして昨晩と同じような朝食を彼女はもそもそと食べるのだった。
「あやつは誰じゃ、お主の持ち主じゃろう?」
孤狼は胡乱な目を死体に向ける。
この死体のアタッシュケースからこのMoという球体は転がり出てきた。
つまりはこの珍妙な球体の持ち主は目の前の死体だったということだ。
いったいどんな輩ならばこんなものを所持しているというのか。
『第三者への個人情報の開示は許可されていません』
「はぁ、なんて?」
『嫌です。ということです』
生意気なやつじゃのう。
孤狼は缶詰の内容物を舐めながら鼻を鳴らす。
目の前に横たわるのは人のいない街で見つけた初めての人間だ。
死んでいるとはいえ何とか現状のヒントを得たい。
「何で死んどるのに腐っておらん。あの樹木のせいかの?」
『腐敗が進んでいないのは種子に感染しているからです、とMoは回答します』
「種子?なんじゃそれ」
『この付近一帯は種子型感染体による汚染区域です。Moは区域外への避難を推奨します』
Moの言葉と共に、孤狼の鼻先に地図が照射される。
それは孤狼の知っているものよりも詳細で、緻密な地図だった。
その地図によるとこの街一帯は真っ赤に染まっている、その赤の地点が汚染区域とやらなのだろう。
「ずいぶん汚染されておるのー」
その赤い地点はこの街だけではなく多くの地域に遍在していた。
孤狼が今見える範囲は全て真っ赤だ。
『通信が安定せず、Moはアップデート出来ていません。現在の汚染区域はこれより拡大していると予想されます』
なんと、今はこれより広がっているらしい。
汚染や感染という言葉を聞くに、どうやらこの街では疫病が流行しているらしい。
孤狼も疫病は知っている。
遠い昔に疫病が流行ったときに神として人間を助けに出向いたこともあった。
うーむ、では汚染が広がっていない地域を目指そうか。
当初は山を越えようと思っていたが、この地図では山向こうも真っ赤だ。
山から離れ、海を目指した方が人を見つけられそうだ。
そして人のいるところ=甘味のあるところなのだ、孤狼はそれを知っている。
缶詰の残りの汁まできれいに舐めとると、缶を放り投げる。
「では出発するかのぅ」
伸びをして立ち上がる孤狼、Moは彼女に小判鮫のように付き従った。
Moにとっては孤狼は唯一のサポート対象だった。
その機械には人間と神様を見分ける能力はないのだから。
……………………………
…………………
……
「〜♪〜〜♪〜」
調子ハズレの鼻歌と下駄の音が人のいない街に響く。
孤狼があの一軒家を出発してから、もう三日経っていた。
その間、孤狼はずっと歩き通しだった。
といっても、孤狼は少しも疲れていない、神を人間の尺度で計ってはいけないのだ。
孤狼にとっては、ただ3回暗くなって3回明るくなっただけだった。
最初はしつこく休眠を奨めていたMoはもう諦めたのか、孤狼をそういう人間だと学習したのか、今は静かだ。
ここまで来る途中、孤狼はいくつかの人間を見た。
そのどれもが木に貫かれ、物言わぬ死体となっていた。
孤狼は少し立ち止まり、手を合わせてからまた歩き続ける。
そうやって歩き続けてきたことで、景色はその色を変えたのだった。
「海じゃ〜」
孤狼の記憶と変わることのない海が、眼前に広がっていた。
海に面した港町、かつて海の幸を食べにきたことのある土地だった。
「ほれ、地図を出せ丸いの」
『叩かないでください』
孤狼がぺしぺしと叩くとMoは地図を空中に照射する。
私の地図に記された港町には赤色がなかった。
つまりここは汚染されていないのだ。
甘味があるに違いない。
孤狼は意気揚々と港町へと足を踏み入れた。
静かだった。
今まで歩いてきた街同様。
港は静まり返っていた。
船は錆びつき、半分水没しながら海を漂っている。
海鳥たちが、空を悠々と滑空していた。
港の食堂の窓は割れ、今まで見てきた廃墟同様に中は荒らされ切っていた。
「お、おかしいのう…………」
孤狼の想像ではここには昔のように人がいて、優しく笑いかけてくれていたのに。
ここにあるのは木々のざわめきと海鳥の鳴き声だけだった。
そこに人の営みはない。
『ここももう汚染されたのかもしれません。Moはここに人間はいないと判断します』
「うるさい、人間はきっといるのじゃ」
孤狼はまるで子供のように頬を膨らませた。
孤狼はここにくればまた人間に会えると信じて歩いてきた。
甘味と睡眠の甘美な誘惑を振り切り、日夜歩き続けてきたのだ。
そんな彼女がすぐに諦め切れるはずがない。
孤狼は鼻息荒く港の探索を開始した。
民家、宿舎、倉庫、店舗、ありとあらゆる建造物を覗き込み、人間を探す。
しかしそこにあったのは、骸ばかり。
しかもそのいくつかは例の木に貫かれた死体であり、この港町まで汚染が広がっていることを証明していた。
動くのは野生動物たちだけ、主人を失った猫たちが港をのんびりと歩いている。
それでも孤狼は諦めなかった。
港町を駆けずり回り、時には海に顔を突っ込んで人影を探した。
海には綺麗な魚たちが泳いでいるだけだった。
そうして空が赤く染まる頃、孤狼はようやく足を止めた。
うなだれたまま、埠頭の係留杭に腰をかける。
彼女が探すものなど、どこにもなかった。
「儂はひとりぼっちか……」
その言葉も、虚しく響くだけだった。
それもすぐに波の音にかき消された。
『泣いているのですか?』
Moが寄り添うように孤狼のそばを飛んだ。
「泣いてなどいないわ、見れば分かるじゃろ」
『泣いているんですね』
生意気なやつじゃのう。
孤狼は膝を抱えて突っ伏した。
あの日、戦争をし続ける人間に見切りをつけて長い眠りについた。
孤狼は人と共にあった神だというのに。
もう少し、辛抱していればよかったのかもしれない。
人は孤狼を置いて行ってしまった。
失意のうちに、孤狼は目を瞑った。
……………………………
…………………
……
かつて、村を襲った化け犬がいた。
化け犬は黒い怨念を放ち、村人たちをその毒牙にかけようと襲い掛かった。
その圧倒的な力の前に、村人たちは食い殺されるしかなかった。
だが、幸運なことにその村には旅の修験者が訪れていた。
修験者はその法力でもって牙を防ぎ、村人を守る為化け犬の前に立ち塞がった。
「化け犬よ、なぜそうも荒ぶるのか」
「人間はキライだ!」
獣は吠え修験者に噛みつこうと迫ったが、見えぬ力に押し返されるばかりだった。
だがそれでも獣は諦めず牙を突き立てる。
そこからは尽きぬ怨念が感じ取れた。
「父も母も人間に狩られた、お前も私を狩るのだろう!」
「否、儂は殺生はせぬ」
化け犬は男を殺そうとするがその牙は届かず、修験者に化け犬を傷つける意思はなかった。
千日手だ。
息を切らしながら二人は睨み合った。
「その怨念は、家族を奪われた恨みか?ならば儂が罪人を暴きその罪を償わせよう、どうか怒りを沈めてはくれぬか」
「罪人など知らぬ!」
化け犬の怒号が大気を震わす。
その獣の目には涙が浮かんでいた。
「私は恨みなど抱いていない。父も……母も……私を置いて逝ってしまった。そのことが…………ただ悲しい」
黒く澱んだ空気が化け犬から吹き出す。
それを見て、修験者は錫杖を下ろした。
瘴気に包まれたその体躯は短く、よく見ればそれは仔犬だった。
「そうか……お前は、寂しかったんだな」
男はゆっくりと化け犬に近づく。
そうして伸ばされた手を化け犬は拒まなかった。
修験者の手が、哀れな子犬を撫でる。
「ならば儂がお前のそばにいよう、寂しくないように」
そうして、化け犬は家族を得た。
修験者は化け犬が怨霊とならぬよう社を建て、村人と共にそれを祀った。
人間と犬は約束を交わした。
犬は人を守り、人は犬をひとりにしないと。
後に御神体となる宝剣も、名前もその時与えられた。
「孤狼?」
「そうだ、孤独な狼と書いて孤狼だ」
「私は狼ではないぞ」
「ふふ、仔犬と名付けるわけにはいかんだろう」
「ああ゛?」
牙を剥く孤狼に修験者は笑った。
化け犬はいまだに人間を嫌ったが、男には心を許していた。
「お前は寂しがりやだから、儂は心配だよ」
「何が?」
「私が逝った後、お前がひとり寂しくないかと……」
その言葉に、孤狼は顔を伏せる。
化け犬のような超常の存在と人間は同じ時を生きてはいない。
修験者の寿命など孤狼にとってはあっという間に潰えるだろう。
「だからこその名前だ。きっとお前の孤独を哀れんで寄り添ってくれる者が現れるだろう」
それに約束もあるしな、そう言って男はその仔犬を撫でた。
犬と人の約束、それは長い間守られた。
孤狼は人に囲まれ、孤独を忘れたのだった。
……………………………
…………………
……
孤狼が目を開けると、あたりはもう真っ暗になっていた。
Moの発する淡い光だけが彼女を照らしている。
「約束は、守られなかった……」
誰にも聞こえないほどの小さな嘆きが、吐息と共に漏れる。
約束は永遠じゃない。
そんなことは孤狼も分かっていた。
あの修験者もそばにいてくれたのは命ある限りの話だったのだから。
人間が滅びたのなら約束など関係ない。
だが、それは受け入れがたい話だった。
人間がもういないなどと…………
『コロウ様……』
「何じゃ、少し一人にしてくれ」
『灯りが見えます』
「……………………え」
顔を上げると、一筋の光が海上を横断しているのが見えた。
灯り、人の文明の証がそこにはあった。
「灯台が……灯っておる」
海岸にそびえ立つ灯台が煌々と光っていた。
目を覚ましてから、一度も目にすることのできなかった光だった。
孤狼は立ち上がる。
その尻尾は期待に揺れていた。
足が勝手に走り出す。
人がいる、きっといる。
Moが追いつけないほどのスピードで、地を蹴り加速する。
景色が風のように通り過ぎ、光源が目の前へと迫っていく。
一直線に光を目指す。
一筋の白い獣となった孤狼は灯台にたどり着くと、我慢できぬとばかりに飛び上がった。
備え付けられた内部の階段など使うことなく、外壁を蹴って灯台を登る。
人間の姿になっていることなど忘れ、四つ足で灯台を駆け上がる。
「人間!そこにおったか!!」
そうして最上階まで上り切った孤狼は灯ろうを覗き込んだ。
懐かしい面影を探して。
「……………………」
そこにあったのは目を焼かんばかりに眩しく光るレンズだけだった。
それが人の手を借りず、回っているだけ。
その灯台の電気は生きていた。
でも中には人の姿はなかった。
ただ無人の灯台が勝手に海を照らしているだけだった。
そのことに気がつくと、孤狼は大きなため息を吐く。
結局、この港に人などいないのだ。
灯台が海と陸地を照らし出す。
そこに人はいない。
「……寂しいのぉ……」
そう呟いた孤狼にいつもの明るさはなかった。
その姿は、いつもより小さく見える。
『コロウ様』
地上まで降りると、いつの間に追いついたのかMoが孤狼を待っていた。
だが、孤狼はMoを無視して足を進める。
人間はやっぱり死に絶えたのかもしれない。
見つからないものを探すのは、疲れた。
もう、家に帰ろう。
そうしてまた寝てしまおう、誰かが起こしてくれるその日まで。
そうすれば、寂しくはないだろうから。
『コロウ様!』
Moに再度呼び止められ、孤狼は歩みを止める。
振り返ると、Moは灯台の壁を照らしていた。
『これを見てください』
Moに照らし出されたその壁には文字が彫ってあった。
『私たちは生きています』
そこには大きな文字でそう書かれていた。
それはメッセージだった。
この灯台の光を見て、この地を訪れた人間のために残されたメッセージ。
『汚染が広がり、もうすぐ側まで迫っています。私たちはこの港を放棄することにしました。家族を探してこの地へ戻った人のために私たちはここにメッセージを残すことにしました。私たちは生きています。ここから北の隔離地域を目指します。また、あなたたちとそこで再会できる日を夢見て』
そのメッセージの下にはたくさんの名前が彫られていた。
このメッセージを残した人たち。
彼らを探しにきた人々への生きた証。
生きている。
その言葉が強く孤狼の胸を締め付けた。
ずっと聴きたかった言葉、見つけたかった存在証明。
『北を目指しましょう。道はMoがサポートします』
その言葉に孤狼は肯く。
彼女は腰の宝剣を抜き放った。
そうしてその壁へと自分の名も刻み込む。
『孤狼』
化け犬がもらった大切な宝物。
遥か昔に天寿を全うした家族からの贈り物。
その名が人のいない港で生を叫んだ、私は確かに生きていると。
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