クリスタルは弾かれた

高坂シド

第1話少年・少女の魂の叫び

「心が絶望したときはね、音が聴こえるんだ。こうクリスタルをキーンと弾いたような。それはとても良いものだ」

 静謐はその言葉で破られた。

 先生はベッドの上でシャツに袖を通しながら、趣深そうに視線を背後へとやった。

 そして横たわった私の頭をくしゃくしゃに撫でてくれた。


「絶望したとき?」


「心がもろい人の心はね、水晶のように簡単に壊れやすい。君のような年代の頃は特に、だ」


「ふうん」




 今日の午前、私は先生に好きだと言った。

 先生は


「私も好きだ」


 と言ってくれた。


 嬉しかった。

 これまで生きてきて、こんなに嬉しかったことは一度もない。

 自分を受け入れてくれた先生のためなら、死んだって良い。

 そう思うと、切なくて、哀しくて。涙がそれぞれ両眼から一筋ずつ零れた。




「こんな性癖だから、年相応の伴侶を貰えと言われても、田舎に帰る場所がない」


 そう呟く先生の、一人暮らしの部屋の茶色い本棚はきれいに作者ごと、巻数ごとに整理整頓されている。床にはチリ一つ落ちてないし、ホコリもどこにもかかっている様子もなかった。

 キッチンにも食後の洗い物が残っているような様子もなく、まるで神経質な自分の母のそれを私に思い浮かばせた。

 唯一の例外。さっきまで清潔であったシーツは乱れ、赤く染まり、それは私たちが教師と生徒の一線を越えたことを意味していた。


 私は子供から大人へとなった。

 蛹が孵化して蝶となったのだ。

 先生の性癖とやらはどうでも良い。

 むしろ、それで自分を受け入れてくれた。

 自分自身を見てくれることが、今現在の私にはどうしても必要だったのだ。


 先生の家に泊まりたかった。

 けれども「親を心配させてはいけないよ」と言われて渋々帰宅した。

 先生は途中まで送ってくれたけれども、正直帰りたくなかった。

 両親は両親ではなかった。

 正確にいうと、実の子供を愛してくれる仲睦まじい父と母ではなかった。

 子はかすがいというが、鎹にされたほうはたまったもんじゃない。

 世間体のための仮面夫婦を続けるために、理由付けとして自分が使われているのは辛い。

 それもあって、食卓に3人揃うことは滅多にない。

 あっても、食事のときは沈黙というのが暗黙の了解のようでもある。


 家に辿りつくと、電気は付いていなかった。

 年頃の子供を放置してでも、両親は互いの顔を見たくはないのだろう。

 ふたりが帰った形跡はなかった。

『あたためて、食べてください』という書置きした料理すらない。

 適当に冷蔵庫を漁って、簡単なものを作って食べる。

 自分がこの家を出るまで、あと何年かかるだろう。そんなことを考えた。

 作った料理を見て、先生と一緒なら何を食べてもおいしく感じるのだろう、と思った。

 眠りに就くまで、アドレナリンが落ち着くまで数時間がかかった。

 先生の胸に抱かれるのであれば、それはそれは安らかに、死んだように眠れるのだろう。


 自然として、私は先生の家に留まることが多くなった。




「君の綺麗な姿を撮っておきたいんだ」

 カメラを引き出しから取り出し、先生が言った。

 あまりにも不意だったので、最初は何を言われているのかわからなかった。


「永遠を撮りたいんだ。カメラの中に綺麗なままの君を、残しておきたいんだよ」

 どうやら、私の裸を写真に残したいということだった。

 抵抗はあった。

 だが、あの先生が言っているのだ。間違いはないのだろう。

 何度目かの先生との行為を終えると、私はカメラの前に裸体を晒した。

 先生は無言で、シャッターを数回押した。

 スマートフォンやデジタルカメラではない。昔ながらのフィルムに残るカメラだった。


 先生は、写真部の顧問だった。

『すべての事柄には必ず意味がある』と先生の美術の初授業で言われた私は、そのひとことになぜか惹かれ、写真部に入ることに決めた。

 両親に愛されていない自分にも生きていく意味があるのであろうか、と思ったからだろうか。

 それを、不思議に思っていた私は、先生そのものにも興味を持っていった。

 先生の写真のテーマは『死と絶望』であった。

 2年前の私は、すべての物事が生まれ、成長し、死んでいくそれに魅了された。

 美術、カメラ、写真を通じて、いつしか私は先生自体のことが好きになっていったのだ。




 先生との関係が続くと、どこからか話が漏れたのであろうか。

 私への他の生徒からのやっかみや嫉妬、悪戯が増えてきたように感じる。

 悪意を持って言うと、いじめと名の付くものであったかもしれない。

 私と先生の関係は二人しか知らない。

 漏れるとしたら先生からだ。

 だから、そんなことは有り得ないはずだった。

 先生は、この世で一番私を大事にしてくれている恩師だ。

 そんな人が、私を裏切るとは思えない。

 バレたら先生にとっても、リスクが高すぎるだろう。




 ある日、登校すると、上履きの背に画鋲が仕込まれていた。

 最近ではよくあることだ。いちいち気にしてられない。

 席を外すと、鞄が隠されている。

 これくらいもよくある。可愛いくらいの悪戯で思わず笑ってしまう。

 だって、私には先生がいるのだから。


「私はあの人の物なんだ」


 私には先生が必要で、先生には私が必要。歪で屈折した理想的な共依存。

 先生がいる限り、私はどんな辛いことにも耐えられる。

 たとえ、先生が今現在の私にしか興味がなくても、これから先ずっと生きて行ける。

 強く、強かに、それらを思い出にしながら。

 自然、先生の存在が、自分の中でとても大きなものになっていくのは、そう時間がかからなかった。


 すべてが輝いていた。

 先生の家から帰る真っ暗な夜の道も、太陽が何十個もあるくらい光り輝いていた。

 星々の灯りは私の心を照らし、薄暗い毎日がただただ楽しく、このまま死んでも後悔はないとさえ思っていた。

 心が水晶で出来ているのであれば、今の私の身体は光をすべて集めて吸収し、それを集中させて燃え上がる鋼で出来ているかのようだった。




 その日は熱っぽくてクラクラした。

 学校を休もうかと思ったけれども、息苦しい家にいるよりかは学校に行く方がましだった。

 先生の家でいつか少し飲んだお酒。

 そのときのように、酔っ払った千鳥足で学校へ向かった。

 

 校舎が近づくと、私は注目を浴びているのを感じた。

 昇降口に、人混みができていた。

 なんだろう、と思った。

 みんな自分を興味深く見やって来るし、私が通るとモーゼのように人混みの海は割れて行った。

 少し気になって、掲示板に辿りつくと、私の写真・・・・が何枚も何枚も貼られていた。悪質な悪戯の対象以外としては目立たなかった私の存在を、これでもかと主張するように。

 幼い淫靡な部分は隠されておらず、ニッコリと心から幸せそうに微笑むその表情のアンバランス。

 頭痛が酷くなり、激しい嘔吐感が込み上げてきた。

 口を抑えてトイレに駆け込むと、何も食べていないため、吐き出されたのは胃液だけだった。

 無限に出てくるかと思われたそれ。

 内臓がすべて飛び出されたのではないかと思った。


 フラフラになりながらトイレから出てくると、担任が校長室に来なさい、と腕を掴んだ。

 連れられてやってくると、ほぼすべての教師がそこには集まっていた。

 正義感から怒っている教師もいたが、下卑た笑みを伴ったそれも大勢いた。


「あれは、君で間違いないんだね?」

 頷くことしかできない。

 先生に眼をやると、興味深そうに私を観察しているかのようだった。


「誰に撮られたんだ」

 今度は無言で応じた。

 先生に視線をやることはもうできない。これ以上目線を送るとふたりの関係がバレてしまう。

 先生がまるで他人事のように傍観しているのは、その空気感でわかった。


 15分も沈黙していると、始業のチャイムが鳴った。

 ある者はこれから起きることを楽しみに思っているのもいたが、さすがに仕事が先だ。

 散会した校長室は、校長と教頭、そして担当する授業がない教師だけが残った。

 それからまた15分黙った。


 口を割らせることを、諦めたのだろう。

 校長が口を開いた。


「今日はもう帰りなさい」


 そう言われて家に帰ることになった。

 家は、こういうときでも安堵する場ではなかった。

 少なくとも、傷心のときに心が落ち着く場所ではない。

 だけれども、他に行くべき場所はなかった。

 トボトボと帰るうちに、頭痛はいつの間にか消えていた。

 口内はまだ胃酸に犯されていて、苦みが口の中と頭の中両方を襲っていた。




 帰宅し、鞄の中から鍵を取り出した。

 鍵穴にそれを入れ180度回すと、今度はチェーンロックがかかっていた。

 おかしい。誰も家にいないはずだ。

 ガチャガチャとドアを何度も開けようとする。

 インターホンを鳴らしても、だれも出てくる様子がない。

 しかし、人の気配を感じる。

 家にまだだれか残っているのかもしれない。携帯電話を取り出して、父に電話をかけた。

 だが、応じることはなかった。


 今度は母にかけようとすると、家の中からロックが解除され、見知らぬ女性が飛び出してきた。

 その女性の残り香には既視感があった。

 家の風呂場に常備してあるボディソープの匂い。

 だから、何が起こっているのかはだいたいわかってしまった。


「今日は早かったんだな」


 仕事に行っているはずの父が、玄関から出てきた。

 いつもは厳しさしか感じない、母に妥協することを覚えようともしないその目。

 思春期の子供と冷静に向き合い、語ることすらしようとしないその口。

 その瞳は泳いでいて、私のそれと合わせようとしない。


「おまえが黙ってさえいれば、家族ごっこは続く。どういう意味かわかるか?」


 目を合わさず、そう父が余計な一言を付け加えて言った。


――おまえさえいなければ……


 今度は、聴こえないように呟いたつもりなのだろう。

 だが、その言葉は正確に私の耳を捉えた。捉えてしまった。

 私は駆け出していた。

 どこへ行く当てもない。

 たったひとつだけあるはずだった。

 私自身の秘密基地。

 かつて処女性を失った場所。

 気が付くと、そこへ向かって走って行った。




 夜も10時を越えると先生は帰って来た。

 だが、何を話せばいいのだろう。

 先生は私を裏切ったのだ。

 けど、先生以外に頼れる人物はもう私にはいなかった。

 母は母で、もうとっくに父のことに気付いているはずだ。

 鎹の私がいなくなれば、ふたりはそれぞれ自由に暮らしていけるはずである。

 ふたりを雁字搦めにしている自分。

 そして、そのふたりに頼らなければ、まだ生きていけない自分の存在が恨めしかった。


「先生、なんであの写真をばらまいたんですか? 私、父が不倫していて、母もそれに気付いていて……頼れるのはもう先生しかいなくて……」


 何を言っているのか、自分でもわからなかった。

 嗚咽と共に涙が零れる。

 様々な感情が心の中を逡巡し、反芻し、駆け巡っていた。

 数か月前のそれとは違い、今度は悲しみの涙だった。


「私、これからどうしたらいいのか……」


 先生は私を「そうか」と言って抱きしめた。

 愛おしそうに、愛玩動物を撫でるように、壊れ物を扱うかのように。

 だけれども、次に先生が耳元で放った一言は、私を絶望の淵に引き落とした。




「朽ちながら、生きていけ……」




 頭の中でキーンと、心の中で何かが弾ける音がした。

 まるで水晶が弾ける音。

 とても綺麗で、儚い音が自分の中にもこんな風に訪れるんだ、と驚愕した。


 全てを失ったかのように茫然自失としていると、先生がまた、フィルムカメラを懐から取り出して私を一枚だけ映している。


 先生の写真のテーマは『死と絶望』

 今の私ほど、その後者の提議に沿ったモチーフはないであろう。

 だから、もうひとつのテーゼが現実の私に訪れようとしていても、もう不思議には思わなかった。




 街をふらついて一晩明かした。

 もうどうにでもなれという気持ちだった。

 補導されることはなかったし、どうやら親が捜索願を出している様子もない。

 大人であれば、こういうとき酒を飲めばいいのだろう。

 だが、子供はこういうときにどうすればいいのか。

 大人になったと思っていたけど、まだまだ子供だった。

 先生と一緒に酒を飲んだときのことを思い出した。

 気持ち悪い酩酊だった。

 しかし、多少の気持ち悪さでも、すべてを忘れて眠りたかった。

 それが、叶わないとなると、沈んでいた気持ちがさらに奥深く溺れて行く。

 都合よく、大人と子供を使い分けているような気もして、自責の念も襲ってきた。


 生きていくというのは、どうしてこんなに辛いことばかりなのだろう。

 さまざまなしがらみが、蜘蛛の巣のように心を捕らえる。

 これから先、進学や就職を繰り返して、それはまた多くなって増えていく。

 もともと望まれて生まれてきたわけでもない。

 可愛がられながら育ってきたわけでもない。

 そういうことが起こったら、心の底から悲しんでくれる親も友人もいない。

 一瞬だけれども、先生だけが自分を愛してくれた。居場所をくれた。確かにそれはあったのだ。

 生きていくということと、死ぬこと。

 前者の方が、今の私には異常に思えた。




 次の日、着替えもせず、学校に行った。

 突き刺すような視線が身にふりかかる。

 だが、これから起こることほど痛いことはもう二度とあるまい。

 1階につき14段ある階段は、屋上へとなると42段になる。

 私にはそれが13段しかないように思えた。

 そして流れる空気を感じながらも、フェンスを乗り越えた。

 それに気付いた教師たちが、慌てて駆け上がって来る。




 先生。先生のテーマは『死と絶望』でしたね。

 でもそれは『生と希望』をテーマにしているとも私は思います。

 だって、あのとき先生に撮ってもらった裸の私は、とても『生きる喜び』に満ち溢れていたじゃないですか。

 だから、この身体が肉片となったあとの私も、その目にすべてを焼き付けておいてほしい。

 先生に愛された私は、『生と死』『希望と絶望』、先生の望むものすべてが詰め込まれているのですから。




 体が空を切り裂く。


 そこに恐怖はない。


 ただ、ただ先生の心の内から、自分が消えることがあるのかもしれないと考えるのが、悔しくて寂しい。




 ずっと、ずっと。いつまでも、いつまでも。




 先生の記憶の中だけで良い。私はそこで永遠に生き続けたい。




 生まれ変わったとしても、また先生だけに愛されたい。




 そう思うのは、贅沢でしょうか。




 その答えを聴くことは、明日の私にはもう許されてないのでしょうけれども。






           ~了~

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