36.【パトリシア・キンドレッド】誤算?

 半日を費やしたダンジョン実習も終わりを迎え、全ての生徒が授業を終えて思い思いの時間を過ごす放課後のことだった。


「そろそろ時間ね?」


 王族、または地位の高い貴族のみ入寮することを許される特別寮のとある一室にて、赤い髪の青年【ジェラシス・グラン・イグナイト】が口から赤黒いものを吐き出していた。


「――うっ、ごぼっ」


 血なのか、それ以外の何かなのか。


 薄暗い室内において判別はつかないが、事前に用意されていた桶の中で激しく脈動するそれは何かの臓器にも見える。


「あーもぉ、いつ見ても汚いわねぇ」


「ごめん」


 口元を袖で拭うジェラシスにタオルを投げる。


「あんた、制服で拭くなって何度言えばわかるの? ちゃんとタオルで拭いなさい。買い直しになるんだから」


「ごめん」


 ジェラシスは受け取ったタオルで汚れた口元を拭った。


 赤黒く変色したタオルは、もうどれだけ洗っても白くはならないので燃やして処分するしかない。


「で、聖具は回収できた?」


 私が彼の部屋へとやって来た理由だ。


 ジェラシスは、私の問いかけに少しだけ間を置いて答える。


「……ごめん、できなかった」


「このグズ! もう最悪!」


 頭に血が上って、嘔吐のあとで辛そうに膝をつくジェラシスの顔面を思いっきり蹴り飛ばした。


 本当にグズ、本当にグズ。


 ジェラシスが無抵抗なのを良いことに、私は何度も何度も踏みつけた。


「ごめん、ごめん、ごめん」


「それしか言えないの? ほんっとにグズね、どうしようもないグズ」


 蹴り飽きたので、私は改めて椅子に座ると足を組んで尋ねる。


「で、何があったの?」


「邪魔された」


「誰に? どこで? どうやって? 私はそこまで聞いてるの」


 あの聖具の回収は今のシナリオを進める上で、私が舞台の主役で居続けるために必要不可欠な代物だった。


 だからわざわざジェラシスに取りに行かせたのに、失敗?


 悪魔憑きなのに、失敗?


 ありえなかった。


 この物語の開始以前から目をつけて、手塩にかけて育ててきた私の切り札にも近い存在なのにいったいどういうことなのかしら。


「教えなさい、邪魔したのは誰?」


「ラグナ・ヴェル・ブレイブ」


「チッ、あのモブ貴族」


 思わず舌打ちが出る。


 シナリオ通りにアリシアを婚約破棄に追いやって、念には念を入れてクソ虫野郎を使ってわかりやすい操り人形に仕立て上げるつもりだったのに、何故か失敗し別の男と一緒に学園に戻って来た。


 その相手がラグナ・ヴェル・ブレイブ。


 物語が進めば、アリシアと共に消滅する辺境出身のモブ貴族。


 私の記憶にあるアリシアは、復讐心に飲み込まれた悪女そのものだったのだが、いったいどんな手を使ったのか、彼と学園に戻って来た今のアリシアは、憑き物が落ちたように落ち着いている。


「エドワードルートはもう使えないわね」


 シナリオ通りに進める必要性はあまりないのだが、予測できない事態に陥るよりはずっとマシだった。


 それなのに、何なのかしらあの男。


 アリシアの元取り巻きである小物令嬢をイグナイト家の力を使って脅し悪役に仕立て上げはしたが、小物は所詮小物である。


「まあいい、聖具は一つだけじゃないし」


 今回の件は痛手だが、他にもプランはあった。


 クソみたいな運命を誤認させて、私はまだ、私はまだこの舞台の上で主人公であり続けなければいけない。


「そのためには、憂いを取り除かないとね?」


 ラグナ・ヴェル・ブレイブ。


 聖具を取りに来たということは、恐らくシナリオを知っている。


 私と同じように、元々存在しない運命にあったのだから。


「ほんと、クソよね、クソクソ。運命なんてクソくらえだわ」


「血が出てる、直さないと……?」


 椅子に座って爪を噛むと割れてしまっていた。


 気付かないほど、私は焦っている?


 いやそんなことはない。


 運命は、まともな振りをして順調に変わっている、狂っている。


「黙りなさいグズ。先にあんたよ。ほら、服を脱ぎなさい」


 私は立ち上がると、目の前で膝を立てて座るジェラシスの前へと近寄った。


 必死に我慢しているようだが、そろそろ彼は限界だった。


 汚れた服を全て脱がせて治療に当たる。


「どこをやられたかすぐに言いなさい。もう限界でしょ?」


「最初に首……うっ」


 言葉通り、まず彼の首筋にスパッと切れ込みが入った。


 痛みに歯をかみしめる青年の首に手を回し、すぐに回復魔術を施す。


「次は?」


「心臓と全身……かはっ」


 胸のあたりに穴が開き、血が噴き出た。


 それから全身に火傷のような焼け爛れた痕が広がって行く。


 その様子に嫌悪感を感じながらも私はジェラシスを抱きしめた。


「大丈夫よ、私が全部治してあげるから」


 血は温かい、それを知ったのはいくつの時だろうか。


 その時から変わらず、ずっと彼の血は温かいままだ。


 ドクンドクンと彼の鼓動が強く鳴り響いている。


 生きてるわね、ちゃんと。


「派手にやられたのね。よく頑張りました。えらいえらい」


「あ、ありがと……う……」


 悪魔の力を使った代償である跳ね返りの傷を全て治すと、ジェラシスはようやく落ち着きを取り戻した。


 ああ、ジェラシス。


 貴方は泣き虫でグズだけど、私の可愛い可愛い――弟。


 だから、まだ死なせるわけにはいかないの。


「パトリシア」


「今だけは姉さんでいいわよ」


「お姉ちゃん……あいつ、すごく強かった、怖かったよ」


 力強く抱きしめ返しながら、弟は言う。


「たぶん、勝てないよ僕」


「そんなに? 貴方はあれだけ努力してきたのに?」


「でも、だって、全部通用しなかったんだ……」


 でもでもだって、本当にこの子は泣き虫ね。


 昔から今まで、それは変わらない。


「ねえ、本気を出せばどうなるの? まだ本気を出したことなんて、一度もないでしょ?」


「わからない……わからないよ……」


 跳ね返りの傷から察するに、首を一発で撥ね飛ばされていた。


 千切れることなく、一発でスパッと。


 私と同じ存在で、よくもまあそんなグロいことができるわね?


 あ、でも同じ境遇でもあるのなら、それは仕方のないことなのかもしれないわね。


 首を斬られ、心臓をえぐられ、自爆まで使わせられた弟は、すっかり怯えて震えていた。


 抱きしめた体から恐怖が伝わってくる。


「ねえ、――ジェラシス?」


 私は弟の顔を掴んで目を合わせる。


 酷く歪んで朧げで、そんな綺麗な目を見ながら彼に問いかける。


「貴方が欲しい物はなぁに? お姉ちゃんに言ってみなさい?」


「……アリシア、が欲しい」


「じゃあ、せっかく私がお膳立てしてあげたのに、貴方と一緒にしてあげようとしたのに、全部台無しにしちゃったのはだぁれ?」


「……ラグナ・ヴェル・ブレイブ」


「じゃあ、殺さなきゃ奪えないわよ? 貴方の欲しいもの、今はそのラグナって人が持ってるもの」


「でも」


「私を信じなさい。貴方は特別なの」


 そう、特別だ。


 物語の中に登場するのに、私と同じくらい稀有で特別な存在だ。


 生まれた時から狂気を宿し、忌み嫌われてきた特別な弟。


「お姉ちゃん……」


 ジェラシスは目を瞑った。


「欲しがりね? ジェラシス、貴方がまだ頑張れるなら、お姉ちゃんがずっと傍にいて力を貸してあげる」


 そう言って、私はジェラシスにキスをした。


 舌を絡ませて、口越しに魔力を送り込む。


 そうして彼のボロボロになった中身を戻す。


 狂気の向こう側に行ってしまいそうになる彼の心を繋ぎとめる。


 まだこの子を、弟を折れさせるわけにはいかない。


 壊れさせるわけにはいかない。


「ありがとう、お姉ちゃん」


 うっとりと余韻に浸った表情でジェラシスは言う。


「僕、頑張るから」


「うん、頑張りなさい」


 ラグナ・ヴェル・ブレイブ。


 何が目的でこのシナリオに、舞台に上がってきたのかは知らないけれど、決して私は止まらない。


 止まれない。


 今後も私の道に立ちふさがるのならば、容赦はしない。


 このクソみたいな運命に、クソみたいな世界に崩壊を――。


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