シュレディンガーのおもちゃ箱
永庵呂季
【001】人工知能はかく語りき ~【chatGPT】を使う前に~
なんだか最近、特に「AI」について世間が騒いでいる気がします。
画像を生成するのも「AI」なら、文章を生成するのも「AI」。
猫も杓子も「AI」である。
なんなら恋人や結婚相手を探すアプリだって「AI」で動いているとか、いないとか。
AI――Artificial Intelligence.(アーティフィシャル・インテリジェンス)
今回は、この「AI」という胡乱な奴の正体について考えてみます。
●人工知能の定義とは?
人工知能という単語は知っている。
だが、その中身についてきちんと把握しているか? と言われれば、たしかにこれほどあやふやな言葉も珍しい。
誰もが知っているのに、それが何かと聞かれれば、よくわからない……というくらいに実態が掴めない。
それもそのはずで、実のところ、どれだけたくさんの天才科学者や技術者が研究に明け暮れているとしても、我々人類は未だにこの「AI」についての世界的コンセンサスを得られるほどの定義を確立してはいないのである。
「AI」とはなにか? 特徴して挙げられるポイントは幾つかある。だけど、それに外れていたり、それ以上の特徴を持っていたとしても「AI」と呼んで差し支えがないのである。
つまり、現状は「言ったもの勝ち」ということだ。
そう、どんなものであってもなんとなく「AI」っぽい挙動をするのであれば、それはもう「AI」と呼んでいいのである。
だからファミコンのドラクエ4でクリフトがデスピサロに向かって無謀なザラキを連発していたとしても、エニックスが「いいえ、これはAIです。仕様です」と言うのであれば、それはもう有無を言わせず「AI」なのである。
お掃除ロボットが、帰り道で混乱し、電源ドックに帰還する前に力尽きて止まってしまっていても「いいえ、これはAIです」と言われれば、そうなのである。
賢そうで、賢くない。それはそれで人間味に近い部分があっていいのかもしれないけれど、僕らが夢見ている「AI」とはなにかが違う気がする。
話が逸れましたね。どうもドラクエ4辺りで過去のトラウマが蘇って脱線してしまいました。
実のところ人工知能の研究というのは別に人間に近づくためのものではないのです。
どちらかと言えば人間の不完全な部分を補うことができる方向へと進化していく技術になっていくと予想されています。
人間の不完全な部分。
例えば完璧だと思っている自分の記憶にも、思い出補正や記憶違いの数値などが混在していることがあります。
確信をもっていたパスワードが間違っていたときの「ファ?」という気持ち……誰にでも一度や二度は心当たりがあるはずです。
同窓会で再会した女子と話が盛り上がり、ついつい「いや絶対、昔、お前は俺のことが好きだったって」と強気な確信のある思い出を語ってみるも、実はかなり嫌われていたりする。
「え? うそ? まじで?」
面と向かってキッパリ言われても、まだ信じられない。いったい過去の、どの段階で自分の記憶は『彼女が好意を持っていた』という記憶に改変されてしまったのだろうか? と首を捻る諸氏も少なからずいるはずである。
そういう人間のあやふやな部分に対して、きちんと証拠を提示して「ほら、この過去の動画を見てください、彼女はかなり嫌がってますよね。貴方が気づいていないだけですよね」と言ってのけるのが人工知能の期待されている本来の役割なのだ。
さすが人工知能。俺らにできないことを平然とやってのける。そこに痺れる、憧れるぅ!
という使い方が平和目的に適っているかどうかは別として、人間の持つ曖昧さを回避したい場合――例え話の冗談はさておき、主にビジネス面での不確かな記憶――などのバックアップとして、気の利いた「AI」が自己判断でスマホのレコーダーをオンにしておいてくれたりする。
そういう便利なツールとしての「AI」はもう間もなく社会に普及するのではないでしょうか。
現状の開発速度からして、そう遠くない未来には、もう少し便利な「AI」が僕らの生活をより豊かに――あるいは、余計なおせっかい的に――変革していくのかもしれません。
●人工知能の概念はいつから存在していたのか。
ギリシャの叙事詩「イーリアス」において、すでに人間の姿を模した人工生命体を生成する記述があります。
12世紀から19世紀にかけてヨーロッパ等で爆発的に広まったオートマタ、オートマトンと呼ばれる自動機械人形もまた、人工的な生命、あるいは意志ある機械への憧憬によって造られていきました。
デジタル的な人工知能、あるいは人工生命への取り組みは、じつはかなり昔から行われていて、最初の人工知能ブームは1950年代後半にまで遡ります。
今じゃ百均で手に入る電卓計算機。その機能ですら、デスクトップサイズのパソコン並の大きさじゃないと実現できなかった時代。
そんな時代から人間は人工知能という概念を提唱し――提唱自体はもっと古いけど――その夢を叶えるべく日夜研究していたのです。
なんともロマンチックな話ですよね。
電卓が50万円もした時代。しかも当時の50万円は、車が買える値段です。
現代だとハイスペックなゲーミングPCのすべてのパーツとアクセサリーをハイエンドクラスに換装するくらいの値段ですかね(推定300万円。新車の普通車くらい)。
それが今では下手すると保険加入のオマケで無料で貰えちゃったりするんですから、すごい時代になったものです。
というわけで、最初の話題に戻りますが「いったい何を持ってそのプログラム、あるいはマシンを人工知能と呼びうるのか?」
50年代から取り組んでいるこのテーマ。しかしまだ正解はありません。目下特徴として挙げられているのは以下のような項目です。
1.自己学習(Machine Learning)
:データからパターンや規則性を抽出し、自己学習によって性能を向上させる。
2.推論(Inference)
:学習済みのモデルを用いて、新たなデータに対して判断や予測を行う。
3.認知(Cognition)
:音声、画像、自然言語など、人間が行うような知覚・認知を行う。
4.自律性(Autonomy)
:外部からの制御なしに、自己の行動を決定し、実行することができる。
意外なことに、電卓レベルの計算機しかなかった時代であっても「2」の推論は実現できたそうです。
すごいですね。まだ記録媒体がパンチカードという紙媒体だった時代ですよ?
●そして現代。巷を騒がせている「AI」にはどんな特徴があるのか。
パンチカードの時代から、80年代、90年代の第二次人工知能ブームを経て(ドラクエ4はここ)、2023年。
いま周囲をザワつかせている人工知能の主な特徴は、前述した項目の「3」の認知精度が飛躍的に向上した、というのが主な要因となります。
画像、言語の認識を高めるべく開発された様々な学習モデル(深層学習やら畳み込みニューラルネットワークやら)のおかげで、実用化できる精度にまで「AI」が成長したから……と言い換えてもよいでしょう。
そう、この第三次AIブームは要するに「実用化」され、ユーザーの手元まで実感として提供されているということが話題になっているのである。
実験室からのレポートではなく、今まさに学習されつつある人工知能を実践的に触れる。
こんな楽しげなこと、放っておく手はないですよね。
高度化されたインターネットに接続されることで、ビッグデータと結合した「AI」が、いよいよ本格的なインフラとしての産声を上げた……そんな感じでしょうか。
それらを象徴的に示すのが画像生成AIである「stable diffusion」だったり、自然言語での自律的な応答が可能になった「chatGPT」ということになります。
画像生成AIが、その精度を増すほどに絵描きさん達から「仕事を奪われる」と危機感を持って反発されている向きもありますが、それでは「chatGPT」は、作家の仕事を奪う存在となるのでしょうか?
次回、「chatGPT」を実際に使用して出力した文章を元に、その可能性について書いてみたいと思います。
ちなみに僕の近況ノート
『KAC20237作品「星降る夜のクオリア」投稿しました。』
において、簡易的な「stable diffusion」で生成した画像が貼ってあります。興味のある方は覗いてみてください。
それではまた。
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