第一章⑧ 永遠の魔法
帰路の道中。
いつもの川の辺りまで戻ってくると、魔女様はたたたっと駆け足で走って行き、その赤黒く染まったワンピースを着たまま、川へ飛び込んでしまった。
全身を血で赤黒く汚してしまった魔女様は、身体を洗いたかったらしい。
そのまま、その穏やかに流れる川の水を掬って、顔を洗ったり髪を梳かしたりしていた。
飛び込んだと言っても、浅い川だ。
一番深い所で入っても腰の下くらいまでしか浸からないので、ばしゃりというちょっと締まりのない音が一緒に聞こえてきた。
「一緒にどうですか?」
「……いや、俺は止めておくよ」
「そうですか? 冷たくて気持ちいいですよ?」
なんて誘われはしたが、まだ先程の余韻が残り、気持ちの整理が付けられていない俺は、川遊びをする気になれなかった。
不老不死の呪い――魔女様が二〇〇年もの長い時を生きて来た理由が、それなのだろう。
魔女様は老いる事は無い。魔女様は死ぬ事は無い。
そして、おそらく、魔女様は痛みを感じない。
命を、それも二度も助けてもらった。
それなのに、こういうのは良くないというのは分かっている。
しかし、頭では分かっていても心がまだそれに付いて来なかった。
魔女様のあの姿。
あれだけの血を流しても、目を背けたくなる様な怪我をしても、痛みを感じず、ただ穏やかに魔獣を殺す。
その姿に対して、俺は魔女様は普通の人間ではないのだと再認識させられてしまった。
魔女様に対して、“理解できないモノに対しての根源的な恐怖”を感じてしまった。
ただ、だからと言ってどうするという事は無い。
大多数の人間は自分が潔癖で在る為に、自分が理解できないモノをすぐに汚い側に分類し避けてしまうだろう。
しかし、俺はそれほど愚かでは無い。
この件に関しても、ただ自分の中で咀嚼出来るまでに時間がかかるというだけに過ぎない。
彼女は俺の大好きな魔女様だ、その事に変わりはない。
そう、自分に言い聞かせるようにして、大きく深呼吸をする。
そして、少し落ち着いて来た後、俺は家へと戻った。
外の空気を吸い、落ち着いた俺が家へ戻ると、魔女様は先に帰って来ていた。
先に戻っていた魔女様は着替えを済ませ、いつものロッキングチェアに腰をかけている。
魔女様は着替えてもいつもの白いワンピース姿だ。
よく見ると細部の装飾が若干違う気がしなくもないが、気のせいかもしれない。
他のタイプの服は持っていないのだろうか。
確かに森の神秘的な雰囲気と相まって、彼女の魅力を引き出す装いだ。
しかし、美人の彼女は何を着ても似合うだろうし、偶には他の服を着ているところも見てみたいところだ。
髪も折角長く綺麗な黒髪だ、髪型も色々とアレンジが利きそうだ。
なんて、綺麗に血を洗い流した魔女様のいつもの姿を見ていると、先程の光景なんて遥か昔の過去の事だったんじゃないかと忘れさせてくれる様な気がした。
「おかえりなさい」
俺の帰宅に気が付くと、魔女様はロッキングチェアに座ったままその澄んだ優しい声で優しく迎え入れてくれた。
その温かさだけで、さっきの狂気的な光景の記憶を上書きする様に。
「ああ、ただいま。助けてくれてありがとう」
「もう。あんな遠くまで行っちゃいけませんよ?」
「ごめん。気を付けるよ」
「怪我とか、無いですか?」
「俺は大丈夫。ちょっと擦りむいたくらいだよ。魔女様こそ、身体は何ともない?」
「はい、この通りです。ぴんぴんしてますよ」
そう言って、可愛らしく小さくガッツポーズをした。
何度か同じ様なシチュエーションに覚えがある。
彼女はこのジェスチャーが気に入っているのかもしれない。
頭の上からつま先まで、魔女様の身体を舐めます様に見回す。
しかし、やはり傷一つ無い。
これが不老不死、という事なのだろう。
「あの、あんまり見られると恥ずかしいですよ?」
「ああ、ごめんごめん」
「ふふっ。あなたも、今日はお疲れでしょう? 夕食にしましょうか」
そんな本当の夫婦の様な帰宅のやり取りをしつつ、俺はもう自分の定位置になった食卓の椅子に腰を掛けた。
今日はいつものパンとポトフの二品だ。
と言うのも、俺が摘んでいた謎草は魔女様と魔獣の血で全部真っ赤に染まってしまい、駄目になってしまったのでサラダは欠品だ。
しかし、一般的な感性を持った普通の人間なら、あんな血生臭い一件の後で旺盛な食欲が有るはずもない。
俺もその例に漏れず、普通の人間だった。
だから、一品欠けたとて何ら問題は無かった。
「あの、さっきは驚かせちゃって、すみません……」
夕食の最中、魔女様の口からおずおずと謝罪の言葉が飛び出してきた。
さっきというのはまあ、あの森での血生臭い一件の事だろう。
正直なところ、なるべく食事中にあの血生臭い光景を思い出したくはない。
しかし、あの様子だときっと魔女様はそんな俺の様な普通の人間と同じ感性を持ち合わせてはいないだろう。
それでも、魔女様は自分と俺との感性が違っているという事を理解しているのだ。
だからこそ出てきた謝罪の言葉だろう。
しかし、命の恩人に謝られてしまってはばつが悪い。魔女様が謝る事は何も無い。、
「いやいや、助けてくれありがとう」
その後、しばしの沈黙。
食器が当たるかたかたという小さい音だけが食卓に響く。
沈黙を気まずく感じた俺は、そのまま適当な話題を振っていつもの空気に戻そうとした。
「そういえば、さっき使ってた魔法は?」
結局、出て来たのは魔法の話。
自分が今勉強している最中なのも有るし、詳しい魔女様はいつも教えてくれる時の様に生き生きと話してくれるはずだ。
「ああ、それは脚にかけた『身体強化』と、あと魔獣を殺したのは、あなたもこの前覚えた『温度変化』ですよ。ああやって一気に温度を上げれば、触れるだけで簡単に殺せます」
なんて宙に視線を送り、指を折り数えながら答えてくれた。
さらっと殺すと言ってしまえる辺り、やはり恐ろしい魔女様だと思わされる。
しかし、なるほど。
そういう魔法の使い方も有るのか。
イメージとしては、生きたまま電子レンジにぶち込まれる、みたいな感じだろうか。
生き物に魔法を行使した結果、実際に起こる光景は先程見た通りだ。
あの赤黒い記憶がフラッシュバックし、あまりにもぞっとしない。
しかし、『温度変化』という完全に湯沸かし器くらいにしか思っていなかった魔法に、まさかそんな使い方が有ったのは驚きだ。
一応これなら俺にも使える自衛手段だ、なんて一瞬喜びかけた。
しかし、冷静に考えてみると、そもそも魔獣相手に触れられる距離まで詰められた時点で、普通は致命傷をくらいお陀仏だ。
この魔法をそんな使い方が出来るのは、相打ち覚悟で死んでもいい人間か、それとも――、
「そして、わたしの傷を治したのは“不老不死の呪い”――二〇〇年前の大災厄の古傷です。元は『永遠』の魔法、という大魔法だったんですけど、その大魔法が失敗して、逆流した魔力が呪いとなりました」
――死なない人間か。
そして三つ目の指を折った魔女様の口から出た『永遠』の魔法。
その単語は、あの書庫で読んだ本に書かれていた内容に合致する。
魔女様は確かに、その端正な顔を悲しげに歪めて、その口で“失敗した”と言った。
つまり、二〇〇年前の大災厄は魔女様が故意に国と王を裏切り行った大虐殺などでは無く、魔法が失敗した事故により魔力が逆流した結果なのだ。
やはり、あの本は俺の期待通り、被害者視点で脚色された物だったという訳だ。
しかし、事故であれ故意であれ、結果として人が大勢死んだという事実には変わりない。
仮に二〇〇年越しの誤解を解いたとしても、それで世界が魔女様を許すかどうかは、また別の話だろう。
俺は彼女のデリケートな部分に触れてしまった罪悪感と、魔女様の事を少し深く知れた嬉しさとで、複雑な気分だった。
しかし、この件を掘り下げても良い物か。
魔女様の表情から察するに、大災厄の事はあまり自分から話したい話題では無いだろう。
悲しむ顔は、やはり見たくない。
それは憚られたので、俺は一番無難そうな、気まずさから始めた雑談を続けるという選択肢を取った。
「先生、質問いいですか」
「はい、なんでしょう」
雰囲気を変えようと俺が明るい声色で挙手をしてみると、魔女様も乗ってくれた。
「魔法と大魔法って何が違うんでしょうか?」
「ああ、それはですね。まず、魔法は魔力だけを消費して行使する簡単な物です」
彼女は簡単な物と言うが、俺が実際にやってみた感じでは一切簡単を感じられなかった。
例えば、仕組み上少し練習をすれば“火を起こす”という結果自体は起こす事が出来る。
しかし、俺が勝手にやろうとしていた仮称『ファイアボール』の様な“火を球状に加工してそれを勢いよく前方へ発射”するなんていう複雑な命令を魔法という形に落とし込むのは非常に難しいのだ。
「そして、大魔法というのは魔力の他にも、名前や記憶、命なんかの、人生に直接関わる“大切な物”を触媒として消費して行使する物です。その分、より大きな結果をもたらす、より強力な魔法ですね」
名前や、記憶――。
「もしかして、俺が生き返った『死者蘇生』の魔法も――」
「はし、そうですね。『死者蘇生』の魔法も、その大魔法に該当します」
「前に言ってた“何度も生き返れない”っていうのは、そういう事か……」
「はい、お察しの通りです。私の名前とそれに連なる記憶は『永遠』の魔法で。あなたの名前と記憶は『死者蘇生』の魔法で。それぞれ使用済みです」
残るは命。
しかし、命を触媒としてしまっては『死者蘇生』も何も無いので、もう残機は残っていないのだ。
ここに来て新事実発覚だ。
つまり、俺が頭に霞がかかった様に記憶があやふやなのも、名前が思い出せなかったのも、トラックに跳ねられて頭を強く打った所為などではなく、魔女様が命を助けてくれた時の副産物。
俺の名前と記憶は蘇りの代償として、触媒となっていたのだ。
「黙っていてすみません。勝手に触媒にしてしまったので、言い出しにくくて……」
「謝らないで欲しい。何度も言ってるけど、魔女様は俺の命を助けてくれたんだから」
「そう言って貰えると、ありがたいです」
魔女様はそう言って、少し寂しそうに笑う。
「それに、忘れちゃった物は仕方ない。命には代えられないよ」
名前を失おうが、記憶を失おうが、それも全て命あっての物。
命の恩人を誰が責められようか。
それに、思い出せない記憶なんて、最初から無い物となんら変わりはないだろう。
もう覚えていない記憶に対して持てる感情を、俺は持ち合わせていなかった。
名前が無いのは将来的に不便では有るが、魔女様とは「魔女様」「あなた」と呼び合う関係でもう馴染んでしまっていて、この森の中で二人で過ごす分には、特に困ることも無い。
しかし、これからも共に過ごしていくのなら、将来的には一緒に新しく、二人の名前を考えても良いかもしれない。
だから――、
「これから一緒に、忘れた分も、沢山思い出を作っていこう」
「ええ、そうですね」
俺はそんな前向きな未来設計を、思い描いていた。
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