2 日記帳

 千鳥が殺された事件から数か月の時が経ち、諸々の処理を終えた私は、東京から故郷である兵庫へと戻っていた。

 住んでいるのは実家で、私が高校生のときまで祖父母と母とで暮らしていた古い一軒家だ。しかし、今は私ひとりの家だった。

 祖父母はすでに亡くなっており、母は終の住みかを別に見つけて、そこに移り住んでいる。私が家を出てからは、いずれ生活に便利な場所へ移ろうと、かねてから計画していたらしい。そのため実家は売り払われる予定だったが、事件のこともあって、しばらくはこちらに身を寄せることが許されていた。

 さすがにあんなことに巻き込まれては、厳しい母も同情的だ。一緒に住むか、とも言われたが、私はそれを断っている。今はひとりになりたい、というのがその理由だ。

 とにかく、そういう経緯で私はどうにか自分の住まいを確保することができていた。ただ、母が早々に移住を決めた程度には、実家の周辺は何もない――畑と民家しかない――田舎だ。

 とはいえ、多少不便でも、今の私にはなじみの土地で過ごせる方がありがたい。処分するつもりの家具なども少しは残されていたので、かつてと変わらない――とまでは言えなくとも、よく見知った家にいられることは、何よりなぐさめにもなっていた。

 勤めていた会社の方は、すでに辞めてしまっている。辞めろと言われたわけではないが、本の出版が取り止めになったこともあり、勤め続ける気力を失ってしまったからだ。

 千鳥の死体を見つけて、交番へとかけ込んだ後のこと――

 私はそこにいた警察官にどうにか状況を説明し、一緒にマンションの自室へと戻った。それからしばらくは、大変のひとことでは言い表せないほどの日々を送ることになる。

 まず、千鳥の死について。

 彼女は見た目どおり鋭い刃物で喉を切り裂かれ、その出血のために死んでいた。死亡したのはその日の昼頃。鍵もかかっていなかったので、外部からの侵入者による犯行だろう、とのことだった。

 警察の見解など知る由もないが、当時はそんな報道がされていたと思う。何か盗られたわけでもなく、部屋が荒らされた形跡もなかった。怨恨による犯行か、というのが大方の予想だ。

 千鳥が死亡した時間、私にはちゃんとした――いわゆるアリバイがあった。警察がどう考えていたかまでは知らないが、私に対してはわりと哀れみを持って対応していたように思う。

 ただ、取り調べの際、私は千鳥の交友関係についてほとんど答えることができなかった。単純に知らなかったからだが、そのことを多少は訝しく思われたようだ。そういう関係だったのだと、どうにか説明したが――今の時代はそういうものかね、などと呆れられたことをよく覚えている。

 千鳥の遺体の引き取りについては、どこからともなく彼女の父親を名乗る人物が現れて、すみやかに処理していった。それまで私は彼女の家族に会ったこともなかったので、何を尋ねられるのだろうかとか、この件をどう説明したものかと考え、身構えていたのだが――

 父親は娘の死に際し、特にうろたえる様子も悲しむ様子もなく、淡々と手続きを進めていった。あまりの冷淡さに、こちらが拍子抜けしてしまったくらいだ。千鳥の母親は、いるのかいないのかわからないが、最後まで私の目の前に姿を現わすことはなかった。

 葬式も親族だけで済ませてしまったらしい。私には別れの言葉をかける機会すら与えられなかった。たとえそれほど深い関係ではなかったにしても、一年も共に暮らしていたというのに。

 現場にあった西洋人形については、おそらく警察も誰も、事件に関係するものだとは見なしていなかっただろう。というより、それは私が何も話さなかったせいもある。

 あの人形について、捨てたはずなのに戻ってきた――と証言することは、どうしても私の理性が許さなかった。そもそも、その人形が他人の家から無断で持ち出された物であることも、伝えることをためらう要素のひとつではあったが、そうでなくとも、そんなあり得ない現象を証言して正気を疑われたくはなかったからだ。

 確かに異常な状況ではあったが、だからといって、あの人形が千鳥を殺した、ということにはならないだろう。あのときは突然のことで、そんな考えも多少は頭を掠めはしたが――冷静になれば、やはりあり得ないことだと思う。部屋には鍵がかかっていなかった。ならば、犯行は誰にでも可能だったということだ。

 不可解なのは、あの場所に人形があった、ということだが――これだけはどうにもわからない。

 人形を含む千鳥の私物に関しては、今頃はもう全て処分されたはずだった。千鳥の父親から、業者に清掃を依頼するから必要な物は部屋から持ち出しておいて欲しい、と一方的に告げられたのだ。感傷的なところなど何ひとつない。しかし、その頃には私の方も、千鳥と両親の関係性を察してもいた。

 処分された物の中には、千鳥があのゴミ屋敷から持ち出した物もあっただろう。しかし、それについては、私はもうどうでもよくなっていた。疲れ果てて捨て鉢だったせいもある。私は諸々の処理を了承し、本当に必要な物だけを持って、あの部屋を出た。そして――

 故郷に落ち着き、静かな日々を送り始めて一か月。私はようやく心の平穏を取り戻しつつあった。あんなことがあったのに、もうその記憶が薄れかけていることには、我ながら戦慄する。しかし、いつまでも茫然自失ではいられまい。

 千鳥を殺した犯人はまだ見つかっていないが、それに関しては、もはや私の領分ではないだろう。

 ただひとつ、あの事件に関連する――かどうかは微妙だが――中で、私の手元に残った物もあった。日記帳だ。私はそれを処分することもできず、さりとてあの部屋に残すことも、ましてや返しに行くこともできずに手元に置いていた。

 千鳥の死からこちら、それどころではなくなってしまったので、日記については、結局のところ全く目を通せてはいない。それでも、その存在は常に私の意識の中にあった。

 机の上に置かれたノート。私は久しぶりにその日記帳を開いて、そこに書かれた文章を拾い読んでみた。


 ――水道管の点検に業者が二人やってきた。

 点検は終わったが、男がひとり今もそこにいる。

 ただ無言で台所に立っている。

 どうやらこれは業者ではなかったようだ。

 何がこれを呼んだのだろう。

 追い出さなければ。


 ――二階にある漆器の皿に水がたまっている。

 雨もりかもしれない。

 見ただけではよくわからない。

 自分で確かめることは難しい。

 しかし、業者を家に入れる気にもなれない。


 ――あれは雨もりではなかったようだ。

 ここしばらく雨は降っていない。

 皿は危険なものではないとのこと。

 ただし借りものだから本当は返さないといけないらしい。

 どこで借りたかはやえさんにもわからない。


 そこにはやはり、彼女の身に起こった不思議なできごとが記されていた。

 私はため息をつく。もしも、自分が同じような状況に置かれでもしたら――と考えると、ぞっとした。彼女はどうして、あの家にひとりでいることができたのだろう。いや、ひとりではない。彼女には、助けを求められる相手がいた。やえさん、という名の正体不明の人物が。

 私は日記帳を机の上に戻すと、家を出て郵便受けへと向かった。何かの便りを待っていたわけではない。この時間にそうすることが、単に日課になっていたからだ。

 しかし、この日そこで目にしたものは――

 箱だった。ダンボール箱だ。道路と家の敷地の境界線上、開けられている表門の、その中心にぽつんと置かれている。宅配ではないだろう。送り先も送り主の名もない。封もされていない。ただ、軽く閉じられているだけ。

 私は呆然とした。しかし、心のどこかではわかっていたような気もする。これに関係するできごとが、あれで終わりなどとは思っていなかったのかもしれない。

 そして、案の定だ。

 私はそれを見下ろすと、仕方なくそれを拾い上げた。こんなところに置かれては、家を出ることもできないではないか。

 玄関まで戻り、その箱を開けてみた。中にあったのは、いかにも古びている風のさまざまな道具たち。

 陶製の壷に螺鈿の盃、あるいは金属製の彫刻か何か。それから、木製の箱と、いくつかのこまごまとした物。そして、あの西洋人形も――



 私はそのダンボール箱を家の中に持ち込むと、家具も何もない、がらんとした空き部屋に置いた。

 玄関から入ってすぐ横にある洋間だ。母はそこを応接間と呼んでいたが、私が知る限りその部屋に客を招いた覚えはない。それでも不要な物を置いておく場所として利用していたはずだったが、特に惜しむような物もなかったのか、何もかもがすでに処分されていた。

 今はもう使っていないその部屋にあるのは、まさしく今、私が持ち込んだその箱だけ。ただ、そうして置き去りにされていたダンボール箱を持ち込んだはいいが、私はそれの処遇について、すでに頭を抱えていた。

 箱を前にして、私はただ呆然と立ち尽くす。

 ひとまず心を落ち着かせようと端末を手に取ると、折よくメッセージが届いていることに気づいた。知り合いから、あれからどうですか、という簡単なひとことが送られていることを確認する。

 勤めていた会社の後輩に当たる社員からだ。彼とは偶然、出身大学が同じで――在学中は全く交流がなかったのだが――何となく目をかけていた。

 どう返信しようか、迷う。この奇妙な現象を話してみようかとも考えたのだが――

 東京から引き上げる際、彼にはいろいろと手伝ってもらっていた。それだけでも十分助けられている。いい後輩だ。だからこそ、こんなわけのわからないことに関わらせたくはない。

 考えた末に、私はひとまず彼に電話をかけた。三回目のコールで、彼はそれに応答する。

「久しぶり。岩槻いわつきくん」

 岩槻いわつきふみ。それが彼の名だ。

 相手に何か言われるより先に、私はできる限り明るく声をかけた。変に気づかいの言葉をかけられでもしたら、弱音を吐いてしまうかもしれないと思ったからだ。

 その思惑は、ひとまずうまくいったらしい。こちらがいつもの調子だからか、相手も同じように応じてくれる。

「お久しぶりです。大丈夫でしたか? あれから、あまり連絡できなくて。僕もその、何て言えばいいか……」

「大丈夫。こっちはどうにか落ち着いた」

 話題が望まない方へ転ぶことを恐れて、私は食い気味にそう答えた。続けて、こう問いかける。

「そんなことより、仕事は問題ない? 突然抜けておいて、私が言うことじゃないけどね」

「そんなこと――大丈夫ですよ。何とかやれてます。本のこと……残念です。あんなにがんばっていらしたのに」

 相手に気づかいをさせない、というのもなかなか難しい。しかし、それだけ今の自分は同情に値するということなのだろう。そうでなくとも――

 ぽつんと置かれたダンボール箱が、ふと目に入った。今さらながら、箱の中の人形が動き出すのではないか、目を離した隙にもう移動しているのではないか。そんな妙な妄想に囚われる。

 あれをどうにかしなければならない。しかし、大事な後輩を巻き込むのは忍びない。それならば――

「あー……電話したのはね。その――ちょっと聞きたいことがあるんだけど。学生でバイト扱いの、延坂のべさか……何だっけ。変わった名前の。連絡先、知らない?」

 思いつくままに、私はそう話す。正直に言うと、電話をかける前はそんな人物のことなど、さっぱり忘れていたのだが――なぜかふと、その存在をはっきりと思い出したのだった。

 唐突にその名を出したことを、岩槻も怪訝に思ったらしい。電話の向こうで、戸惑う彼の息づかいが聞こえてくる。

 しかし、彼が沈黙したのはわずかな間だった。

「……延坂のべさか空木うつぎさんのことですか? 一応知ってますけど。それが何か?」

 延坂空木。確かに、そんな名前だった。

 実のところ、そのアルバイトとは大して親しくはない。あまり接点もなかったので、まともに会話した覚えもない。しかし――

 私は岩槻の問いかけに対して、ちょっとね、と答えを濁した。できた後輩は理由を深掘りせずに、快く連絡先を教えてくれる。また連絡する、とだけ言って、私はその通話を終えた。

 私は延坂にさっそく電話をかけることにする。善は急げ――ではないが、人形の入った箱を前にして、私は少し自棄になっていた。

 箱を家の中に持ち込んだことを、今さらながら失敗だったかもしれない、と思い始めていたからだ。とはいえ、まさか放っておくわけにもいかないし、箱を目にしたときはそうする以外にはないと思ったのだが。

 ずいぶんと長い間コールが鳴った後、延坂はようやく電話に出た。はい、と応じる声は、寝起きなのか不機嫌だからか、妙に投げやりだ。

 そんな不都合には目をつぶり、名乗ってから早々に本題へと入る。

「相談したいことがあるのだけど」

「怪奇現象のたぐいじゃないでしょうね」

 即座にそんな言葉を返される。私はたじろいだ。

「どうしてわかったの」

 私の言葉に、相手はあからさまなため息をついた。この態度。こんな生意気な男だったのか。私は彼に頼ろうとしたことを、もう後悔し始めていた。

 延坂はこう答える。

「俺とあなたは、別に親しくはなかったじゃないですか。それなのに、突然連絡が来るとか。普通の用件じゃないでしょう」

 言ってることはもっともだ。それでこちらの事情を察してもらえるなら、むしろ話は早いかもしれない。なぜなら――

「まあ、いいけど。あなた、実家が寺なんでしょ」

 私がどうにかそう返すと、延坂は、言うと思った、とこぼして、もう一度ため息をついた。そして、呆れたようにこう返す。

「実家が寺であれば、皆が皆、かけ声ひとつで除霊できるとか、思わないでもらえますかね」

「そんなこと、思ってないけど……」

 私は少しだけ声の調子を落とす。

 思ってはいない――が、少しだけ期待はしていた。かけ声ひとつでどうにかなるとまではいかなくとも、少しくらいは、この手の話を真面目に聞いてくれるのではないか、くらいには考えていたのだ。

 しかし、その期待は外れたらしい。とはいえ、落胆するにはまだ早いだろう。

「とにかく、困ってるの。何でもいいから、除霊か――供養? とかで、変なことが起きなくなるような、そういう実績のあるところ、知らない?」

 この男には直接頼れずとも、少しでも情報が得られるならそれでいい。そう思ったのだが――

 延坂はしばらく唸った後、仕方ない、といった様子で私のメールアドレスを尋ねた。何のつもりかは知らないが、とりあえず教えてみる。リストを送るから確認してくれと言われたので、一旦通話を切った。

 すぐさま、そのリストとやらが添付されたメールが送られてくる。ファイルを開き、ひと通り確認してから、すぐに電話をかけ直した。

「何これ」

「そういうことを引き受けてくれる宗教施設やらのリストです。ネットで調べれば出てくるものから、噂レベルのものまで。よりどりみどりっすよ」

 私は絶句した。知り合いを紹介してくれるとか、そうでなくとも、もっと何か――同業者の伝手だとか、そういうものですらないのか。

 延坂はいけしゃあしゃあと、こう言い放つ。

「そういうこと、たまに聞かれるんですよね。だから、用意してあるんですよ。一応」

 どうやら、頼る相手を間違えたようだ。私は彼に電話したことを、深く後悔した。

 こちらが黙り込んだことをどう思ったのか、延坂はさらに言い訳を重ねてくる。

「申し訳ないですけどね。うちは怪奇現象に関わるな、という親からの――いや、違うな――兄貴からのきつい言いつけがありまして。だから、それで勘弁しちゃあ、もらえませんかね」

 何だそれは。

 よくわからない理屈だったが、いちいち突っ込むのはやめにした。これ以上、この男には期待できない。そう判断したからだ。

 私が考えを巡らせているうちに、延坂はまた大きくため息をつく。

「と言いますか、相談するなら岩槻いわつきさんにすればいいじゃないですか。怪奇現象に詳しいかどうかは知りませんけど」

「かわいい後輩を、変なことに巻き込めないでしょ」

 私は反射的にそう返した。

「それ、俺ならいいってことですか。なかなかに理不尽っすね……」

 彼の嘆きを軽く聞き流して、私はおざなりな礼を述べてから通話を切った。これで何の情報も得られていないなら、もう少し噛みついていたところなのだが――

 延坂から送られて来たリストには、実家の近くにある寺の名があった。少なくともこの男よりは頼りになるだろう。そう考えたのだ。

 私はさっそくタクシーを呼んで、その寺へ向かうことにする。このダンボール箱を、長く手元に置いておきたくはない。そう考えて、すぐさま行動に移す。

 家からその寺へ行くのに、そう時間はかからなかった。門前でタクシーを降りて、ダンボール箱を抱えたまま境内へ。

 そうして私が訪れたのは、それなりに歴史がありそうな、それなりに大きい寺だった。そんな感想しか出てこないくらいだから、私はその寺の宗派すらよくわかっていない。当然、実家の近所とはいっても、ここには参拝に来たことすらなかった。

 ともかく、そんな寺で私のことを出迎えたのは、黒の僧衣に袈裟という、見るからに僧侶といった風体の中年の住職だった。

「困りましたね」

 私の話を聞いた住職は、本当に困っているとわかる表情でそう言った。

「何かその、噂になっているんでしょうか」

 住職はいかにも申し訳なさそうに、そう尋ねてくる。

 除霊の依頼を受けてくれるという噂になら、なっているのではないだろうか。延坂が言ったことが本当であれば、どこかしらでそういう話はあるのだろう。

 しかし、この反応からすると、それは本当にただの噂らしい。そして、この反応からすると――そういう依頼が増えて、困ってもいるのだろう。

 住職は首を横に振りながら、残念そうにこう言った。

「違うのです。うちではないんですよ。それを解決したのは。確かに、始めはうちに持ち込まれた物ではあるんですがね」

 うちではない。では、どこが解決したというのか。私は食い下がった。

「何とかならないでしょうか。こちらも困っているんです」

 そのとき私はなぜか、ふと――千鳥の死の光景を思い出した。あの場に突然現れた、西洋人形。そんな物が私のことを追って来たのだとしたら、また同じようなことが起こるのではないだろうか。そんな考えが急に浮かび上がってくる。

 やはり、この人形が千鳥を殺したのか。一度は否定したはずなのに、私は再び、そんな根拠のない恐怖を抱き始めていた。

 ここで、この件を解決する糸口を失うわけにはいかない。そう思って、私は必死になって住職へと詰め寄る。

「この、人形。西洋人形だけでも、お祓いしていただけたら……」

 お祓いは――もしかしなくとも神道か。口にしてから、私はそう気づく。しかし、住職が反応を示したのは、その言葉の方ではなかった。

「西洋人形、ですか。そうですね……少々お待ちください」

 住職はそう言うと、私を置いてどこかに行ってしまう。しかし、待たされたのは、それほど長い間ではなかった。

 戻って来た住職が告げたのは、こんな話だ。

「先方と連絡がとれました。解決は確約できないが、話を聞くだけなら、と。そちらでよろしければ、場所をお教えします」

 どういうことだろう。いや――住職は、解決したのはうちではない、と言っていた。ならば、連絡をとった、その先方とやらがそうなのだろう。それを教えてもらえるなら、願ったり、なのではないだろうか。

 とはいえ、私はたらい回しにされることを警戒してもいた。そうして向かった先で、また嫌な顔をされるのではないだろうか。そもそも、それはどんな場所なのか。

 住職は手にしていた名刺――あるいはカードか――を差し出しながら、こう続けた。

「ご相談に乗ってくださるのは、こちらのお店です」

 カードには簡素なデザインで、住所と電話番号と、そして店名が書かれていた。

 アンティークショップあかとき堂、と。



 呪いの西洋人形とアンティークショップ。

 これがもしも呪いの日本人形だったなら、それはやはり寺の領分だろう、と思ったかもしれない。しかし、西洋人形とアンティークショップだ。その取り合わせは、私に何となく、これはどうにかなるのではないか、という印象を抱かせた。

 冷静に考えれば、そうでもない。しかし、寺に持ち込まれたらしい、いわくつきの品については、そこが解決したのだと住職も言っている。どういう状況を解決したのだと言っているのかは知らないが、困っている相手を前に、寺の住職がまさか嘘でごまかしたりはしないだろう。少なくとも私はそう考えた。

 そのアンティークショップは、今いるところからはそれなりに距離がある。かといって、後日に出直すほどでもなかった。その場を辞して、私は早々に紹介された店へと向かう。

 捕まえたタクシーの運転手にアンティークショップについて尋ねてみたが、心当たりはないとのこと。有名な場所でもないだろうし、小さな店ならば仕方がないだろう。そのうえ、店の周辺は細い坂道の入り組んだ地区らしい。私は教えられた住所の近くでタクシーを降りて、そこから自分の足で探すことにした。

 そうして、ダンボール箱を抱えた私は、坂の下の大通りに降り立つ。そこから私が入り込んだのは――デタラメな迷路のような街だった。

 店を目指して歩き始めた私をまず混乱させたのは、まるで惑わすかのような街の構造だ。坂道を上がったかと思えば、いつの間にか下っていたり、近道をしたつもりでいると、ぐるりと元の道へ戻っていたりする。

 住職から受け取ったカード――いわゆるショップカードだろう――にあるのは簡単な地図だけだったので、これを頼りにすれば店に行くこと自体はそう難しくはないだろう、と思っていたのだが――地図にない細い路地が巡らされたその街は、まるで惑わすように、店へ辿り着くことを容易には許してくれなかった。

 故郷からそれほど遠くもないところに、こんな場所があったのか。驚くと同時に、私はその街の奇妙な有り様に閉口していた。体力もある方だし、知らない街を歩くことも慣れたものだと思っていたのに。急な坂道ばかりだったこともあって、私はすでに音を上げていた。

 まだ夕刻には早いが、そうしているうちにも日は段々と落ちてくる。勢い込んで来たものの、本当にその店に辿り着けるのだろうか、と私は徐々に不安になっていった。

 そうして見知らぬ土地をさ迷い続けて、自分がどこにいるのかも判然としなくなった頃――

 入り組んだ路地の先にある行き止まり。私はようやく、その重厚な木製の扉の前へと辿り着いた。






「――それで? 買い取って欲しい物、とは?」

 店主がそう尋ねるので、私は手にしていたダンボール箱を開けようとした――が、あいにく両手が塞がっていた。それを察した店主が、カウンターの上に積み上がっていた洋書を移動し場所を空けてくれる。私はそこに、もはやくたびれてしまったダンボール箱を下ろした。

 軽く閉じていた上部を開けて、真っ先に視界に飛び込んできたのは例の西洋人形だ。店主もそれを目にしたのだろう。納得したようにこう言った。

「ああ。住職からの電話は、君のことか」

 店主は箱の中身をざっと見ただけで、手に取ることはしなかった。そうしてひと通り見終えると、彼女は探るような視線を私に向ける。

 私はそれに対抗するように、強気にこう申し出た。

「これを全部、買い取って欲しいの。金額はそちらの言い値でかまわない。処分できるなら何でもいい」

 店主の目は冷ややかだ。私はほんの少し声の調子を落としてから、こう続けた。

「全部は無理でも、その――西洋人形だけでもいいけど」

「西洋人形?」

 店主はそう問い返した。そして、淡々とくり返す。

「西洋人形、ね」

「何かおかしかった?」

 店主は箱の中に手を伸ばし、赤子を抱くようにして、その人形を手に取った。

「いや。間違ってはいない。しかし、そんな呼び方をするからには、詳しくはないのだろうと思ってね」

 店主は手にした西洋人形をひっくり返すと、髪をかき上げてうなじの辺りを見たり、服を捲って中を覗き込んだりし始めた。鑑定しているのだろうか。

「まず、君の言う西洋人形の中でも、これは頭部がビスク――素焼きの磁器で作られているビスクドールに分類される物だ」

 店主はそう言うと、磁器製であることを示すためだろうか、ご丁寧に頭部を私の方へと差し出した。人形が苦手な私は思わず後ずさる。

 そんな反応には気づかずに、店主は淡々とこう続けた。

「そして、その中でもこのように子どもの姿を模した人形は、ベベドールと呼ばれている。べべはフランス語で赤ちゃんを意味する。パリ万博に出展された市松人形の影響があったとも言われているが――ともかく、十九世紀頃に主に子どもの玩具として流行した。百年以上経ってからも愛され、コレクターがいることから、それらはアンティークドールとして、物によっては高値で取り引きされている」

 人形に関する講釈を聞きに来たわけではないので、私は半分上の空だ。

「その――ベベドール、というのがアンティークドールってこと?」

 その問いかけに、店主は呆れたように肩を竦めた。

「いや、アンティークとは、ようするに古い道具のことだ。ビスクのベベドールも、かつてほどではないが、今でも作られている。アンティークの定義については曖昧なところもあるが、基本的に百年経てばアンティークだ。よって、時を経た物だけをアンティークドールと呼ぶ。この国では、百年経った道具は化生けしょうになるがな」

「は?」

「つくも神のことだ」

 店主はそう言うと、ほんの少し笑みを浮かべた。冗談のつもりだったのだろうか。しかし、私には何がおかしいのかわからない。

「その人形、値打ち物なの?」

 私はとりあえず、そう尋ねた。別に価値など、どうでもいいのだが――ここまで語るなら珍しい物なのかと、単に興味を抱いたからだ。

 しかし、店主はさして残念でもなさそうに、首を横に振る。

「いや。まず、ヘッドとボディが合っていない。この手のコレクター向きのアンティークは、元の状態が維持されていないなら、価値は著しく落ちる」

「ようするに偽物ってこと?」

 わからないながらにそう尋ねると、店主に鋭い視線を向けられた。

「なぜそうなる。子どもの玩具だと言っただろう。もしかしたら修理され、長く大切にされていた品なのかもしれない。それを偽物と呼ぶのはどうかと思うが」

 店主はそれだけ言うと、平静に戻った。私の言葉に気分を害した、というわけではないようだ。やはり、単に無愛想なだけか。

「まあ、そういう過去が仮にあったとしても、私には関係ないが。よほどの著名人が所持していたというならともかく。今ある状態から価値を判断するだけだ」

 回顧メモリーにも感傷センチメンタルにも逸話エピソードにも興味はない、か。彼女にとってはこれが商売なのだから、その理屈自体おかしくはないだろう。客商売という点では、もう少し手心が欲しいところだが。

 店主はそのアンティークドールをカウンターの上に座らせると、不意にこう問いかけた。

「それで? 君はこれをどこで手に入れた?」

 私は思わず黙り込んだ。しかし、相手にしてみれば当然の疑問だろう。

 これらの品に対して、私はあまりにも無知だ。嘘をついたところですぐバレる。とはいえ、ありのままを話すこともはばかられた。

 何にせよ、いつまでも沈黙してはいられない。私はどうにか口を開いた。

「知人の――遺品なの」

 私はそう答える。少なくとも嘘ではない。

 店主はさらに問いかけた。

「呪い、と言ったな。なぜ、呪われている、と?」

「知人の亡くなった場所にあった物で……いや――」

 私は咄嗟にそう答えてから、あらためてこう言い直した。

「その人形は、動くみたいで」

「みたい、とは?」

 どこまで打ち明けるべきかを、私は迷った。しかし、住職からこの店に連絡があった時点で、この人形がいわくつきであることは相手に知られているだろう。ならば、それ自体は隠すべきではない。

 私は言葉を選びながらも、こう答えた。

「前の持ち主がそう書き残してる。それで、その人形を一度は捨てたはずなんだけど……戻ってきたの。知人は何者かに殺されていて――犯人はまだ捕まってない」

 ふん、と店主はおもしろくもなさそうな表情で一笑する。そうして彼女は、あらためてダンボール箱の中にある他の品を見やった。

 黙り込んでしまった彼女に、私はこう言い添える。

「他の物については、よくわからないけど。もしかしたら、いわくつきの品が紛れているかもしれない」

 店主はしばらくそれを見下ろしていたが、不意に目の前のダンボール箱へと手を伸ばした。そして、おもむろにその中のひとつを取り出す。

 彼女が手にしたのは、金属製の工芸品――だろうか。木の枝を模した物で、根の部分が銀色、茎は金色、実は真珠で作られているようだ。店主はそれをためつすがめつしていたが、不意に感心したような声で呟いた。

「おもしろい。誰によるものかは知らないが、蓬莱の玉の枝じゃないか。よくできている」

「何それ」

 私が怪訝な顔をすると、店主は呆れたような表情で見返してきた。

「竹取物語も知らないのか」

「知ってるけど。かぐや姫でしょ。フィクションじゃない。それこそ偽物でしょう」

 店主は私のことを無言でじっと見ている。

「何よ」

「感性の違いだな」

 彼女はそう言って、ため息をついた。

 次に店主が取り出したのは木製の箱。確か、千鳥が開けようとして、できなかった箱だ。立方体でいくつかの木が組み合わせられているようだが、どこから開けるのか一見しただけではわからない。店主もそれを軽く振っただけで――音はしなかったようだ――ダンボール箱に戻してしまった。

 それから陶製の壷。表面には絵か、あるいは模様が描かれている。中には何かごわごわした布のような物――緩衝材だろうか――が詰められていた。

 他は細々とした品だ。煌びやかな螺鈿の盃に、古めかしい鏡――湯飲みの茶碗を手に取ったときだけ店主は、安物だな、とぽつりともらす。しかし、その安物の茶碗ですら彼女はぞんざいに扱わず、丁寧に箱に戻した。

 残りは古銭に――千鳥はなぜこれを価値があると判断したのだろう――後は、能の面らしき物と、そして――

「このリング」

 店主の言葉に、私は思わず首を傾げた。そんな物があっただろうか。覚えがない。

 見てみれば、彼女の手のひらの上には、確かに金属製の何かが乗っている。しかし、それはそもそもリングとも呼べないような代物だった。

 確かに、小さな宝石がいくつか並んでいて、元は指輪だったのだろうということはわかる。だが、それは明らかにひしゃげていて、もはやその形は輪ですらなく、おまけに――血のような汚れがついていた。

「これだけか? 同じような物があったのでは?」

「ペアリングってこと?」

 私の答えに、店主は顔をしかめた。そして、指輪を見つめてから、そっと元にあったところに戻す。

「いや――」

 何かを考え込んだまま、店主は上の空で呟いた。そして、あらためてダンボール箱の中から、カウンターに置かれたアンティークドールへと、順にその鋭い視線を向けていく。

 店主は不意に大きく息をはくと、私に向かってこう言った。

「確かにおもしろい物もあるが、どれも状態が悪いな。いいだろう。そのドールのみ買い取ろう。ただし、大した金にはならないが」

 ドールのみ。聞き間違いかと思って、聞き返す。

「ドール以外、じゃなくて?」

「そのドールは動くのだろう?」

 店主はそう問い返す。

 私はわけがわからずに、内心で首を傾げていた。動く人形だけを、あえて買い取りたいものだろうか。

 とはいえ、この店にはそもそも、人形をどうにかしてもらうために来たのだ。寺の住職が紹介するくらいなのだから、そういう物の扱いにも慣れているのかもしれない。ならば、その申し出自体は、こちらとしてはありがたいことなのだろう。

 他の品も一緒に引き取ってもらえなかったことに関しては、残念だが。

 そんな心の内を察したように、店主は不意にこう言った。

「他の品も、本当に呪いとやらがあるなら、買い取りを考えなくもない」

 やはりよくわからない。このアンティークショップは、そういう物が専門だったりするのだろうか。店内に並べられている品々が、急に不気味な物のように思えてくる。

 店主はそんな私の恐怖心には気づかずに、一枚の用紙とペンを差し出した。

 買い取りのための書類のようだ。名前や連絡先などを書くための空欄と、取り引きに際しての契約の文言が簡単に書かれている。

 私はアンティークドールと店主とを交互に見てから――決心し、その書類へとサインした。名前を記入する際に、店主が軽く手元を覗き込んでくる。


 一宮鹿子


 その表記を見て、店主はこう尋ねた。

「読みは?」

「いちみや、かのこ」

 そう答えると、彼女はどこからか一枚の名刺を取り出し、私の方へと差し出した。そして、自らこう名乗る。

「私の名は東雲しののめあずさだ」

 あかとき堂、店主。その肩書きの後に、確かにその名前が記されていた。



 そうして私はあの西洋人形だけを残して、店を去った。

 何はともあれ、最も気がかりだったことについては、しかるべき――と言っていいかはわからないが――ところへ納まったことになる。しかし、そうして帰宅した私は、いわくつきの品を手放すことができてひと安心、という気分には、どうしてもなれないでいた。

 時刻はすでに夜。昼は晴れていたが、今は静かに雨が降り始めている。

 雨音だけが聞こえる室内に、不意に響いた音は家鳴りだろうか。この家も、もう古い。そうでなくとも、この程度の音は怪奇現象でも何でもないだろう。しかし、その音を聞くたびに、私はなぜか、耳を澄ませて辺りを見回してしまうのだった。

 これでよかったのだろうか。そんな疑問が、絶えず心の中に浮かんでくる。

 確かにあの店主は人形のことを恐れてはいないかもしれない。しかし、私は彼女に全てを打ち明けてもいない。

 千鳥の死の様子を。まさしくその現場に、あの人形があったことを。

 私が話した程度の内容では、あの店主はそれを危険とは判断できなかっただけかもしれない。本来なら避けられたかもしれない災厄。それに彼女を巻き込んでしまったのだとすれば。

 とはいえ、彼女自身もいわくつきの品を求めていたようではあるのだが――

 千鳥の死の光景が、不意にまた浮かび上がってくる。禍々しい傷をさらして死んでいた、彼女の無残な最期。もしも、あの店主まで千鳥のようになってしまったら。

 そんなことがあるわけない。千鳥はあくまでも、生きた人に殺されたのだ。それも恐ろしいことではあるが、人知の及ばない何かに殺されるよりは、まだ道理にかなっている――と言えるかもしれない。どんな理由があれ、殺人に道理がある、などと思いたくはないが。

 私は部屋の隅に置かれたダンボール箱を――結局は目の届くところにないと不安だったのだ――じっと見つめた。あの中にはもう、動く人形は入っていない。しかし、残されたあれらの中にも、何かおかしなことを起こす物はあるかも知れず――もしもそうだとすれば、店主はそれも買い取ろう、と言っていた。

 視線は無意識のうちに、机の上に置かれた日記帳へと向かう。それを書き記した老女と、そして、彼女の良き助言者であったらしい、やえさんという人物のことを、私は思い出していた。

 もしも、あの店主に本当の意味で助力を求めるなら、私は一切の隠しごとをするべきではないのかもしれない。人形に関する奇妙なできごとをどう捉えたかは知らないが――彼女は少なくとも、私の話を聞いてくれた。そして、あの人形を引き取ってくれたのだ。どんな思惑があれ。

 私は日記帳が置かれている机の前まで歩み寄る。

 部屋にあるその机は、私が高校生のときまで使っていた物だった。身ひとつで東京に出て行ったので、その他の家具もほとんどが当時のままになっている。

 あまり物に執着しない方だったこともあって、私の自室は簡素だ。家を処分すると母から聞いたときにも、そのわずかな持ち物ですら引き取ろうとは思わなかった。好きにしてくれてかまわない、とだけ答えた記憶がある。

 机の上に不要な物を置くことを、私はあまり好まない。しかし、今はそこに、いくつかの物が置かれていた。

 漆器の皿と端切れで作られたらしい小さなぬいぐるみは、父の形見で――東京で生活していたときもずっと手元にあった物だ。執着をしない私にとっても、これは例外――いや、特別な物だった。

 そして、今ではその近くに数冊のノートが――他人の書いた日記帳が加わっている。私はその中から一冊を手に取って、目に入った文章を何気なく読んでみた。


 ――やえさんは言っていた。

 指輪は決して指にはめてはいけないと。

 強い思いが残っているから。


 指輪――リングか。そういえば、あのダンボール箱にはひしゃげたリングがあって――店主は、もうひとつ同じものがあるはず、というようなことを言っていた。しかし、探してみても、日記にそういった記述は見当たらない。あの箱の中にも、もちろんそんな物はなかった。

 そもそも、ここに書かれている指輪があのときのリングかどうかもよくわからない。それに、たとえあのリングがそうだとしても、ひしゃげている指輪を、誰も指にはめようとは思わないだろう。ともあれ――

 やはり、この日記帳には、まだまだいわくつきの品についての記述があるようだ。あの人形についても、探せばもっと恐ろしいことが書かれているかもしれない。それをなかったことにして、このままにはしておけないだろう。

 私は日記帳を閉じ、端末を手に取ると、ひとまず明日の天気予報を確認した。




 次の日――

 私は再びあの店へと向かっていた。デタラメな迷路のような街にあるアンティークショップ、あかとき堂へと。

 初めて来たときとは違って、今度はダンボール箱を抱えてはいない。その代わりに、ずしりと重い鞄を持っていた。

 あれだけ迷ったのだから、また道を間違えるかもしれない、と私は身構えていたのだが、昨日のあれは何だったのかと思うほどに、店にはすんなりと辿り着く。何だか拍子抜けしつつも、私は目の前にある扉を押し開けた。

 軋む蝶番の音と共に、高く澄んだ音を立ててドアベルが鳴る。

「いらっしゃい」

 昨日と同じように聞こえてくる、店主の声。昨日と同じなら、彼女が客を迎えに出て来ることもないだろう。さまざまな物と物の間を潜り抜けて、私は奥のカウンターへと向かう。

 やはり昨日と同じように、店主はそこにいた――が、この日は本を読んでいたようだ。彼女の視線の先にあったのは、古めかしい洋書。

 店主は顔を上げて私の来訪を確かめると、あからさまに顔をしかめた。

「昨日の今日で、また何か? 他の品に怪異でも現れたか? それとも、まさかドールを返して欲しい、とでも言うんじゃないだろうな」

 私は首を横に振る。

「どれも違う。まだひとつ、見せてないものがあったと思って」

 私はそう言うと、持っていた鞄を示してみせた。店主は訝しげな表情を浮かべたが、一応気を利かせてカウンターを空けてくれる。

 私は鞄を下ろすと、中から数冊のノートを取り出した。

「個人の日記帳なんて買い取りはしてないだろうし、興味もないんでしょうけど」

 私は軽い気持ちでそう言った。別に、この日記帳を買い取ってもらおうと考えていたわけではない。ただ実物を見てもらおうと思って、持って来ただけなのだが――

 しかし、店主はそれを聞いて、平然とこう答える。

「そういった物も、取り引きされることはあるが」

「は?」

 私は思わず間抜けな声を出す。まさか、そんな風に返されるとは思っていなかったからだ。

 店主はなおも、こう続けた。

「取り引きされている。うちでは扱っていないが。探してみるといい。興味があるなら」

 私はその言葉の意味を必死に考えた。取り引きされている、のか。個人の日記帳が。しかし、なぜ。

「個人的な日記だけど? 取り引きって、売り買いされてるの? なんで?」

 店主はさして何とも思っていない様子で、こう答える。

「読むためだろう。どんな理由があれ、誰かが欲しいと思えば、商売は成立する」

 それは――どうなのだろう。どんな日記帳が売り買いされているのかは知らないが、他人に読まれることを前提にした日記など、そうあるものではないだろう。

 そういった日記帳を求めるということは、その人の明かされない心の内を覗き込むようなものだ。それとも、その辺りはちゃんと本人の了承を得ているのだろうか。実際に他人の日記を読んでいる自分が、とやかく言えることではないのだが。

 考え込んでしまった私に、店主は呆れたような顔でこう促す。

「それで? 君はどんな目的でここを訪れたんだ?」

 店主に尋ねられて、私は当初の目的を思い出した。しかし、咄嗟にどう切り出すべきかを迷う。

 考えがまとまらないままに、私はこう答えた。

「やっぱり、もっと詳しく話しておいた方がいいと思って……あんな人形を押しつけたからには」

 私が彼女に見せたかったのは日記帳そのものではない。そこに書かれている内容――人形に関しての記述だ。

 あの西洋人形に関連して起こった一連のできごと。それを実際に読んでもらって、判断を仰ごうと思ったのだ。おそらくは――そういうことに詳しいだろう、この店の主に。

 私が日記帳のことについて、どう伝えようかとまごついているうちに、痺れを切らした店主の方から、こう尋ねられた。

「つまり――君は人形の呪いを心配して、またこちらに来た、と?」

 およそのところは、その認識で合っている。私が頷くと、店主は呆れたように苦笑した。

「君も変わっているな」

 常に厳しい表情だった彼女の顔が、そこで初めて和らいだ気がした。

 とにかく私は、付箋の貼られた日記帳を手に取って、該当のページを探し始める。そうしながら、待ち構えている様子の店主にこう話した。

「だって、そういう人形は動いたり、捨てても戻ってくるだけじゃなくて、首を締めたり、事故を起こしたりもするんでしょう?」

 そして、ときには首をかき切って人を殺すことも――いや、違う。それは、違うはずだ。私は唐突に浮かんできた千鳥の死のイメージを意識的に追い出した。

 店主は怪訝な顔をしている。

「……何の話をしている?」

「知り合いが言ってたの。呪いの人形の話。有名なオカルトで、映画にもなってるって」

 私がそう言うと、彼女は心底嫌そうな顔をした。それ以上、それについて言及することをためらうほどには。

「ああ……あの人形のことか」

 そう呟いて、なぜかため息をつく。店主は続けてこう言った。

「だとすれば、君はやはり、何も知らずにあれをここに持ち込んだ、ということだな」

 何のことだろう。私が訝しげに首を傾げると、店主はカウンターの下から何かを取り出し、それをぞんざいに投げてよこした。

 私はぎょっとする。安物の茶碗ですら、あんなに丁寧に扱っていたのに。

 慌てて視線を向けた先。そこにあったのは小型の機械――

「盗聴器だ」

 ――とうちょうき?

 その言葉の意味がすぐには理解できず、私は混乱した。そうしているうちに、店主は淡々と話し始める。

「あのアンティークドール。ボディに妙な部分があると思ったら、そんな物が隠されていた」

 言葉を失った私に向かって、彼女はこう続ける。

「くだらんな。何が呪われた人形だ。何が人形が戻ってきた、だ。おそらく誰かが戻したのだろう。当然、生きた人間が」

「だ、誰が?」

 私は戸惑ったまま、店主にそう問いかけた。彼女は鋭い視線で見返してくる。

「そこまでは、私は知らない。調べるつもりもない。ただ――」

 店主は私のことを真っ直ぐに見据えると、こう言った。

「なぜ、こんな物がここに持ち込まれることになったのか。説明してもらおうか」

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