厄災流し

速水涙子

1 アンティークドール

 デタラメな迷路のような街に、その店はあった。

 入り組んだ坂道を進み、ようやくたどり着いた路地の先にある行き止まり。そこには、人ひとりがどうにか腕を伸ばせるだけの広場がぽっかりと空いている。周囲を建物に囲まれているせいか、明るい空は切り取られ、まるで黄昏時のように昼なお暗い――そんな場所にその店はあった。

 突き当たりにあるのは、白い壁に突如として現れたかのような重厚な木製の扉。いかにも古びて見える、その扉の上部には磨りガラスの小窓がついていた。

 しかし、そこから中をうかがい知ることは難しい。そもそも、その扉からして周囲からは浮いていて、まるでどこか異界への入り口か――そうでなくても建物の裏口くらいにしか思われなかった。

 ここが話に聞いた店だろうか。知らされた特徴とは合致していたが、街の独特な空気がそうさせるのか、それとも自分の心持ちのせいか、どうにも不安が拭い去れない。扉を開けることをためらうほどには。

 よく見れば、扉の両側には窓があった。黒い鉄格子が嵌められた、妙に厳めしい窓だ。

 しかし、分厚いガラスのせいか、単に薄汚れているだけか、やはり室内を覗き見ることはできない。ただ、わずかに揺れる光の存在が――ランプか何かだろうか――その向こうに感じられた。

 ぐるりと巡らされた壁は、余所者の自分を追い立てるように無言で威圧感を与えている。とはいえ、ここまで来てまごついていても仕方がない。私は意を決して、その扉へと向かった。

 荷物を抱えていたので、苦心しながら肩で扉を押し開ける。軋む蝶番の音と共に、高く澄んだ音を立ててドアベルが鳴った。

「いらっしゃい」

 どこからか聞こえてきたのは落ち着いたアルトの声。しかし、声の主が姿を見せる気配はない。

 店の中は雑多な物であふれていた。テーブルやイス、キャビネットなどの調度品。絵画に人形、彫刻といった室内装飾品インテリア。その他にも細々とした品が無秩序に置かれている。ただ、そのどれもが時を経ていることがひと目でわかるような、そんな古めかしい物ばかりだった。

 しかし、それは当然のことだろう。なぜなら、ここはアンティークショップなのだから。

 食器やグラスが並べられた棚を恐る恐る通り過ぎ、下げられた照明やら籠やらの間をかい潜る。そうして進んで行くと、その奥にようやく人の姿を見つけた。

 洋書で埋もれているカウンターの向こうにいたのは、年の頃二十代後半くらいの女性。詰襟と長袖の黒いワンピースに、長い髪を引っ詰めて後ろでまとめている。

 声の主は彼女だろうか。客が来てもにこりともしない、何とも愛想のない店員――いや、聞いた話が確かなら、彼女こそがこの店の主なのだろう。

 店主は訪れた客にちらりと視線をくれただけで、すぐにその目を手元に戻した。単眼鏡を片手に何か――アクセサリーだろうか――をためつすがめつしている。話に聞いていたとおり、容易ではない相手のようだ。

 私は深く息を吸うと、こう切り出した。

「買い取って欲しい物があるのだけれど」

 そう言って、私は抱えていたダンボール箱を差し出す。

 しかし、店主の表情は全く変わらなかった。ただ、その手に持っていたアクセサリーをカウンターの上へ静かに置くと、背筋を伸ばして真っ直ぐにこちらを見据えてくる。

 鋭い視線と無言の圧力にたじろいで、私が思わず箱を引き寄せると、女はようやくその口を開いた。

「私は回顧メモリーにも感傷センチメンタルにも逸話エピソードにも興味はない。そういったものによって、その物の価値以上に特別な価値を付与することはできない。それを了承した上でなら、その物に見合った価格で買い取ろう」

 その回答に、私は思わず面食らう。

 客に対する言葉としては、彼女の言い分はいささか冷淡ではないだろうか。商売なのだから、たとえ嘘でも、もう少し愛想よく振るまうべきだろう。

 とはいえ、相手がそうであるなら、こちらも遠慮はしない。自嘲めいた笑みを浮かべて、私はこう問い返した。

「メモリーにセンチメンタルに……エピソード、ね。じゃあ、呪いカースには?」

 そこで初めて、店主はわずかばかり表情を変えた。興味を示したのか、それとも呆れたのか――その小さな変化からは何もわからない。

 店主は目の前に差し出された箱を見やってから、あらためて私の顔を見返す。そして、少し不機嫌そうにため息をついた。

「アンティークは文化カルチャーそのもの。呪いは文化だ。その物が本当にそれを有しているというのなら――それに見合った価格で買い取ろう」

 それが彼女の答えだった。






 私がその店を訪れることになった、きっかけのできごと――となると、昨年まで時を遡ることになる。

 秋も深まった頃のことだ。地方紙にとある記事が掲載された。おそらくほとんどの人が大した関心を払わないだろうそれは、老女の孤独な死を報じたものだった。

 遺体は民生委員によって発見されており、そこから警察に通報されたものらしい。死後かなり経っていたようで、当初は事件性も考慮され捜査は長引いた。そのため、近所では不審な点があったのではないかと噂されたようだ。しかし――

 結局のところ、老女の死はただの孤独死として処理された。地方紙には続報が載ることもなく、葬儀が行われたという話もない。そうして、その小さな事件は人々の記憶から忘れ去られていった。取るに足らないできごととして。

 私がそれを知ったのはその記事が掲載されてからで、自分のタイミングの悪さに辟易したことをよく覚えている。というのも、その亡くなった老女は、私が目をつけていた老人のひとりだったからだ。

 身寄りもなく交遊関係もほぼない――先のないひとりの老女。そんな相手に目をつけていた、などと不穏に思われても仕方ないが、これには理由がある。

 私はその頃、小さな出版社で勤めていた。あまり名も知られていない専門雑誌などを細々と扱っているようなところだったが――そんな中、私はライターとして雑誌のコラムを担当することになる。これが存外好評を得た。

 それを受けて持ち上がったのが、コラムの内容を元に一冊の本にしないかという話だ。願ってもないことだったので、私は一も二もなく引き受けた。そのコラムの主題テーマこそが「孤独死」だ。

 せっかく本になるのだからと、私は追加で取材を行うことにした。私はそこで、本の内容を充実させるために、現在進行形で孤独を生きる人物に直接話を聞くことを目論む。

 そういった経緯もあって、私は噂で知ったその老女に、是非とも会いたいと働きかけようとしていたのだが――彼女の死はその矢先のことだった。

 ひとり住まいの老人など、今どき探せばいくらでも見つかる。そういう意味では代わりはいた。しかし、その老女に限っては彼女でなければならなかった事情がある。

 それは、彼女の住まいが、近所でも評判の――いわゆるゴミ屋敷だったからだ。

 そういった要素は話題性もあったし、それでいて今のところ他が取材をしたという話も聞かない。コラムにも無い要素だったので、そのときはまさしくおあつらえ向きだと判断したのだった。

 とはいえ、それも彼女が亡くなった今となっては叶わない願いとなってしまった。タイミングが悪かった、というより他ないだろう。しかし――

 どうしても未練があって、私はその後も周囲をそれとなく調べていた。調べるといっても大したことはできないのだが、これもネタのひとつにはなるだろう、くらいの感覚だ。

 その一環として、私は噂のゴミ屋敷にも訪れている。それも、遠くから見るだけのつもりだったのだが――

 それが自分の考えていたものと違っていたことは、ひと目見てすぐにわかった。

 私はおそらく、ゴミ屋敷という言葉から目を背けたくなるような光景を勝手に想像していたのだろう。しかし、そこには悪臭を放つゴミも、顔をしかめるような汚物も、そんなものは一切なかった。

 不要な物をゴミと称するなら、それは確かにゴミだっただろう。ひとり暮らしの老女に、それは明らかに不要な物だったから。しかし、そのひとつひとつに目を向けてみると、それら全てをゴミと切り捨ててしまうことに、私は確かに抵抗を感じた。

 なぜなら――その古びた一軒家をゴミ屋敷たらしめていたのは、たくさんの古道具だったからだ。

 室内からあふれて、それでもきちんと並べられていたそれらは、ひとつひとつがちゃんと名前を認識できる道具だった。間違っても、ゴミと聞いて思い浮かべるようなそれではない。

 箪笥や食器、竹籠のような生活の品もあれば、箕や鍬など農具のような物もある。よくわからないが、それでもゴミとは言い切れないレトロな看板や何かの部品。一部には古美術か――とにかく、骨董品としての価値が認められるのではないだろうか、と思える物もあった。

 そして、それらは敷地内にきっちりと収められ、整然と並んでいる。周囲の土地を侵すこともなく。

 この品揃えからして、老女がここで実は商いをしていたのだと言われても、私は驚かなかっただろう。街を歩いていると、こういう古道具の店にたまに出くわすことがある気がする。それに近かった。

 確かに雑多な物が集められていたので無秩序に置かれている感はある。しかし、それでもそのゴミ――いや、古道具が雑に扱われているといった印象はなかった。ただ、遠目で見ても、そこに物が山と積まれていることはわかったので、それがゴミ屋敷の印象を生み出したのかもしれない。

 何かセンセーショナルなものを期待していた身としては、少し当てが外れた気がした。しかし、主亡き住みかにひっそりとある古道具には、妙に惹かれるものがあったことも確かだ。

 そのときの私は、その流れで近所の人たちに話を聞くことすらした。いまさら聞いたところでその内容を表に出すことはないのだが、どうにも好奇心が刺激されてしまったらしい。これくらいの図太さがなければ、孤独死を主題とした本のために、身寄りのない老人への取材を試みたりはしないだろう。

 軽く話を聞く限りでは、老女の評判は決して悪くはなかった。周囲との軋轢もなく、穏やかで優しい人物だったようだ。ただ、よくわからない物をどこかから拾ってくることはよく知られた話で、それでも迷惑をかけるほどのことではなかったから、ただの奇行として概ね受け入れられていた。

 ただ、残された古道具については、今後のことを危惧する声もあるにはある。今はよくても、放置されていれば、そのうち朽ちて、虫でも湧いてくるかもしれない――一部ではそんな風に心配されていた。しかし、そう言った者でさえ、それはどこか他人事で、差し迫った問題だと考えていたわけではないだろう。

 ひととおり話を聞き終えた私は、その場を去る前に、もう一度その家を遠目に眺めた。

 一軒家は老女がひとりで住むには大きすぎたのかもしれない。その隙間を埋めるように、たくさんの道具は並べられている。

 彼女がこれらを集めた理由は何だったのだろう。なぐさめか。執着か。それとも――

 もっと早く、彼女のことを知りたかった。できることなら、直接会って話が聞きたかった。

 古い道具たちを目にしながら、私はそんなことを思う。コラムや本のためではない。私は純粋に、彼女に会えなかったことを悔いていた。

 季節は冬へと向かう晩秋。からからに枯れた落ち葉が冷たい風に吹かれて足元にまとわりついてくる。もう叶わない願いに諦めがつくまで、私は物言わぬ古道具たちが住むその家に、じっと目を向けていた。



「そんなわけで――考えてたものとは違ってたけど。行ってよかったと思う。インスピレーションというか、何というか……まだぼんやりしているけど、着想は得られたし」

 マンションの自室に帰ってから、私はそのゴミ屋敷のことを同居人に話した。

 普段は同僚以外に仕事の話などしない。しかし、これに関しては仕事というより趣味の領域に近かったし、そうでなくとも、そのときの私は妙に気分が高揚していた――あるいは、感傷的だったのか――とにかく私はいつもより饒舌だった。

 そんな私を見て、彼女は苦笑いを浮かべながらこう言った。

「それでも、その死んだおばあさんのことは、本には書かないんでしょう?」

 続けて、物好きめ――と呟きながら、彼女は発泡酒の缶に口をつけた。そんな風に称されてしまっては、私も返す言葉がない。

 黙り込んでしまった私に向かって、彼女は呆れたようにこう続けた。

「何にせよ、そんな話を聞かされると、どうも気分が落ち込むね。独り暮らしの老人の人生の終わりなんて。自分の行く末が偲ばれて、とてもじゃないけど心穏やかにはいられないよ」

「何言ってんの。千鳥ちどり。老後の心配をするには、まだ早いでしょ」

 私とたいして年の変わらないはずの同居人――淡島あわしま千鳥ちどりのその言葉に、私は思わず苦笑した。

 同じ世代で同性の同居人。彼女の存在は、私にとってそれ以上でも以下でもない。他人にその関係を説明するときに、私は彼女のことを、おそらく友人とすら呼ばないだろう。せいぜい知人がいいところ――相手とはそんな関係だった。

 知り合ったのは、仕事がきっかけ、だっただろうか。そのとき軽く話をして、意気投合とまではいかなくとも何となく馬が合ったので、プライベートでも会うようになった。それが始まりだ。

 その時期、私と千鳥はちょうど同じく新しい住まいを探しているところで、情報を交換し合っているうちに――どちらが言い出したのか記憶は定かではないが、おそらく彼女からだったと思う――部屋をシェアしないか、という話になった。

 何もずっと一緒に暮らすというわけではない。せめて少しはお金が貯められるか、あるいは、よりよい環境が見つかるまで。そんな話だった。考えた末に、私はそれを了承する。

 千鳥との共同生活は平穏そのものだった。彼女にはルーズなところもなく、むしろ家事などは率先して手伝ってくれたのでこちらが助かったくらいだ。家賃や光熱費などもきっちりしていて、お互いに貸し借りなども一切ない。

 ただ、気になる点があるとすれば――出会ってからの一年間で、千鳥が三度も転職したことくらいだろうか。そのせいで、彼女がそのとき何の職だったか、私の認識はおぼろげだ。ネイリストだかスタイリストだか――ようするに、そういうたぐいの職業だったと思う。

 そちらの業界にはさほど詳しくなかったので、そこまで職を転々とすることが普通なのか、そうでなくともよくあることなのか、私にはわからない。だからこそ、あえて深くは突っ込まずにいた。彼女はあくまでも、ただの同居人だったから。

 プライベートに関してはお互いに詮索しないという暗黙の了解があった。千鳥は無断で何日か外泊することがよくあったが、私も仕事で忙しいときは職場かその近くに泊まることもあったので、特に心配した覚えはない。せめてひとこと欲しいと思ったことはないでもないが――半年もすれば慣れて気にならなくなっていた。

 とにかく、千鳥は同居人としては都合のいい相手だった。必要以上になれ合わない、束の間の旅の道連れ。べたべたしたつき合いが苦手だった私には彼女との距離感が合っていたのだろう。

 そうして時折、お互いに余暇ができたときにだけ、千鳥の手料理と私が提供する安酒を囲んで、私たちはたわいもない愚痴の言い合いや世間話をした。ゴミ屋敷は、そんな時間に出た話題のひとつだ。

 独り身の女たちが孤独死の老女について噂するなど、後から考えると、決して趣味のいいものではなかったかもしれない。行く末が偲ばれる、という彼女の言葉からは、何か不吉な予感がしないでもなかった。

 しかし、そのときの私は、こんな日々がもう少し続くと思っていた。その後、彼女が持ち込む物に、とんでもない災厄を背負わされることも知らずに。




 それは、私がゴミ屋敷を訪問し、千鳥とその話をした数日後のことだった。

「行ってきたよ」

 部屋に帰ってくるなり、千鳥はそう言いながら抱えていたダンボール箱を下ろした。

 行ってきた――どこに?

 突然のことに何の反応もできず、私はその箱を前にして固まった。頭がぼんやりとしていたのは、今日は仕事が休みで、昼まで寝ていた上の起き抜けだったせいもある。そんな中、降って湧いたできごとに、私はうまく対応できずにいた。

 まっさらな思考の波に、ぽっかりと疑問だけが浮かび上がる。

 それで、この箱はいったい――何だ?

 どこからともなく千鳥が持ち込んで来たそれは、みかん箱くらいのダンボール箱だった。表面に何かが書かれているわけでもなく、封はされていないが、軽く閉じられているせいで中をうかがい知ることもできない。ただ、彼女の動作からそれなりの重さがあることはわかった。

 いつにない彼女の行動に、その意図が全く読めない私はただ戸惑う。頭の中ではいくつか尋ねたいことが浮かんでいるはずなのだが、それがどうにも言葉にならない。

 仕方がないので、私は何とも言い難い顔で千鳥を見返した。そんな私に、彼女はなぜか得意げな表情を浮かべてみせる。

 そのうち千鳥はダンボール箱の上部を開き、何も言わずに中を指し示した。その目で見てみろ、ということだろうか。私は気乗りしないながらも、それを覗き込んだ――

 そのときの私は、それが何か無害なもの――例えば、千鳥の郷里から野菜のたぐいが送られてきたとか、そういったものであればいいと思っていた。ただし、今までそんなことは一度たりともなかったのだが。

 その考えは、本当にそれを期待していた、というよりは、どうか嫌な予感が当たっていませんように、という祈りに近かったかもしれない。しかして――

 ダンボール箱の中にあったのは、いかにも古びている風のさまざまな道具だった。

 陶製の壷に螺鈿の盃、あるいは金属製の彫刻か何か。それから、ノートが何冊かと、いくつかのこまごまとした物。その中でもひときわ目を引いたのは、埃で薄汚れてはいるが妙に存在感があるブルネットの西洋人形だ。

 私が呆然と中身を眺めていると、不意に千鳥が箱の中へと手を伸ばした。

「いい物あったよ。これなんか、どう? 珍しい物なんじゃない?」

 千鳥は木製の箱のような物を取り出して、それを開けようとした――が、どうやら開かなかったらしい。早々にそれを手放して、次に彼女が取り出したのは、くたびれたノートの束だった。

「それから――これ。興味あるでしょ」

 千鳥はそれを、まるで私に押しつけるように差し出した。そんな得体の知れない物、本当は手にするのも嫌だったのだが――胸先まで突きつけられて、私はそれを受け取ってしまう。

 ずいぶんと使い込まれているようだが、それは見た目もごく普通の古びたノートだった。しかし、なぜノートなのだろう。他と比べてもこれだけが異様に思える。誰かが使ったらしいノート。いったい誰の物だというのか。

「それで、どうしたの? これ……」

 ようやく口をついて出た問いかけに、千鳥はとんでもない答えを返した。

「例のゴミ屋敷に行ってきた。そこから。高く売れないかな、と思って」

 そのひとことで、私は頭の中が真っ白になる。

「行ってきたって……そこから持って来たの? これを?」

 呆然とする私に、千鳥は何でもないことのように答えた。

「身寄りないんでしょ。大丈夫大丈夫。あれだけあるんだし、少しくらいどうってことないって」

 つまりは無断で持ち出してきたのか。あの家に侵入して。

 その事実が理解できてくるにつれ、私の中に言い様のない不快感が広がっていった。なぜ、そんなことを――いや、本人がはっきりと言っている。高く売れると思ったから。それが理由。しかし。

 ――そんなことのために?

 それはただの泥棒だ。私は愕然とした。しかし、それをどう表に出せばいいのかわからない。叱る? 怒る? 怒って――どうする? こんな、明らかな犯罪を何とも思っていないような相手に。

 一年ほど共に生活したにもかかわらず、私は千鳥がこんなことをする人間だとは知らなかった。今まで隠していたのか、それとも、たまたまそんな場面がなかっただけか。とにかく、私の中には怒りと失望と――そんな、あらゆる負の感情が渦巻いて、この場で自分がどうするべきかを決められずにいた。

 千鳥の言動をここまで不快に思ったことは初めてだ。それでも彼女は――私にとって都合のいい同居人だった。そう思って、私はその感情を一度は見逃そうと努める。しかし――

 無理だった。倫理観が合わない。こんなことを平然とする人間とは一緒にいられない。

 このときにはもう、私は千鳥との生活を終わらせることを決意していた。とはいえ、すぐにでもと考えたわけではない。せめて本が出せた後――いや、新しい住まいの目処が立ってから――怒りのような感情の傍らで、私はそんな冷静な判断を下していた。

 私は受け取ったノートを無言で見下ろす。そして、何気なくページをめくった。

 彼女の言い分はともかくとして、やはり押しつけられたノートのことは気になる。これだけは、彼女の言う、高く売れるような品にはどうしても見えなかったからだ。

 そのことが純粋に気になった。ということもあるが、おそらく私は彼女の行為から目を逸らしたかったのだろう。これを千鳥に返すとしても、何が書かれているかを確かめてからでもいい。そう思ったのだが――

 ノートを開いてみてすぐ、私はそれが容易ではないことに気づいた。

 紙面にぎっしりと文字が書かれていたからだ。判別できないほどではないが独特な文字で、視認するのには慣れが必要だろう。そんな文字が、神経質に思えるほど間を詰めて書かれている。これでは、何が書かれているかを把握するにも一苦労だ。

 とりあえず短い文章を選んで、いくつか読んでみる。


 ――✕年✕月✕日

 テレビの調子が悪い。

 ぶつぶつと何か別の絵と音が入り込む。


 ――✕年✕月✕日

 紫ちりめんの着物

 菊の模様がある。

 少し燃えて焦げたような跡がある。


 台所から異臭がする。

 水道からだろうか。

 よくわからない。

 ただどことなく獣くさい。


 ページに目を通していくうちに、私の心音は徐々に早くなっていった。この内容は、もしかして亡くなった老女が書いた日記ではないだろうか。

 彼女の心情を知ることは、もはや不可能だと思っていた。事実、不可能のはずだった。しかし、この日記があれば、それがわかるかもしれない。その一端を、知ることができるかもしれない――

 ふと視線を感じた気がして、私は顔を上げた。すると、私の反応をじっと眺めていたらしい千鳥と目が合う。

 そのとき、私はようやく気づいた。おそらく千鳥は、私がこれに執心することを見越して持ち出してきたのだろう。それは単なる親切心か、それとも私を共犯にして巻き込むためか。

 そこまで考えが及んでも、私はその日記を手放すことができないでいた。個人の日記など――それも、遺族のひとりもいない故人の物だ――何の価値もないだろう。持ってきたところで、誰も困らない。

 そんなことを、心の中で言い訳する。しかし、同時に私は、千鳥の術中にはまっていることを自覚していた。自覚していながら、引き返すことができなかった。

 私は千鳥のことを無視して、日記をぱらぱらと読み流す。とにかく、書かれている内容を大まかにでも確認しておきたかった。

 日記は普通のノートを利用して書かれており、手書きの線によって一日ごとに区切られているようだ。始めに必ず日付が書き込まれていて、毎日ではないが、その続きに物の名前が書かれていることがある。その後には、それに関しての詳細と思われる文章が続いていた。

 ――拾ってきた物を、記録しているのか。

 古道具やら古美術やら、たくさんの物に埋もれていたあの家のことを思い出す。どうやら彼女は無節操にあれらを集めていたわけではないらしい。

 日記には拾った物が記録されている他に、その日のできごとも記されていた。電気ストーブが壊れたとか、誰それに会ったとか――本当に簡単なメモだ。

 集中して、いくつかのページを読んでみる。


 ――近所の人にししゅうをほめられた。

 孫の分も欲しいというので引き受ける。

 やえさんには安うけ合いするなとしかられた。


 ――お礼によいものをもらった。

 ずいぶん上等なたけのこだ。

 安うけ合いもたまにはいいと思う。


 ――捨てたはずの人形が戻って来ている。

 確かにゴミ捨て場に置いたはずなのに。

 いつもあった場所に戻っている。


 え、と思って、私はその文章をくり返し読んだ。戻って来ている、とはどういうことだろう。捨てたはずの人形?

 私は思わずダンボール箱の方を見た。あの中には、西洋人形が一体、入っていたはず――

 目を向けた先では、千鳥が箱の中をかき回しているところだった。あらためて中身を確かめているのか、中にある物を取り出しては、それをひとつひとつ眺めているようだ。

 私に見られていることに気づく様子はない。期待どおりの反応を示さなかったせいか、彼女は私への興味を失ってしまったらしい。

 千鳥に声をかけることをためらって、私は日記の内容へと戻っていった。他にも人形について書かれていないかと、過去へ日付を遡る。


 ――✕年✕月✕日

 西洋人形

 濃い茶色の波打つ髪に同じ色の目の色。

 ベルベット風の茶色いドレス。

 仏間に置く。


 人形に関する記述を見つけた。

 ダンボール箱の中で見た人形の姿を、できる限り頭の中で思い描いてみる。まじまじと見たわけではないので確かなことは言えないが、ここに書かれている内容と似ている気がした。もう一度見て、確認したいところだが――

 その前に、それ以外にも何か書かれていないか探すことにする。


 ――人形が動いている気がする。

 仏間に置いてある西洋人形だ。

 たんすの上の花びんの横にあったはず。

 でも、気づくと位置が変わっていた。


 ――やはり動いている。

 ためしに結びつけたリボンが外れていた。

 何もしないでそうなるはずがない。


 どういうことだろう。知らない間に、人形の位置が変わっている。人形がひとりでに動いたとでもいうのだろうか。

 そんなことはあり得ない。彼女の勘違いだろう。たとえば、同居人が勝手に動かしたとか。

 いや、違う。彼女はひとり暮らしだったはず――

 しかし、日記には、やえさん、という名前があった。友人だろうか。あるいは、老人を支援しているような人が通っていたのかもしれない。

 だが、少なくともその人物は人形を動かしてはいないようだ。


 ――人形を手放すことにした。

 動く理由はやえさんにもわからない。

 危険な物なのだろうか。

 かわいらしいと思っていたが仕方がない。


 ――人形はどうして戻ってきたのか。

 わからないので茶の間に移した。

 やえさんに見ていてもらうことにする。


 おかしなことは、人形の位置が変わることだけ。しかし、それだけでも十分不気味だろう。そして、彼女は人形を捨てた――はずなのだが、それは戻ってきたのだ。彼女の元へ。

 私は大きく息をはきながら、日記から目を離した。

 折しもそのとき、千鳥がその西洋人形を手にしていたところで――彼女は丁寧に、その髪を手櫛ですいている――その特徴は、やはり書かれている内容と一致していた。

 私は人形が苦手だ。人に似せて作られた、人ではない物。どうしても、私はそこに魂のようなものを幻視してしまう。何か得体の知れないものと対峙している気にさせられるので、正視することすらなるべく避けたいくらいだった。

 しかも、普通の人形ですらそうなのに、この人形は人知れず動き出し、捨てても戻って来るという。なぜ、よりによってそんな物を――

「その人形。少し不気味じゃない?」

 私は思わず、千鳥に向かってそう言った。

「え? かわいいでしょ。作りもよさそうだし」

 千鳥はそう答えると、人形の頭を慈しむように優しく撫でた。どうやら、彼女には人形に対する苦手意識はないようだ。むしろその表情を見る限り、こういう物が好きそうにも見える。

 とはいえ、千鳥がそんな反応をするのも、それが奇妙なことを起こす人形だとは知らないせいだろう。私はノートを差し出すと、該当の記述を読むように促した。

「――ほら」

 千鳥は人形を抱きしめたまま、日記の内容に目を向ける。何か所か読んで、それが確かにここにある人形のことだと確かめると、彼女は楽しそうにこう言った。

「へえ。おもしろいね。呪いの人形みたい。悪魔に憑かれてるやつ」

「何それ」

 思わぬ反応に、私は怪訝な顔をする。しかし、千鳥の方はいつもと変わらぬ調子でこう言った。

「有名なオカルトだよ。よくテレビの心霊特集とかでやってた。映画にもなっているよ。見たことはないけど」

 有名なオカルト? 確かに動く人形なんて、怪談にはありがちな気がする。

「人形のことを悪く言うと、首を絞められたり、事故が起こったりするんだって」

 何でもないことのように、彼女はそう続けた。私はその人形を――今しがた、不気味と称したばかりなのだが。

「でも、あれは何というか、もっと、こう――ぬいぐるみって感じの造形だったような。映画は違うらしいけどね」

 彼女の話を聞く傍らで、私はひとり混乱していた。

 千鳥が話しているのは映画の話か、それとも有名だというオカルトの方か。私は目の前の西洋人形について話していたつもりだったのだが――

 私はもう一度、日記にある記述を読み直した。呪いの人形。そんなことは書いていない。捨てても戻ってくるだけだ。首を絞めたりもしていない。

 捨てた物が戻ってくるだけでも、あり得ないことなのだが――

 私の様子がおかしいと見て、千鳥はこう問いかけた。

「何? そういうの、気にする方だった?」

「だって、書いてあるじゃない」

 私が食い気味にそう返すと、千鳥は軽く目を見開いた。そして、からかうような笑みを浮かべる。

「あ。本当に怖いんだ。意外」

 私はどうやら、よほど恐ろしい形相をしていたらしい。千鳥はぎょっとした顔をすると、慌てたように目を逸らした。私はむっとして押し黙る。

 確かに、私はオカルトのたぐいが苦手だった。できればそんな話、一切耳に入れたくない。

 しばらくは、お互いに気まずい沈黙が続いた。私はノートを見るともなしに見て、千鳥は人形の衣服をやけに丁寧に整えている。

 そのうち、千鳥は大きくため息をつくと、諦めたようにこう言った。

「いいよ。これだけ先に処分してくる」

 処分してくる――その言葉からすると、元の場所に戻す気はないらしい。私はもう、その件について意見することを諦めていた。というより、関わり合いになりたくなかった。日記を受け取っておいて、そんなことを思うのもおかしいかもしれないが。

 だから当然、人形を処分する方法についても、問いただすようなことはしなかった。どこかに売り払うつもりでそう言ったのかもしれない。高く売れると思って持ってきたのなら、そういうことだろう。

 私はあらためてノートへと目を向ける。それが日記だとわかったときには思わず高揚したが、今はその気持ちも萎んでいた。

 亡き人の思いを知りたいと思った。彼女がひとりで暮らしながら、何を思っていたか。しかし――

 確かに、これがあれば、知りたかったことを知ることはできるかもしれない。ただ、人形に関する奇妙な記述が、私の心に暗い影を落とし、これ以上彼女の人生を追うことをためらわせた。

 そうでなくとも、これは無断で持ち出された物だ。私はそれを、好奇心で受け取ってしまった。今さらながら、それが大きな後悔となって自分の心に重くのしかかっていた。




 その日、家路についたのは、そろそろ日付も変わろうかという時間だった。

 ほとんど人の通らない、ぽつぽつと街灯の点る道を歩いていく。しんとした夜道をぼんやりと眺めながら、私はここ最近の憂鬱について考えを巡らせていた。

 例の日記は、結局まだほとんど読めていない。読まないならいっそのこと、これだけでも返しに行くべきかもしれない――と考えはするのだが、行動に移せずにいた。あるいは、手にしたからには読んで何かしらに活かすべき――とでも開き直ればよかったのかもしれないが、それもできないでいる。

 迷いがある、ということも要因のひとつだろう。しかし、それに加えて、どうしても読むことを乗り気にさせない要素が、あの日記にはあったからだ。

 何か所か読んでわかったことだが、老女の元でおかしな現象を起こした物は、どうやらあの人形に限らなかったらしい。その記述がどうにも不気味で、私は彼女の気持ちを汲むどころではなくなっていた――ようするに、怖かったのだ。

 日記にあった不可解な描写を思い出す。いるはずのない人影だの、押し入れから伸びる血塗れの手だの。日常の記録だと思って読んでいたら、たまにそういう記述に出くわした。

 思い出してしまって、ぞっとする。どうして、こういうことが苦手なのに、ふとしたときに思い出したりするのだろう。苦手だからこそ、だろうか。

 しかも、あの家から持ち出された日記帳以外の物については、そのほとんどがまだ千鳥の手元にあるようだった。とにかく、日記に書いてあるようなおかしな現象を引き起こす物が、ダンボール箱の中にないことを祈るばかりだ。

 ただ、あの西洋人形については宣言どおり、本当にすぐ処分したものらしい。少なくとも、私はあれ以来それを見てはいない。千鳥が隠し持っていればわからないが、そこまでして手元に置くほどの執着があったわけでもないだろう。そもそもが、高く売れると思って持ち出したはずなのだから。

 とはいえ、それなら他の物を売却しない理由がよくわからないが――もしかしたら、千鳥は盗んできた物を売ることに苦戦しているのかもしれなかった。あれ以来、それらについて私と千鳥が話をすることはなかったが、どうも彼女の思うようにはいかなかったらしい。私がたまたま聞いた――当てが外れた、という千鳥の呟きが、全てを物語っているのだろう。

 正直言って、それについてはほっとしていた。もしもあれらが高く売れてしまえば、千鳥は再びあの家に行くかもしれないと思っていたからだ。そして、また盗んでくるかもしれない。何か、いわくつきの奇妙な品を――

 それから、怪奇現象とは別に、日記帳にはもうひとつ気がかりな点がある。やえさん、という人物についてだ。

 日記を読んでいると、その名を何度も目にすることになった。すべてに目を通したわけではないが、それでも少なくない数の言及がある。しかも、どうやらそのやえさんは、日々起こる怪奇現象に対して、老女に助言を行っていたらしいのだ。

 何者だろう。霊能者のたぐいだろうか。これだけ交流があったなら、あの家の近所に住んでいたのかもしれないが――

 何にせよ、あの日記帳については、もう少し身を入れて読み進めるべきなのだろう。考え込んでいるうちに、私はそう思い直し始めていた。

 もしかしたら、千鳥の持ち出した物の中には、人形の他にも何かしら怪奇現象を起こす物があるのかもしれない。何よりもそれが気がかりだ。それを確認するには、日記帳を読むのが手っ取り早いのだろう。

 ただ、日記帳に関しては、どうやら千鳥が持ってきた物が全てではないようだった。抜けている日付があるし、亡くなる前の数か月の記述も見当たらない。別の場所に保管してあったのだろうか。

 謎の人物の名と、欠けた日記帳。

 考えれば考えるほど、気になることは増えていく。ともあれ、まずは手元にある日記帳だろう。あれに目を通すことから始めなければならない。

 マンションにたどり着き、私はうら寂しい廊下を歩いてから、自室の扉の前に立った。いつものように鍵を開けようとして――そこで初めて鍵がかかっていないことに気づく。

 千鳥が鍵をかけ忘れたのだろうか。珍しい。そう思いながら扉を開けて、一歩踏み出した途端、異常な臭気に思わず立ち止まった。

 何だ。この匂いは。

 顔をしかめて、手で鼻をおおった。いつもとは違う状況に、私は無意識のうちに部屋に入ることをためらう。

 とはいえ、こんなところで立ち尽くしてもいられない。私は意を決して中に入ると、その先の廊下を進んだ。

 突き当たりの扉を開けて、覗き込んだ先にあるのは居間。そこにいたのは、仰向けに倒れた淡島千鳥だった。

 少し後ろに反るような体勢で、彼女は無防備に喉を晒している。そして、その喉には、切り裂かれたような傷があった。

 何か鋭い刃物で切られ、抉られたような、ぱっくりと開いた傷口が。そこからは、肉と――肉でいいのだろうか――白いもの――骨か――が覗いていて、そこを中心にして周囲の床に、壁に、天井に、赤黒い血が飛び散っていた。

 肌は驚くほど白く、いや、もはや灰色にくすんでいて、生気を失っている――しかし、それも当然だろう。そこにあったのは、どう見ても屍だった。

 間違いなく彼女は死んでいる。それも、何者かに殺されて。

 どうしよう。どうすればいい。人の形をした、人ではないもの。嫌だ。見たくない。あれにはもう、魂などない――

 なじみのあるはずの居間は血塗れで、そこに同居人の死体があり、部屋は耐え難い匂いで満ちている。そして、もう動かないその屍の傍らには――

 そのときの私は、どうするべきだとか、こうしなければいけないだとか、そんなことは一切考えなかった。ただ衝動に従って部屋を出る。マンションの廊下を走って階段を下り、そして近くの交番へとかけ込んだ。

 私はひどく狼狽していたらしい。そこにいた警察官がやけに驚いた顔をしていたことを、なぜか鮮明に覚えている。

 交番にいた警察官は、私から辛抱強く話を聞き出そうとした。しかし、そのときの私は、まともな受け答えすらできなくなっていた。

 それも仕方がないだろう。私は恐怖のあまり、ひどく混乱していた。なぜなら――

 千鳥が死んでいた、その場所には人形が――処分したはずの西洋人形があったのだから。

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