友愛ロマンティック
藤咲 沙久
シアターの隅で
それはとても古い映画だった。期間限定の再上映に足を運んだのも、青春時代を懐かしむ世代がほとんどだ。彼らはかつて劇場で胸を焦がし、スクリーンを真似て愛を囁き合った思い出を共有していた。エンドロールの後はもちろん笑顔、笑顔、笑顔。
「まさかもう一度映画館で観られるなんて」
「家で観るのとはまた違うよなぁ」
「私ったらラストシーンを忘れてたわ」
時を超え、肩を並べ、わずか二時間の魔法に掛かる。そんなシンデレラよりも短い奇跡に誰もが満足したのだった。
人々は感動のままに立ち上がっていったが、座席に一組の男女が取り残されていた。いや、一組と言うには語弊がある。「偶然最後列で鑑賞しただけの男女」だ。二人はやはり同じ年頃に見えた。
「……素晴らしかったですね」
不意に女が口を開いた。どうやら少しほうけていたらしい男はハッとし、ようやく自分達しか居ないことに気づいたようだ。ならば今の言葉は誰に向けられたのか。念のために周りを見渡せば、空席をひとつ挟んだ左側に声の主が座っていた。男はそうっと頷いた。
「ええ、本当に」
「ふふ。明かりがついても動かないの、私達だけだったものですから。ついお声掛けしてしまいましたの」
「構いませんよ。僕もようやく、この作品をきちんと観ることが出来たなと思ってしんみりしていたんです。若い頃は緊張して、映画どころではなかったもので」
「あら、可愛らしいこと。貴方も昔デートで来られたのね。もしかして奥様かしら?」
ふふ、と女が口元に左手を当てる。その仕草も、萌黄色のワンピースも、自然な色合いのショートヘアさえも、すべてが上品な人だった。彼女の薬指には、男と同じく銀の指輪が輝いていた。
「残念ながら、家内は映画に関心がなくてね。結婚前の話なんですよ。それに……デートだなんて格好のいいものでもありません。当時片想いしていた女の子を、ただ一度だけ誘えたのがこの作品でした」
「まあ……甘酸っぱい思い出でしたのね」
女がさらに言葉を続けようとしたが、それは劇場内の確認にやってきたスタッフに遮られた。
「あ、すみませーん。次の上映もありますので、外に出て頂けますか?」
「あらあら、ごめんなさい。ええ、すぐに、ええ」
退場の依頼を恥ずかしく思ったのか、ほんのりと頬を染め、女は慌てて立ち上がった。そのままローヒールを控えめに鳴らして階段を降りていく。穏やかな会話が急に終わってしまったのを寂しく感じながら男も膝を伸ばした。ジャケットを整える姿は、年代の割に高い身長も相まって、いたくスマートであった。
ふと、つい先程まで埋まっていた二つ隣の席が目に入る。一枚のハンカチが残されていた。レースをあしらった繊細なデザインだ。きっとあの人の忘れ物だろうと、男は丁寧に拾い上げた。
(不思議と、懐かしい気持ちになる人だった)
柔らかく刻まれた皺はむしろ魅力的で、それでいて少女のように微笑む可愛らしい女性。彼女のことを心の中で“マダム”と名付け、男は小さな背中を探して歩き出した。若かったあの頃、想いを寄せた乙女が好んでいたのと同じ萌黄色を、探した。
映画館は小さなショッピングモールの中にあった。人混みや店内に紛れてしまっては見つけることが難しい。グレーの襟足を撫でながら辺りを見渡すと、ひらり、覚えのあるワンピースがフロア内の喫茶店へ消えて行くのに気づいた。
「あの……」
呼び掛けはまったく間に合わず、すでに閉まった扉で跳ね返るだけだった。仕方なく中に入ると「いらっしゃいませ」という挨拶に恐縮してしまう。なんと答えたものかと男は困った。
「中に……知人が、おりまして」
「お連れ様ですね、かしこまりました」
すぐに出ますとも言えず、下手な言い訳をした。むしろ首を絞めたように思いながらマダムのもとへ近づいていく。彼女も男の顔を覚えていたのか、あら! と驚いた声をあげた。
「先程はご挨拶もせずごめんなさいね。スタッフの方へご迷惑をお掛けしたと思うと慌ててしまって……」
「こちらこそ、引き留めてしまったようで申し訳なかったです」
「貴方は悪くないもの。きっと私、本来の性分が顔を出してしまったんだわ。こう見えて娘時代は内気でしたのよ。それで、貴方もお茶にいらしたの?」
「いいえマダム。失礼ですが、こちらは貴女の物でしょうか」
「なあに……? やだ、本当だわ。ありがとうございます。わざわざ届けてくださったのね。良かったわ、主人から頂いたものですのよ」
そっと受け取ると、マダムは嬉しそうにハンカチを胸に寄せる。とても優雅な動作だった。やはりこの人は“マダム”だと男は思った。仲睦まじい夫婦なのだとよくわかる様子だ。
しかし目的を果たしてしまうと途端に居心地が悪くなる。連れだと嘘をついてしまった手前、注文もせず立ち去るのも気が引けたのだ。かといってどこに座るというのか。昔から変わらず不器用なものだと、男は内心でため息をついた。
「ねえ、お聞きしてもいいかしら。マダムというのは私のことですの?」
悪戯な微笑を向けられ、男はさらに慌てた。うっかり口にしていたことにようやく気づいたようだ。マダムはクスクスと笑った。
「気取ったつもりはないのですが、これは失礼を……」
「構わなくてよ。素敵だもの。そうね、それなら貴方は“ミスター”かしら。それともマダムに揃えてムッシュ? いいえ、ミスターの方がなんだかお似合いだわ」
「ミスター、ですか」
「ええ。もしお時間があるようでしたら、どうぞお掛けになって、ミスター。今日はひとりですの。私のお話相手になってくださらない?」
男は……ミスターは迷ったが、むしろこの誘いは気遣いなのだと思い腰掛けることにした。マダムの珈琲を運んできた店員へ同じ注文を告げる。その間に、マダムは砂糖をたっぷり二匙入れていた。甘い味が好きらしい。
話し相手と言っても何を話せばよいのか、次にミスターの頭を悩ませたのはそのことだった。あなたは気のきいた会話の出来ない人ね、とよく妻にも笑われている。だが「それがあなたらしいから」という言葉も添えられるため、そのままでいい気がしていた。故に今、途方に暮れている。“気のきいた会話”が思い付かないのだ。
「今日はね、主人にはお留守番をお願いしているんですの。寂しそうにされてしまったわ」
代わりにマダムが話し始めた。どうやら夫が健在らしいことに安堵し、ミスターも頷いた。どのような可能性も考慮せねばならない年齢になったなと、改めて感じる。
「ご主人も映画がお好きなんですか」
「ええ! いつもは二人で来るくらいですわ。ただ私、貴方もデートで……なんて言いましたけれど、あの作品を観に行ったのは主人とじゃないんですよ」
内緒話をするみたいに声を潜められる。何か隠し事を分かち合うような気持ちになって、ミスターも小さな声で返事をした。
「僕と同じですね」
「奇遇ですこと。実はね、私にとっても初恋の人とした一度きりのデートでしたから、今回の再上映でどうしても思い出に浸りたくなって。そこに愛する主人を連れていくのも悪いでしょう? ふふ」
「まったくすごい偶然だ。ちなみに僕は、家内にお伺いを立ててきたんですよ」
「まあ。奥様、許可なさったの?」
ミスターの表情がほぐれてきたあたりで、彼の珈琲も運ばれてきた。熱いそれを深く暗い色のまま口にすると、ミスターは満足げに笑う。好みに合ったようだ。併せて机に置かれたのはマダムの皿だった。あんこを添えた小さなスコーン。「目がないんです、あんこに」とマダムは茶目っ気たっぷりに言った。
先の問い掛けに答える前に、ミスターは妻のことを思い浮かべた。茶化すような、拗ねたような、だけど優しい顔をしていた今朝の妻を。
「僕の頼りないところも情けないところも、何でも豪快に笑い飛ばしてくれるのが家内です。そしてとても信頼してくれている。でもね、そんなあの人が唯一妬いてくれるのが、例の映画の思い出なんですよ」
どこか照れくさそうに話す様を見て、マダムの瞳はキラキラと輝いた。まるで友人と恋について語らう女学生のように。その眼差しにますます恥ずかしそうにしながら、ミスターは言葉を続けた。
妻に気を遣って、これまであの映画に触れずにきたこと。気づけば映画そのものからも離れて久しかったこと。此度の再上映を機に、まともに追えていなかったストーリーを楽しみたいと考えたこと。マダムは楽しそうに聞いた。
「奥様、きっと自分を慮って観ていなかったこと、ご存知だったのね。だからこそ送り出してくれたんだわ。貴方が奥様を大切に愛してらした証拠ね」
「愛……ですか。いやあ」
愛しているなどと男がそう口にするものでない。そういう世代として生きてきたミスターにとって、どうにもくすぐったいものだった。誤魔化すように珈琲を飲むものの、たいした効果は得られない。マダムが引き続きキラキラしていたからだ。
「ご夫婦のお話も素敵ですけれど、私、デートされたお嬢さんのことも聞いてみたいわ。なんだか私達の過去は似ているんですもの。いいかしらミスター」
その提案にミスターも賛同した。これ以上惚気を晒してしまうよりずっといいと思えたのだった。
ミスターが懐かしの乙女を振り返るのは大変久しぶりだった。併せて故郷で吹く風の匂いを思い出す。乙女のお下げ髪が揺れる。それが萌黄色の羽織に映える。彼女は商売をしている家の子で、いつも甘い香りを漂わせている大人しい少女であった。名を
「──東京に就職が決まっていましてね」
しばらくの沈黙を経て、ミスターはそんな風に切り出した。大切な記憶に触れる緊張で吐息が震え、珈琲の表面を撫でていった。
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