クロージング ―― コンサルティング
第49話 選択
「私と付き合ってもいいことないですよ」
バシンと軽快に畳を叩く音が響く。
目の前には、苦悶の表情を浮かべて肩をさする小五郎さんが転がっている。
時刻はもう既に深夜零時を回っている。道場に利用している児童館には、流石にこの時間まで職員はいない。利用可能と申しつけられていた制限時間はとうに超えていた。
「今日はいつまでやるんですか?」
「いや?」
「いいですよ、別に。私もずっと組手やりたい気分なんで」
「じゃあ、よかった」
「でも、家に帰らなくていいんですか? 奥さん待ってるでしょ?」
この突き放しに彼はのらない。
「あー、それはいいよ。うん、まあ。都合のいい男だからさ」
投げやりな口調で彼は薄く笑った。大粒の汗を額に貼り付かせながら彼の手が胸元に伸びてくる。その勢いを利用して、素早く腕を掴み、そのまま弧を描くように投げ飛ばす。
「一回ぐらいやらせてくれてもいいんじゃない? けち」
この回答に、呆れてしまう。
勿体つけてるわけじゃないけど、あなた奥さんいるんでしょ。
半ば軽蔑の目を向けて立ち上がる。
「おいおい、そんなに睨むなよ」
「別に睨んでませんよ」
「彼氏いるのかよ」
「いませんよ」
「そっか。なんで小雪さんってもてないんだろうね」
「知りませんよ、そんなの」
妙に腹が立って彼に飛び掛かり、そのまま投げ飛ばした。
「いちち……。柔道じゃないんだぞ」
私には言葉にできない思いがある。
私は必要以上に大切な人には近づかない。
いや、近づけない。
私と親しくなると危ないからだ。
近づけば近づくほど、いつか狂ってしまう。
自分はどこか人とは違うのではないか。
私がそう感じ始めたのは、妹が生まれた時だ。
新緑の気持ちの良い日だった。
寒月が照らす冬に生まれた、私(小雪)と、眩い太陽の元生まれた妹(小春)。
今となっては名前からして、二人の人生を暗喩していたのかも知れない。
ふかふかのおくるみに包まれた妹を見て、私は何故か背筋がぞっとした。
違う、と。
当時は何が違うのか分からなかった。
単純に、現実の赤子は皺枯れた獣の様で、アニメや漫画で描かれる赤子とは全く違うことにがっかりしたのか、今となってはもうどうでもいい。
だが、この子は違う、という腹の底に芽吹いた種は、いつまでも消え去ることはなかった。
ただ――
妹が違うのではなく。
結果的には私が違っていたのだ。
何が違っているのかは説明しにくい。
人から、あなたはおかしいと指を差されたことはない。
成績は優秀であり、問題行動を起こしたこともない。
代わりと言っては何だか、親しい友人はいなかった。
容姿も食べるものも、出すものも、全て妹や皆と変わらない。
だけど、何かが違う。
目に見える形でそう感じ取ったのは、あの時からだろうか。
それは、私が中学生の時だ。
「ちょっといいかな」
大通りを横切る陸橋の上で、見知らぬ男に声をかけられた。年齢は四十代だろうか。スーツ姿のどこにでもいる会社員。にこにこと、初恋の人にやっと出会えたような朗らかな笑みを浮かべて、気色悪かった。最近、この辺りで変質者が現れているという注意が出回っていたため、警戒して後退った。
「よかった、本当によかった。やっと出会えた」
男はそう涙ぐむとそのまま、うううと嗚咽した。仕事で何か嫌な事があったのだろうか。私の目には男がひどく不憫に思えた。男は気持ちを落ち着かせたのか、
「ありがとう、私はもう大丈夫です。何も問題ないんですね」
そう言い残すと、男は勢いよく柵に手をかけると、一切の迷いなくそのまま飛び降りた。交通量の多い大通りは、突如降ってきた男を避けることは出来ず、一台が突き飛ばし、嫌な音とともに吹き飛ばされた男がゴミのように何台もの車に撥ねられていった。
呆然としながら、家に帰って布団に潜り込む。がたがた震えて、これは悪い夢だと自分に言い聞かせた。今日起こったことは誰にも言わず、夕飯のアジフライを食べた。
それからだった。
私の目の前にはいきなりやってきて死ぬ人間が年に一度は現れた。
彼らはとびきりの笑顔を見せて、口々にこう言った。
「私はもう大丈夫なんですね」
次々と知らない人間が目の前で死んでいく。
まるでひとつのショーであった。
ただ、こういう世界もあるよね、というぐらい現実感は希薄だった。
全く面識もないため、他人事と思っていたが、とうとう妹もその闇に引きずり込まれた。
私は産まれた時に、確かに啓示を受けた。
得体の知れない存在からよくわからない啓示を。
臭いものに蓋をするように、今までずっと封印してきた。
内に渦巻く闇が腹腔からあふれ出ないように。
でも、もうはっきりと認識しないといけない。
いつまでもこのままというわけにはいかない。
妹と住む世界が違うなんてことはなかった。元々一緒の世界の住人だった。
ただ、私はそれを否定して、見えないようにして、それらを拒絶していた。
全身にこびりついた赤黒い血の跡。
妹は笑っていた。
もう永遠に動かないのに。
私を見上げて笑っていた。
妹の身に起きた悲劇は偶然なのか。
それとも必然なのか。
妹の死は事故。
倉庫会社が引き起こした労災だ。
絶対に私のせいじゃない。
そう思い、血眼になって原因を探した。
その結果、決定的な不備は見当たらなかった。
そんなはずはない。
いつしか、妹の悲劇を嘆くのではなく、妹の死は事故だと結論付けることが、私の正常さを保証する上で重要なことだと位置づけるようになった。
いつか私は殺される。
強くならねば。
妹の死後、護身術のように合気道も始めた。段までとって、心身ともに健康であるべく食事は欠かさず、睡眠は十分にとり、必要最低限の人との接触に切り替えて、規則正しくあった。
私は正しい。私が私を正しく保証する。
だって、見えない何かはいつも私の隙を狙ってやってくるから。
「小雪さん、今日はいっぱい連れてきたから組手やってくれない」
「いっぱい? なにそれ」
「うん、まあ、うん」
小五郎さんはそういうと、つかつかと出入り口まで向かい、ドアを開く。
闇から這い出るように、一人、また一人と知らないものたちがやってくる。
「ああ、よかった」
そのものたちは不気味なほど目を輝かせて、恍惚の表情を浮かべた。
小五郎さんはコンビニに行った帰りのような口調で、
「小雪さんがやらせてくれないから、今朝ね、妻を殺したのよ。全然、だめだった。やっぱり小雪さんなんだって。そういうやつらいっぱいいるのよ。今日は、小雪さんに俺たちを導いてくれるように、皆を集めてきたから頼むよ」
私を嘲笑うかのように外の風が強まり、ガラス戸が激しく震える。
四方に黒い影が揺らめき、底無しの闇へと誘うように、枯れた手が次々と伸びてくる。
導いてくれないか。
この世界を。
我々の世界を、国を、軍隊を、秩序を。
保証を。
瞬間、今までの出来事が引き金となり、恐怖から激しい怒りへと変わった。奥歯を噛み締め、体が動く。
「ふざけるなっ」
私は化け物にはならない。
囁きを振り払うようにその腕を力強く握り返す。そのまま、異様な者の関節を極めて、一気に投げ飛ばす。
バシンと大きな音が響き、骨が折れる鈍い音が聞こえた。
激しい呻き声が深夜の道場に響きわたる。
血を吐き、蹲る者たちを見下ろすと、私はこの世のものとは思えない程の昂ぶりを感じた。
なんだ、簡単なことだったんだ。
迫りくる闇は、そのまま物理的に振り払えばいいんだ。
いつだって可視化されない存在より、血と肉をもった私の感情が優先されるのだ。
そこからは何も覚えていない。
捻れた手足。
骨が砕け、
血と汗が飛び交う。
何人、
いや、何十人もの境界線を彷徨う亡者と化したものたちが宙を舞う。
私は絶対に狂ったりしない。
私は何も問題ないのだ。
そのまま、遠くでへらへら笑う小五郎さんに詰め寄る。
「あなたは私が相手してあげるわ」
次回、最終話(監査結果報告)――
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