第29話 アンケート
最悪なことに隣室だった。
私が401で、彼女が402。
別々に宿泊予約を入れたはずが、なんたる不運。
ドアを閉めて一人になっても、耳の奥で先輩先輩と呼ぶエミナの声が反響しているようで、心が休まる気がしなかった。それに、何だか身体が重い。往査でこんなに疲れたことはなかった。コートをぶん投げて、そのままベッドにうつ伏せになり倒れ込む。シーツは冷たく、氷に頬を張り付けているようだった。
そのまま眠ってしまいたい。
朝まで誰にも邪魔されずに。
ずっと泥のように。
シャワーは明日浴びればいいや。ああ、でもメイクを落として、歯も磨いて――条件反射で現実的なことが頭を過ると、嫌々起き上がる。この往査が終わったら、小五郎さんに合気道の組手をやってもうらおうと、メッセージを入れた。
彼からの返事は就寝前にやってきた。
『張り切るね~。OK。たまには俺との飯も付き合えよ』
『わかりました』
『お、珍しい。楽しみにしとくわ』
このやりとりにふっと笑いが漏れてしまう。
小五郎さん、あなた奥さんがいるくせに私のこと好きよね。
嬉しいような虚しいような。
複雑な感情ではあるが、今は彼との些細なやりとりが心身をリラックスさせていることに感謝した。
そのまま電気を消して布団に潜り込む。
目を閉じる前に、改めて自分が小五郎さんに打ち込んだメッセージを確認した。
『明後日、お時間あれば組手をお願いします』
そうよ。どんなに疲れていても、適当な文章なら打ち込める。多少の誤字があっても相手に伝わるように文字を打てる。主語がなくとも相手に目的を伝えることができる。
だから――こんなのありえるのかしら。
プライベートのスマホを脇に置き、社有スマホをタップする。仄かな電子光が、暗い室内に浮かび上がった。便利な世の中で、あらゆるデータはスマホで確認出来る。往査前に法務部から送られた、ある資料を確認した。
●北関東工場 コンプライアンスアンケート結果一覧
「該当部署は結果として、適切と答えた割合が98%であり、コンプライアンスに関して重大な問題は発生していないものと考える。――」
うちは毎年、コンプライアンスアンケートを実施している。質問内容は至ってシンプルで、所属部署がコンプライアンスを遵守しているかの簡単なイエスノー形式。その際、何かあれば備考欄にコメントを残すことができる。
●備考一覧
「お土産文化が色濃く残り、見えない強制力がある」
「生産計画が実情に見合っていない」
「品質試験にもっと男性も異動させた方が良いのではないか」
「ラインの先輩がフレンドリーなのはいいが、うざい」
「まだですか」
「食堂のメニューコンペに皆の意見を反映させてほしい」
「上司の指導が行き過ぎている場面がある」
「風通しをよくするため定期的なローテーションが必要だ」
「まだ」
「食堂が本当においしい」
結果一覧は簡単な総括、各種統計データが続き、最後に備考一覧で締めくくるのだが、職場のちょっとした不満といった所謂よくあるご意見のなかによくわからない文字が紛れ込んでいた。
「まだですか」
これってなに?
この一文が妙に引っかかった。
一つではない。
ちらほらと似たような文言が一覧に並んでいる。
コンプラアンケートなんていうのは、大体が、皆、適当にイエスと答える。やれ職場の風土は良好か、やれ職場の不正を見たことがあるか、といったものは仮にノーであっても、忖度が働き、正直には書かれないものだ。匿名アンケートでも、仮に内部告発をしようものなら、果たして自分は守られるのか、左遷させられるんじゃないか、そう言った見えない力学が組織に働くのは避けられない。
誠に本末転倒であるがそれが実情だ。
そのため、なおさら備考欄にまでコメントを載せるような稀有な人間は少ない。
最初は単なる打ち間違えかと思い、法務部に確認したところそうではなかった。備考欄に関しては生データを加工せずに抽出しているようだ。
では――なにかのメッセージなのか。
一度、疑念が根を張ると、資料に並ぶ妙な文言が、ただの間違いには見えなくなった。まるで、見えない何かが蠢いているようにすら思えてきた。
「まだですか」
職場の文句でもない。
「まだですか」
単純な打ち間違えでもない。
「まだですか」
目的がわからない。
「まだですか」
気味が悪い。
物語は第五章へ――
全てのものは可視化できない。
何かがありそうで、何もなくて、見えないなにかはやがて顕在化してくのか。
次章、見えない恐怖がその牙を向いていく。
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