第一章 新人

第2話 内部監査

 あと一秒経過すれば確実に死が訪れる。


 そんな確信が現実に迫ったとき、人は何を考えるのだろうか。

 死というものは迫ってくるものなのだろうか。

 はたまた、導かれていくものなのだろうか。

 いずれにせよ。

 死に至る過程に偶然なんてものはない。

 小さな出来事が積もりに積もり、熱く、強大なエネルギーが内側から一気に爆発して、避けられない運命へと突っ走っていく。

 全てにおいて何らかの兆候があるのだろう。



 十月上旬。うだるような夏が終わり、秋が始まる。


 地下鉄から地上へ上がると、空は雲一つない快晴だった。残暑の厳しさを通り抜けて、時折心地良い風がビルの間を通り抜ける。イチョウ並木は黄色く色づき、もうすぐ果たすべき生命の役割を終えて、そのまま散っていくだろう。


 時刻は十一時。駅に到着する瞬間、誰かがホームから線路に飛び込んだ。

 運悪く人身事故に遭遇してしまい、現地に到着するまで悠に一時間以上も遅刻してしまった。

 待ち人をこれ以上待たせないように先を急ぐ。大通りを抜けて十分もかからないうちに、本日の目的地に到着した。これから向かうビルの正面で、既に高城小雪さんが腕を組みこちらを待ち構えていた。遅刻の理由は連絡済だが、やはり先輩を待たすのはばつが悪い。すみませんと小走りで駆け寄る。

 出会い頭の彼女の第一声はこうだ。


「人身事故なんて、鉄道会社のリスクマネジメントが機能していないんだろうね」


 今朝、遭遇した悲惨な人身事故が横文字に置き換わることによって、どこか無機質で冷たい印象へと変わった。

 毎日、東京で電車に乗っていると、いつかはこんな不運な場面に出くわす可能性がある。半ば都市伝説のように吞気に構えていたが、まさか人身事故を起こした車両に、かち当たるとは思わなかった。そういえば何かの本で、四月や十月といった期の境目は、人身事故が多い時期だと書いてあった気がする。何かが始まることを死ぬほど嫌悪する者が一定数存在している、ということか。

 何だか胸が苦しく、バッグから水を取り出して彼女に目配せすると、ふふっと笑われた。

「私の了解なんていらないわよ。気持ちを落ち着かせなさい」

 と、至極当然の先読みをされた。

 冷たい水で胸を落ち着かせると、人身事故の瞬間がフラッシュバックした。


 駅に到着しようとした時――前方で岩石と衝突したような、もの凄い衝撃が走った。衝撃に遅れること数秒後、急ブレーキがかかる。慣性の法則の通り、乗客で密になった車内は、空間ごと持ち上げられて、急停車する車内と止まらない空間のずれによって将棋倒しの地獄絵図となった。

 こういう時は例え車掌でなくとも、いやでも轢かれる瞬間を想像してしまう。誰かがホームから飛び降りて、そのまま電車に吹き飛ばされて、車輪で体が強引に引きちぎられて――

 確か、駅のホームは落下防止の措置がされていた。ということは、ホームドアを乗り越えての事故になる。いくら鉄道会社が万全のリスク対策をしても、人の感情は制御できないのか。


「鉄道会社はどういうアシュアランスをしているんだろうね」


 アシュアランス。


 再び冷たい横文字に悲劇が置き換わる。

 外来語というのは、なぜこうも他人事に聞こえるのか。


「秋山君、今日は絶好の往査日和だね」


 高城小雪さんは、んんっと大きく伸びをして目の前に聳え立つ高層ビルを見上げる。風に吹かれた黒髪から仄かなリンスの香りが漂い、鼻をくすぐった。

 甘く、心を落ち着かせる香りだった。


「初めての往査なので色々と勉強させて頂きます」

「まあ、肩肘張らなくていいわよ」

 小雪さんから、対象先に往査に行く際には、身なりはきちんとすると教わっている。襟を正して、目線を下げてネームプレートを確認した。


――内部監査部 秋山明――


 まさか、この僕が監査とは。

 内部監査とは――

 社長、監査役(企業によっては監査等委員)等経営陣の目となり、事業の目標達成のため、社内のガバナンス、リスクマネジメントが有効に機能しているかを確認し、保証(アシュアランス)および改善提案(コンサルティング)を行う。


 対象先は、東京支店。

 監査主査は高城小雪。

 彼女を中心に、今から対象先のあらゆるプロセスが丸裸にされていく。


 あれはどうなんだ。これは大丈夫か。それは適切なのか。


 嗅覚を働かせて集めた証跡をもとに――


 我々が、ここは、問題ないと、保証する。


 内部の組織が内部の組織を保証するわけだ。

 その内部の組織のなかに僕がいる。


 問題ないって。


 問題ないとは、一体どういう意味なんだろう。



 第一章「新人」開始――

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