蝉の羽

羽衣麻琴

 潰れている蝉を見ると、夏だなあ、と思う。

 アスファルトの上ですり潰された身体の破片は軽そうで、きっと踏まれた時もパキパキと軽い音を立ててひしゃげていったんだろうと思う。以前一度だけ、まだ形が保たれた状態の蝉を踏んでしまったことがあるけれど、足に伝わる感触は乾燥させた落ち葉を何枚も重ねて踏んだような感じで、何か命のあったものを壊したような気はしなかった。

 歩きながら、肩に食い込んでいるエコバッグの持ち手を掴んで引き上げる。今日は牛乳と、消費税分割引きしていたサイダーと、切らしていた麺つゆと、それから半額の惣菜をいくつか買った。だからバッグはそこそこ重い。私の狭い肩からは、すぐにずり落ちていってしまう。

 チリンチリン、と後ろからけたたましい音がした。振り返ろうとしたところで、自転車が私の真横をさっと通り過ぎていく。空気が一気に動いて、生ぬるい風が剥き出しの肌にぶつかった。

 夏の夜の空気は、気持ちの良いものではない。ぬるくてじめじめしていて、身体全体に纏わりつくような感じがとても嫌だ。もう八月も終盤だというのに、気温も湿度もまるで下がる気配がない。子どもの頃はもう少し涼しくて乾燥した空気だった気もするけれど、十何年も前に感じていたことなんて、大して思い出せなかった。

 スーパーから一人暮らしのアパートまで、徒歩だとだいたい十分くらいの距離がある。ここからあと半分くらいだ。これが実家にいた頃のように自転車か、あるいは車だったら足元の虫なんか気にしなくてもいいのにと考えながら、私は暗いアスファルトを慎重に進む。夏は蝉の死骸だけでなく、ゴキブリとかカメムシとか、ごくごく稀にカエルとか、足元にいろんな生き物が落ちているので、いちいち気をつけて歩かなければならないのだ。以前はそこまで気にしていなかった気がするのに、東京に出てきてから特にそういうものたちが嫌いになった。

 少し歩いていった先に、新しくできたコンビニがある。先月オープンしたばかりで、そのわりには人の出入りが少ない店だ。今もお客さんの姿が見えない店内から、白くて強い蛍光灯の灯りが外まで漏れている。

 その光に照らされて、蝉の死骸が落ちている。上向きになった腹の白さにどきりとしながら、私は「それ」を避けて進む。

 ふと、視界の端で何かが動いて顔を上げる。前方から歩きスマホの男性がやってくる。たぶん若いのだろうけど、暗くて顔はよく見えない。

 私はその人とすれ違うために、歩道の端に二歩ずれた。こういう時、自分が先に避けると損をしているような気になるのに、私は避けずに直進できた試しがない。前方に「俯いている人」の影を見つけた瞬間にはもう、逃げるように道を逸れ、歩道の端にひっそりと身を寄せている。反射的にそうしている。

 俯いた男性と無事にすれ違った直後、背後からパキパキと音が聞こえた。それが先ほどの蝉の白い腹が踏まれた音なのか、それとも周りに落ちていた葉っぱが潰された音なのか、私には検討がつかない。

 蝉の中身が空洞であることを、知ったのはいつのことだっただろう。実家にいた頃だったはずだが、いつだったかは正確に覚えていない。何がきっかけで検索したのかも記憶にないけれど、きっと今日みたいな夏の終わりで、死骸を見かけて気になったとか、そんな理由だったんじゃないかと思う。

 日付もきっかけも覚えていないのに、深夜に布団の中で「蝉 中身」と打つためにスマホの画面をタップしたことや、画面いっぱいに現れた画像一覧に慄いたこと、窓から微かに聞こえていた雨の音なんかを、私は何故か鮮明に覚えている。

 いや、「何故か」ではない。理由はわかっている。覚えているのは、その話をした唯一の相手である、山内さんのことが忘れられないからだ。

 山内さんと私は、そんなに仲良くなかった。

 専門学校で同じクラスというだけの、よくある知り合い程度の関係だった。私と違って、山内さんはひとりでも行動ができる人で、あまり群れたりすることを好まなかった。そのせいか、おはよう、くらいの挨拶は交わしたことがあっても、まともに話をしたことは一度もなかった。それが一年の後期になって、課題でグループが同じになったのをきっかけに、少しだけ話すようになった。たった二週間のグループワークだったけれど、先生の評価が良かったこともあって、メンバー同士の印象もかなり良くなっていたと思う。だから講評が終わった日には、グループでカラオケに行こう、なんて話になったのだった。普段は誘いを断ることが多いらしい彼女も、「今日はバイトない日だから」と言って参加してくれた。

 その時初めて、山内さんと学校の外で過ごした。彼女が何を歌うのかは未知数だったけど、意外にも有名なアニメの主題歌を歌って、それがすごく上手だった。そのアニメが私の好きなものだったことも相まって、私の中で彼女への好感度は急上昇した。彼女のことをもっと知りたいなんてくすぐったいことを考え、だけどその割には、帰り道に私と彼女だけが同じ電車だと知った時には焦っていた。

 ふたりの間に、共通の話題なんかは大してなかった。今思えば同じ専門学校なんだから、課題のことや先生のこと、あるいは将来の夢の話でもすれば良かったのに、その頃の私は何故か、仲良くなるためには私生活の話をしなければならないと思っていた。だから「あのアニメ好きなの?」の問いに「アニメっていうか、あの曲だけ」と返された時には焦ったし、「あの曲いいよね」の言葉に「そうだね」とだけ短く返された時なんかはもはやパニックになっていた。私は会話が下手だった。

 だからって、「蝉ってさあ」といきなり言い出したのはまずかったと思う。今思い出すと恥ずかしい。彼女は驚いただろう。でもその時の私には、俯いた足元に落ちていた蝉の死骸くらいしか、持ち合わせの話題がなかったのだ。とんでもなく暗い人間だと思う。

「蝉って、中身空洞なんだよ。知ってた?」と私は言った。「前にたまたま調べたことがあってびっくりしたんだけど」

 唐突な私の発言に、彼女は確か、「ふうん」とか「へえ」とか、当たり障りのない相槌を打ってくれた。しかしそれきり沈黙したので、さすがの私も気が付いて、やらかしてしまったと絶望した。だけど彼女はそのあとで、「私の家に蝉の羽があるけど」と呟いた。

「え? 家に?」

「うん。このあいだ落ちてて。欠けたりとか全然してなくて、なんかきれいで……だからそれを拾って、読んでた本に挟んだの。押し花みたいに……」

 ぽつぽつと語られた彼女の言葉に、私はたぶん、へえ、とか、そうなんだ、とか、肯定的な相槌を打ったと思う。続けて彼女は、「彼氏にはキモいって言われたけど、なんか捨てられなくて」と、申し訳なさそうに言った。私はその言葉に対して、別に捨てなくていいんじゃない、というような返事をした、と記憶している。彼氏には見せなければいいよとか、たぶんそんなようなことを。

 電車は私の最寄駅の方が彼女の駅より先だった。最初はあんなに困っていたのに、蝉の話が出てからは時間が足りないなんて思った。だから私は、駅に停車したところで、「今度見せてよ」と言った。

「え?」

「蝉の羽。見せて」

 彼女は少し迷って、それから小さく「いいよ」と言った。私は頷いて電車を降りた。扉が閉まってから、窓の向こうの彼女に手を振ってみると、動き出した車両の中で、彼女も控えめに手を振り返してくれた。週明けが楽しみだった。

 だけど週明け、彼女は学校に来なかった。

 彼女が自主退学したと聞いたのは、それからふた月ほどしてからのことだ。

 しばらくの間、たくさんの噂が流れた。学費のためだとか生活費のために、銀座だかのクラブで働いていたとか、いや新宿だとか、クラブじゃなくてキャバクラだったとか、いやソープだとか、それが実は悪質な店でとか、どうやら家出をしていたとか、店の金持ちの客の家に転がり込んでとか、いやそれは彼氏でとか、一時期捜索願が出されて、実際パトカーが来たりして、とか、なんだかたくさん。たくさんの噂が。

 私には情報が多すぎて、どれが真実かわからなかった。一度だけ彼女にメッセージを送ろうとしたけれど、なんて送ればいいのかがわからなくて、「蝉の羽が見たい」などと打ってみた挙句、送信せずに消去した。彼女とはそれきりだった。

 足元で、パキ、と音がして我に返る。

 それが葉っぱでないと、何故だかすぐに気付いてしまった。ああやってしまった、と私は肩を落とす。エコバッグが重く感じる。ちょっとぼんやりしていると、私の足はすぐに何かを踏んでしまう。だから私は夏が嫌いだ。

「うわ、蝉」

 前方から声が聞こえて顔を上げる。

「ほんとだ、キモ」

 親しげに腕を組んだ男女が、こちらに歩いてくるところだった。彼らの視線は、私の進行方向のアスファルトの上に注がれていて、そこにも蝉の死骸があるのかとうんざりした。

「わあ!」

 という声と、ジジジジ!という大音量が響いたのは同時だった。

「うわうわうわ!」

「きゃあ!」

 ジジジジ!

 蝉は生きていた。生きていて、バタバタと大きな音を立てながら暴れまわった。何度も身体を回転させて、羽ばたきながらアスファルトの上を滑るように飛行した。叫んだ男女は走り出して、私の真横を通り過ぎた。やべえびびった、こわー、などの声が聞こえてきて、やがて遠ざかっていった。

 私は重いエコバックを持ったまま、脚を止めて蝉を見ていた。

 蝉は身体を起こしたあと、しばらく地面にしがみついていた。力尽きたのかと思って一歩近づいたら、また跳ねて飛び上がり、バタンバタンと騒がしい音を立てながら移動した。

 ジジジジ!

 バタバタと茶色い羽を動かした蝉は、ひときわ大きく鳴いて、空高く飛び上がった。

 私は思わず、おお、と声を漏らしていた。

 ジジジジ!

 蝉は空中で、大きな鳴き声を上げた。だけど見上げても、飛び立っていった蝉は暗闇に紛れてしまい、姿を見つけられなかった。

 私は立ち止まったまま、夏の夜空を見上げた。今日は一日晴れの予報で、少しだけ星が見えた。夏の大三角形とかあったよな、とふと思いついて目を凝らしてみるが、ちらほらとしか見えない小さな光のどれがどれなのか、私にはわからなかった。都心ではないとはいえ、東京の空は濁っていると思う。

 星の見えない空を見つめながら、どうか、と私は祈る。

 あの蝉がどうか、どこまでも飛んでいきますように。誰にも潰されませんように。そしていつか、どこかで力尽きたら、せめて踏まれる前に、羽を拾ってもらえますように。きれいだと言って、本に挟んでもらえますように。

 ずる、と肩からエコバッグが落ちる。私はそれを引き上げる。その動作を合図として、また前を向き、ゆっくりと歩き出した。視線はやっぱり、アスファルトを見てしまう。

 だけどそれはさっきより、ほんの少し高い位置にある。ような気もする。

 どこかでまた、蝉が鳴いているのが聞こえた。



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蝉の羽 羽衣麻琴 @uimakoto

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