二章 鏡花水月
一
浅草寺の後ろ手に位置する新吉原。それを囲むお歯黒どぶと呼ばれる溝からは外に出れず、大門まで行かなければならない。その引手茶屋で寒月と待ち合わせして自分の方が早く着くなと思ったのだが、木造の大門前で手を振る彼の姿が目に入った。
「あんた、いつのまに」
「武芸の心得が少しあるんだ」
逢花はちらりと寒月の手に目を向けた。昨夜に彼の特徴を見つけようと観察をしていたが、彼の手は綺麗な手だった。剣術を習っているようには見えない。
「へえ、武家の出のわりには手は綺麗だけどな」
「剣は抜けんよ。木刀を懐刀にするような男だからな」
何よ、引っ掛かる言い方ね。
逢花は怪訝そうな顔をしてどうでもいいかとすぐ頭から振り払った。
「まあ、いい。そんじゃ、まずは――」
「いた! 御浪人~!」
「え?」
耳に慣れた声が走る音ともに聞こえ、そっちに目を向けると、逢花が昨日賊を引き渡した岡っ引きが自分に向かって走ってきた。
「なんだ?」
「ま、松平の旦那が、あ、あんたにいますぐ会いたいってよ! おらの同心の旦那から頼まれたんでさ」
「松原のおじさんが?」
昨日の事でなにかあったのかしら?
「寒月さん、浅草寺までの道のりは分かるか?」
「ああ、分かるよ」
「悪い、先に言ってるから、一茶っていう茶屋があるからそこで待っていてくれ」
そう言って懐中から金が入った小袋を取り出して寒月に投げる。
今のこいつは無一文だ金を持ってないんだから、今日の仕事の駄賃を先に渡しておかないと。
「これは」
「茶屋でも使え、今日の駄賃を前払いだ」
「御浪人、早くしないと怒られちまう」
「行くぞ」
松平のおじさんは南奉行所だったな。
逢花は岡っ引きと急いで向かった。
「御浪人、中へどうぞ」
そう言って奉行所の男が逢花を中に入れた。着流し姿の同心や袴姿の与力などが険しい目つきで逢花を睨みつける。
それもそのはず。逢花が南の奉行所に姿を現すことはあの組が何か問題を抱えているということ。それはあの組自体を未だ不信がっている輩にとっては空気が悪くなる話なのだ。
近年目に見えて頻発した異能を使った犯罪が増え、奉行所にはそれに対抗する組として姿を現した 異能特対組。古代の呪術や呪詛やらが薄くなった今、それに対応する術を持たず、大和国や京に手を借りようとせずに幕府だけで対応している。
そして、その組の代表が旗本松平信蔵である。
まさか、初日から寒月を茶屋に放置することになるとはね。よく顔を合わす岡っ引きに私がいつも吉原の引手茶屋にいることを教えておいて、それで迎えに来たってことはよほど大事なことがおありのようね。
逢花は松平がいる座敷に案内された。部屋の前で大きな声で待ち人に声をかける。
「入るぞ」
「来たか」
襖を開けると男が文机から顔を上げる。中年を過ぎようとしている歳ほどの男は厳めしい顔で振り返る。
逢花はなかにづかづかと上がり、胡坐をかいて座り込んだ。
「どうしたんだい? 松平のおじさん」
「どうこうもない。昨日のお前がとらえたやっこはなんなんだ」
「昨日? ああ、異能でも見たか?」
「そんなことではない!」
「じゃあなんだよ」
松平はため息をついて、重たい口を開いた。
「死んだ」
「は?」
「お前が捕らえた異能使いなら今朝がた牢で死んでいた。原因はおそらく毒だろう」
「なんだって」
「斬りつけられた傷は見当たらなかった。昨日まで外に出せと元気に喚いていた男が持病持ちなんて事は無いだろう」
松平は机に握った拳を叩きつけた。彼の眉根の陰はさらに深くなり、彼の怒りを逢花は感じた。
「おかしいと思ったからお前を呼んだんだ」
「死んだのか、毒で」
毒なんて、もしかしてあいつが言っていた薬売りの仕業?
「そうだ! あんた西原の呉服屋の前の橋下のこと何か知ってるか?」
「西原の呉服屋? ああ、だがあそこの前の橋下は川だろう?
あ、そういえば、最近お前も噂を聞いたと思うが“短刀で斬る 辻斬り”。あれの被害者がその川を流れてたって」
辻斬りで殺された者が流されたっですって? ということは、今回毒殺されたあの異能使いも何かを目にしたのかもしれない。それで殺されたのだとしたら? 最悪、目撃者だったかもしれないなんて。
「辻切りは知っていたが、いまからその川を探そうと思ってたんだ。おじさん悪い。俺行くわ」
「おい、またんか! 結局男は何者なんだ。家の牢に忍び込んできゃつを殺したんだ」
「あのな、ここの牢のおざなりは吉原でも耳にするぞ」
「きさま、わしが忙しいなかお前のことまで面倒見てるというのに、また吉原に通っているだと! 」
「あー、はいはい。またなー」
昼餉前ほどの刻になり逢花は浅草寺の一茶に着いた。
「すまねえな。遅くなった」
「いいえ、そうだ。ここの茶菓子がおいしいから君も食べてみろ」
「お、いいのかい? いた――おい、一人で食える」
「いいからいいから」
「チッ、仕方ねえな」
「どうだい?」
「うまい。持ち帰るか。おばさん! この団子を四つ包んでくれ」
「あいよ」
寒月は小さく言う。
「あの禿達にか?」
「そうだよ。あの子らは甘いものが好きなんだ」
「優しいね」
逢花は顔を曇らす。
寒月は晴れた空を見上げてから逢花を見つめ口にした。
「
「ながめにそぼち 新芽がきざす。もう過ぎたことよ」
そう言って逢花は憂いを含んだ艶のある笑みを浮かべた。寒月は不満そうな顔だ。
「誰の歌?」
「私のだ」
「どおりで下手くそね」
「君になら負けを認めるよ」
「あら、嬉しいわ」
逢花は鼻を小さく鳴らした。
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