お大事に。と。
青山
第1話
「お願いします。」なんの脈絡もなく、そう彼女に言った事をはっきりと覚えている。
大学二年生で講義が初めて一緒になった彼女だったが、僕は前から彼女のことを知っていた。
去年の文化祭に友達とはぐれて近くの教室に入ると、そこは百人一首のサークルだった。
そのサークルの人数はあまりにも少なくて入って早々に気まずいと感じたのを覚えてる。
それに、はぐれた友達もいなかった。
初めに案内されたのは気さくな男の先輩だった。
なぜ先輩と分かったのかと言うと、その先輩が頻繁に喫煙所に行くのを見かけた事がある。
畳の手前で靴を脱ぐと案内された場所にいたのが彼女だった。
この教室では畳に散らばった百人一首から好きな一句を見つけると言う企画をしてた。
普段であれば絶対に来ない。
僕は初めて見る百人一首から適当に一枚拾って彼女に手渡した。
彼女は読み上げてくれた。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂いける。
彼女はその句を読み上げた後に補足してくれた。
「人の心はわからないものだけど、花の匂いはいつも変わらない。紀貫之が読んだ詩ですね。」
歌人の名前は聞いたことがあったが、話は全く頭に入ってこなかった。
今でも、なぜかこの歌を今でも覚えている。
その後も花が梅のことであるとか、ふるさとの場所が旧都である事を教えてくれたが全くもってわからなかった。
それから一年が経ち、偶然にも僕は彼女と同じ講義を受講していた。
その講義は厳しいと評判だったが、興味があり友達の助言を押し除けて受講した。
講義の内容は確かに難しい、難しいと言うよりも課題が多かった。
彼女に声をかけることもなく講義が折り返しに入り、二回連続で彼女が休んだ。
少人数の講義だったから休む人がいると点呼ですぐにわかる。
講義が折り返しということもあり、その2週間は課題がたくさん出ていて僕も課題に追われてていた。
そんな時、教授から講義後に呼び出された。
「今日休んだ、柏原さんいるじゃん。同い年の。今回の課題ポイント高いから持っていって欲しいんだよね。住所調べたら君の家と近くてさ。」
束になったプリントを手渡される。
しっかりファイルに入れてあるのが、この教授らしいと思った。
そのファイルの上に正方形の付箋で見慣れた住所が書かれていた。
「そこに書いてあるでしょ。いなかったらポストにでも入れておいて。」
僕は何かを任された事に憂鬱な気持ちを感じていたが、彼女に声をかけるチャンスとも思っていた。
僕はその日の講義が終わると、家に帰るついでに彼女の家に向かった。
住宅街で夕食の匂いが漂っていて、奥の方からほのかに紫蘇の匂いがする。
ここ最近自炊をしてないと思いながら足を進める。
夕ご飯は何を食べようかと考えていた。
そして柏原さんのアパート前まで来ると、なんで話す言葉を事前に考えてこなかったのだろうと後悔する。
僕はインターホンを押した。
三回くらい深く息を吸っていたら、マスクをした柏原さんが出てきた。
柏原さんはキョトンとしていた。
というより、少し気だるげにドアを開けた。
それから僕はその視線に耐えられず、柏原さんに「お願いします。」と言ってプリントを前に突き出していた。
柏原さんは何か言いたそうな顔をしている。
僕は慌てて
「あの今日の二限の講義一緒で、教授に家が近いから持って行けって言われて。」
と言い終わった後に、自分がテンパっている事に気づく。
マスクで柏原さん表情がわからず、僕は自分のことを情けないと思った。
時間の経過とともに、この空気が余計にそれを感じさせる。
耐えられなくなった僕は、
「また、講義よろしくね。」
と言って玄関を後にした。
いや、逃げた。
家までの帰り道に、喋ったこともないのに講義をよろしくって何に対しての挨拶なんだ。と自分を呆れた。
そして、なんで気の利いた言葉をかけてあげられなかったのだろうと思い、僕は心の隅でお大事にと復唱した。
お大事に。と。 青山 @ryo_91020
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます