第2話 黄色の教室

「俺さ、告白しようかと思う。」


 2日後に迫る文化祭を前に、学校全体が興奮を抑えきれずに慌ただしく動いている。教室には黄色味の強い夕日が差し込み、僕たちの手元を照らしている。

 今日は授業が午前中に終わり、文化祭前日の明日は丸1日、最終下校の時刻まで文化祭の準備時間となっている。教室では文化祭実行委員がクラスメイトたちに指示を飛ばす声や、手を動かしながらも雑談を楽しむ声が響いている。それは他も同じようで、開いているドアからは隣のクラスの和やかさも伝わってくる。

 僕と岸津は靴を脱ぎ、教室のドア付近に敷いたビニールシートの上でしゃがんでいる。


「俺さ、告白しようかと思う。」

「だから、やめておいた方がいいと思う。」


 お弁当を食べ終えてから数時間、何度聞いたかわからないセリフを岸津が再び口にする。岸津の告白を何回止めたのか、最初は数えていたものの今は全くわからなくなってしまった。

 2ヶ月程前に文化祭の出し物がメイドカフェに決まり、僕と岸津は看板作りを任された。僕はようやく「メイドカフェへようこそ」という下書きが完成し、自分の額に汗が浮かんでいたことに気がついた。

 岸津は川井さんへの告白のことばかり考えていて、ほとんど手を動かしていない。しかし、その事に対して不満はないし、無音で作業をするよりも岸津の独り言というBGMがある方が集中できている気がする。そのため、僕も岸津の話を無視するのではなく適当に返事をしている。


「もう我慢できない。この間の体育の熱が冷める前に、いや、冷めるはずもないけど。今言わないと絶対後悔する。」

「いや、このタイミングでする方が後悔するよ。」

「そうかな、後悔するのも嫌だからな。もう少し様子見るか。とりあえず先に後悔して気持ちを落ち着けるか。そうだ先悔せんかいしよう、先悔だ。」

「なにその、先悔って。」

「なになに恋バナー? 先生にも聞かせてー。」


 下書きを終えたダンボールを前に、いよいよ「メ」をピンク色の絵の具で塗り始めた時、田中先生が会話に加わってきた。急に岸津以外の声が聞こえたことに驚き、下書きを少しはみ出した。

 岸津の声はよく通るため、たまたま様子を見にきた先生に聞こえてしまったらしい。もしかすると周りのクラスメイトたちにも聞き耳を立てられていたのではないか思うと、なにも後ろめたい話はしていなくても恥ずかしくなった。

 はみ出してしまった部分を気にしながら筆を置き、顔を声の方へ向けると、僕の対面にいる岸津の真後ろに田中先生が立っていた。岸津も急に声が聞こえて焦ったのか、急いで先生の方へ振り向いた。

 帰りのホームルームで担任の林先生は、職員室で会議があるため連絡があるなら今話すようにと言っていた。ということは、会議は終わったのか、あるいは休憩中なのかもしれない。


「ひとみちゃん! ど、どこから聞いてた?」

「うーんとねー、『俺はやっぱり川井が好きだ。今すぐ抱きしめたい!』ってところかなー。」


 田中先生は、岸津の真似のつもりなのか、顔全体のパーツを中心へと寄せて声を普段よりも低くしている。

 岸津は、苦虫を噛み潰したような顔をして頭を抱えた。田中先生はそれが面白いのか、からかうつもりなのか真似を続ける。


「あとねー、『校門を出て他の生徒たちが周りにいなくなったら手を繋いで川沿いを歩くなんて最高だよな』ってのも聞いたかなー。」


 何度か田中先生による岸津の真似が繰り返されると、岸津は徐々に恥ずかしさも消えてきたのか、あるいは開き直ったのか、とても楽しそうにニヤニヤしている。


「てかひとみちゃん、さっきから俺の真似全然似てねぇよ!」


 田中先生は、岸津に似ていないと言われたことが不服なのか、わざとらしく少し頬を膨らませて僕の方へと振り向きピンク色の唇を開いた。


「えー、結構似てると思うんだけどー。ねぇ、家沖くんー?」

「いや、似ていないです。」

「家沖くんもひどーい。」


 僕の言葉がますます不服なのか、先生はさらに頬を膨らませた。その顔は小さい頃に動物ドキュメンタリで見た、どんぐりを口に入れたリスに似ている。

 昨年度に大学を卒業したばかりの田中先生は、先生というより歳の近い姉といわれた方がしっくりとくる。身長は僕の鼻くらいで岸津よりも少し高く、そのスタイルの良さから第一印象はものすごく仕事ができるように見える。しかし、顔は童顔で、話し方ものんびりしているため、生徒からは舐められることが多いと以前に嘆いていた。


「ひとみちゃんは、彼氏いないの?」


 岸津は、なんとなく思いついたように口を開いた。

 いつもなら適当に切り返す田中先生は、フワフワとした笑顔を顔に残しているものの、唇を動かす気配はない。イメージしていた対応と違うことに、岸津も違和感があるのか首を少し傾げている。

 こちらに背を向けて作業をしているクラスメイトたちは、田中先生の答えが気になるのか、手を動かしながらもチラチラとこちらを振り返っている。

 気がつくと田中先生の表情は、いつもの笑顔から、眉間に皺を寄せたものへと変わっている。それは、この前の美術の授業中に資料集で見た「考える人」のようにも見える。


「わたしはね、今はや——」


 田中先生がようやく答えようとした時、職員室からの連絡用チャイムが鳴った。入学当初にこのチャイムを聞いた時は、迷子のお知らせかと内心でツッコミをいれてしまった。しかし、このチャイムである理由はしっかりと存在し、続くアナウンスが「迷子のお知らせです」から始まる場合は、校内に不審者が侵入したことを意味すると担任の林先生は説明していた。以前に一度抜き打ちの訓練が行われた際、僕を含めクラス全員がそのことを忘れて対応できなかったという記憶がある。その過去に行われた抜き打ち訓練が脳裏をよぎり、僕は身構えた。


「田中先生、田中先生、至急職員室にお戻りください。」


 ややこもったスピーカーからの音声は、田中先生を呼び戻すためのものだった。考えれば、生徒たちが文化祭準備をしている時に訓練なんかしては水を差すようなものだから、そんなことをするはずがない。

 田中先生は、開いていた唇をゆっくり閉じ、小さく息を吐き出した。その唇は先ほどよりも赤みを増したように見えるのは気のせいだろうか。


「まーた、会議だよー。この調子じゃあ、また残業だねー。こんなに働いてるのに、この給料じゃやっていけないよー。」


 田中先生は、すぐにいつもの笑顔に戻り、肩をすくめた。そしてすぐに敬礼のポーズを作る。


「それじゃ先生は行ってきまーす。頑張ってねー。」

「まぁ、ひとみちゃん。頑張ってよ。」


 岸津は先生の真似をして、同じようにポーズを返す。生意気な励ましの言葉にも笑顔のまま頷き、先生は職員室に戻るため教室を後にした。周りのクラスメイトたちも何事も無かったように、椅子を運んだり黒板にメニューを書いたりしている。


「岸津く…岸津、進んでる?」


 田中先生が出て行った後、二人して膝が痛いと言い合って少しストレッチをしていると川井さんが声をかけてきた。

 川井さんは、どの委員会にも所属していない。しかし、入学当初から目立っていたこと、加えて彼女自身の外交的な性格のためか自然とクラスメイトたちから頼られる存在となっている。今回の文化祭でも率先して準備が遅れているグループを手伝ったり、声をかけて回ったりしている。もしかすると、二人してアキレス腱を伸ばす姿を見て、サボっているのではと疑い声をかけてきたのかもしれない。


「り、り、りつ。これから色を塗るところ…。」

「二人はいつから呼び方変えたの?」


 二人は黙って顔を見合わせると、川井さんが躊躇いがちに口を開く。


「この間たまたま帰りが一緒になって、その時に名前の呼び方を変えようって話になったの。」

「そうだったんだ。よかったね、岸津。」


 岸津は、僕の言葉に曖昧に頷いた。先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、冷蔵庫に入れてあった母親のプリンを盗み食いしているところが見つかってしまった小学生のように目を伏せている。耳は赤く染まり、二人の秘密が知られてしまったのが恥ずかしいのだろうか。


「あのさ、やっぱり普通に今まで通りの方が良い気がするけど、私も変に意識しちゃうし。岸津く…岸津も、その…私の名前呼びづらそうだしさ。」

「え、いやいやいや!」


 岸津は焦りながらも頭をブンブンと左右に振っている。どんなに恥ずかしくても、この関係だけは維持する決意を感じる。

 川井さんは、基本的に男子を「くん」付けで呼ぶ。そんな中、一人だけ呼び捨てとなれば他の男子と差別化できるため、岸津の気持ちはよくわかる。

 体育の授業からそんなに時間が経たないうちに、一緒に帰っていたことには驚いたけれど二人の関係性を考えれば、川井さんの「岸津」という呼び方には違和感がない。しかし、岸津の「りつ」という呼び方にはやや焦りすぎだと感じてしまうのは、僕が奥手すぎるのかもしれない。


「だんだん慣れるかな…それより、ちゃんと作業してる?」

「し、してるよ! もちろん!」

「さっきからほとんど家沖くんが1人でしてない?」


 川井さんは僕の顔を見て言った。チラリと岸津の方を見ると両手を合わせてこちらを見つめている。悪い印象は与えたくないからうまく答えてくれ、といったところか。


「二人で分担してやってるよ。」


 僕が答えると、岸津は口だけを「あざす」と動かした。川井さんはふーんと一瞬だけ視線を岸津に送った。


「それなら良いけど、あまりにも岸津がサボるようなら声をかけてね。家沖くん優しいから代わりにしちゃうでしょ。」


 川井さんは途中から岸津の方を向いて、岸津に言い聞かせるようにわざとらしく言った。

 岸津は少し動揺したのか肩をぴくりと動かした。それを確認し、僕もわざとらしくゆっくりと口を開く。


「まぁ、確かに下書きは全部僕がやっ——」

「あぁぁっと、よーし。やるぞ大輔!」


 岸津は慌ててしゃがむと、急いでピンク色がついた筆を掴みダンボールに近づけていく。僕は慌てて岸津に声をかける。


「「よ」は赤で塗ろうと思ってるんだけど。」


 岸津はダンボールを見下ろしたまま動きを止める。そして、すぐに手を「イ」の方へと近づけてゆっくりと塗り始めた。

 その光景をほんの少し眺めた川井さんは、わずかに微笑むと岸津を見ながら言った。


「じゃあ家沖くん、岸津をよろしくね。岸津も頑張ってね。」


 僕は頷き、岸津は左手をあげて後ろ向きのまま答える。川井さんはその両方を確認すると、ゆっくりと頷いて黒板アートの手伝いに行った。


「なぁ、大輔。岸津も頑張ってね、だって。」


 岸津は、嬉しさ溢れる顔を隠すことなくこちらへ向けている。その顔を見ていると、僕も自然に頬が上がった。


「ニヤつきすぎだよ。」

「だってよー、嬉しすぎだろ。」


 岸津は噛み締めるように言いながら、再び筆を動かし始めた。

 時計を見ると最終下校時刻まであと30分ほどになっている。クラスメイトたちが忙しなく動く教室を黄色く照らしていた夕日は、完全に沈んでしまった。その代わりに現れた月は薄い雲に邪魔されて霞んで見えている。


「伊香ちゃん、こっち手伝って!」

「うん、わかった!」


 顔だけ動かすと、教室の装飾を作っている坂沙さんはしゃがんでいた。周りのクラスメイトに自分が抜けることを伝えている。

 右手をつき、立ちあがろうとした時、目が合った。目に強い風を受けたように感じて、すぐに逸らしてしまった。

 心臓の近くで太鼓を叩かれているような鼓動を感じ、目の瞳孔が開いていることを自覚した。


「何すればいい?」

「ここを黄色のチョークで——」


 黒板の方に視線だけを向けると、川井さんと楽しそうに話す坂沙さんが見える。僕は周りに気づかれないように大きく息を吸い込むと、ゆっくり鼻から吐き出した。

 教室が明るくなったように感じて窓を見ると、雲の切れ目から月が輝いている。その周りには、主人公を支えるように控えめな星たちが散りばめられている。

 僕は使われていない筆を取り、黄色の絵の具をつけると岸津の対面にしゃがんだ。


「おい、「よ」は赤で塗るんだろ!」

「いいんだよ。」


 僕は丁寧に筆を動かし始めた。

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