8話 進んで、戻って

「――もう気持ち悪いのは大丈夫か?」

「大丈夫だけど、まだ頭が痛い……」


 時刻は午前九時を回り、悪酔いしていた奏の気分がようやく少し落ち着いたところだった。

 彼女によると寝ている間は大丈夫だったみたいだが、朝起きたときに激しい頭痛と吐き気に苛まれたらしい。


 昨日あれだけ俺に悪酔いすると注意していたのに、蓋を開けてみれば悪酔いしていたのは奏の方だった。

 サワー缶だけでここまでなる辺り、彼女は相当お酒に弱いようだ。


「ごめんな、俺が無理矢理お酒を飲ませたせいで」

「千智のせいじゃない。私がついつい飲みすぎちゃったのが悪いんだし」

「まだ水いるか?」

「うん、欲しいかも」

「分かった。ちょっと待ってろ」


 寝室を離れた俺は再びキッチンに水を汲みに行くと、すぐさま奏のもとに戻りそれを手渡した。


「ごめんね、迷惑かけちゃって」

「奏が謝るようなことじゃないよ。それに、悪酔いしたのが俺の前だけでよかった」

「ん、それってどういうこと?」

「なんでもない。とりあえず、奏は飲み会に行くの禁止な」

「えっ、どうして?」


 どうやら昨日の記憶がないらしい。

 本人は怪訝な表情で首を傾げているが、俺はこの先ずっと忘れることがないだろう。

 もし他の男の前で奏があんな姿を晒したりでもしたら……考えるだけで吐きそうになる。


「ねぇねぇ、どうして?」

「どうしてもだ。とりあえず、頭が痛いんだったらあんまり喋らない方がいいぞ」

「それはそうだけど……」

「ほら、今日はクリスマスプレゼント買いに行くんだろ? だったら今は体調を良くすることに専念しような」

「う、うーん……」


 納得のっていない様子の奏だが、俺は無理矢理話を終わらせる。


 まだ事が起こる前(というか起こさせる気もないが)なのに想像だけで独占欲を発揮してしまう俺も俺だが、彼女にとっても昨日の自分を聞かされるのは酷だろう。


 怪訝そうな彼女を見るのは少々心が痛むが、知らぬが仏ということもあると言い聞かせて朝ご飯の準備をするために寝室を後にするのだった。



         ◆



 本当は午後から出かける予定だったのだが、奏の体調も思ったより早くよくなったことで二人して暇を持て余したので、早めに家を出ることにした。


 奏と付き合い始めて約半年。

 ようやくデートをする日が来た。

 この日をどれだけ待ち侘びたことか。


 最近お互いの距離も縮まってきていることだし、ハグやキスとまでは行かずともせめて普通に手を繋ぐくらいにはスキンシップを増やしたい。

 そう思いながら、意気揚々と家を出たのだが……。


「あの、奏さん。手を繋ぐのは……?」

「だから、やだって言ってるでしょ」

「な、なんで? 最近はよく頭を撫でたりしてくれるじゃんか。手を繋ぐくらいなんてことないだろ?」

「やなものはやなの。今は明るいから人目につくし」

「そんなの誰も気にしないって!」

「気にしなくても、私が恥ずかしいのっ」


 どれだけせがんでも、奏は俺と手を繋いでくれない。


 そういえば俺とスキンシップをしてくれない理由に恥ずかしいからっていうのもあったな。

 その後に「好かれているのか不安だったから」と違う理由を言われたから、てっきりそれを誤魔化すための言い訳かと思っていたが、どうやらそれは本当だったらしい。


 確かに奏の言わんとしていることは分かる。

 周りが気にしようが気にしまいが関係なく、彼女は恥ずかしくなってしまうのだろう。

 それが彼女の性格ゆえのもので、俺と接することに意識してくれていることも嬉しい。


 それでも……。


「それでも、いま手を繋げないといつまでも繋げないような気がするんだよ」

「それは……」

「もう付き合い始めてから半年経ってる。最初は関わりもまだ浅かったからしょうがないと思ってたけど、今はその時に比べて随分と打ち解けてきただろ? だから、俺は次に進みたいんだ。……まぁ、奏が俺と手を繋ぐことを嫌ってるなら無理強いはしないけど」

「そ、そんなことないっ」

「だったら……」


「手を繋ごう」という単純な誘いの言葉が、出てこなかった。


「焦る必要はない」「少しずつ仲を深めていけばいい」と言い聞かせてはいるが、やっぱり俺は早く奏との距離を縮めたい。

 手だって繋ぎたいし、ハグもしたいし、キスもしたい。

 それ以上のことだって、奏としたい。

 だって俺は、一生をかけて奏と幸せをつくっていきたいから。


 でも、それを強いるのは彼女にとって苦痛なのだろうか。

 俺が焦りすぎているだけで、彼女にとっての恋愛はこれが普通なのだろうか。


 ただ手を繋ぎたい、距離を縮めたい。

 そんなことで何を悩んでいるんだ、と思われるかもしれない。


 でも俺は奏が大好きで、だからこそ本気で悩んでいた。


「……ちょっとだけ、時間をちょうだい」


 ふと奏は言葉を零すと、緊張をほぐすように深く息を吸って、吐く。

 そして次の瞬間、俺の手は彼女の柔らかい両手に包まれた。


「奏……?」


 俺が驚きで目を見開いていると、奏は申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。


「私、千智の苦しそうな顔を見ると、自分に素直になれるの。千智を慰めたり、こうやって自分から手を繋ぎにいったり。そしてそれはきっと、千智に苦しそうな顔をしてほしくないからなんだと思う」


 奏は包んだ俺の手から右手を離し、残った左手を俺の手に絡ませる。

 今まで手を繋いだときにしたことは一度もない。

 初めてのだった。


「素直になれなくてごめんなさい。でも、私も千智と同じように千智と手を繋ぎたくて、千智のことが……好きだっていうのは、覚えていてほしい」

「っ……」


 どうやら焦る必要はなかったようだ。

 それどころか、焦っていたことで奏の想いまで見失っていたらしい。


 彼女は素直になれないことを謝った。

 なら俺は、彼女の想いに気づけなかったことを謝らなければならない。


 そう思い口を開こうとした、その瞬間だった。


「最近の若い子はお盛んねぇ」

「私ももう一度、若かった頃に戻りたいわぁ」


 二人の中年女性が、そんな会話をしながら通り去っていく。


 奏とのやり取りに夢中ですっかり忘れていたが、ここは家の中ではない。

 ゆえに人通りもあるし、これだけ物理的な距離が近ければ人目にもつく。

 きっと今の声も、俺たちを目にして生まれたものだろう。


 彼女たちの声にこれ以上ない羞恥を感じて顔を熱くさせていたが、目の前の彼女はそれどころではないらしい。


「〜〜〜っ!」


 ぷるぷると顔を震わせ、真っ赤にさせ、声にならない声を上げている。

 そして、握られていた俺の手は勢いよく振り解かれてしまった。


 どうやら元通りになってしまったようだ。

 本来であれば悲しい出来事のはずなのに、なぜか俺は両手で顔を覆っている奏を見て、苦笑を浮かべずにはいられないのだった。

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