付き合って半年後からようやく始まる俺たちの恋愛生活

れーずん

1話 お手本のようなツンデレ

「祝日だって言うのに、どうして社会人には休みがないんだよ……」


 残業を含む仕事を終えた俺、中村なかむら千智ちさとは、午後十時に愚痴をこぼしながら職場のビルの自動ドアをくぐる。


 この職場で働き始めてから約半年。

 厳しい世界だと覚悟はしていたものの、そこで俺を待ち受けていたのは圧倒的激務だった。

 手当が出るとはいえほぼ毎日と言っていいほど残業に追われ、そのうえ休みがほとんどない。

 第二の就職氷河期が囁かれる中やっとの思いで就けた仕事だからこそ、大きなハプニングがない限りはこのチャンスを手放したくなかった。


 しかし、手放したいほど辛いのもまた事実。

 そんな俺がこの仕事を続けられているのには、ある一つの理由があった。


「千智」


 ため息をいて外に出れば、一つの声が俺の名前を呼ぶ。

 その声に視線を上げると、そこには一人の少女が真顔で俺を見ていた。


かなで?」


 目を見開いた俺は、足早に彼女の元へ駆け寄る。


「どうしてこんなところにいるんだよ?」

「今日は友達と遊んでて、たまたま近くで解散になったから寄っただけ。朝にちゃんと伝えたでしょ」

「それはそうだけど、にしてもいつ俺が出てくるか分からなかっただろ。雪も降ってるし、帰ってくれてよかったのに」


 口ではそう言いつつも、内心は嬉しい気持ちでいっぱいになっていた。

 わざわざ俺のためにビルの前で待ってくれていたと思うと、彼女の健気さが仕事で疲れた心身に沁みていく。


 だが奏は、まるで俺の心を見透かしたようにぷいっと顔を背けて言った。


「別に、千智を待ってたわけじゃない。本当にたまたま近くにいただけで、通りかかったら千智が出てきただけだから」


 奏から出てきたその言葉に、俺の口角は否応なしに上がってしまった。


 俺は知っている。

 彼女の言っていることは全くの嘘で、本当は俺のためにわざわざビルの前で待っていてくれたことを。

 しかし、今はそれについての談義に花を咲かせている場合ではなかった。


 雪が降っているというのに、彼女は傘を差していない。

 このままでは雪に濡れて風邪を引いてしまう。


「分かったよ。とりあえず近くのコンビニに寄って、何かあったかいものを買おう。帰るにしても、暖を取れるものはあった方がいい。奏はそれでいいか?」


 俺の問いかけに、奏は小さくコクリと頷く。

 だったら、と俺は彼女に手を差し出した。


「あったかいものを買うまでの間、寒いだろ。さっきまで中にいたから、きっとあったかいはずだぞ」


 俺の手を凝視してしばらく動かない奏だったが、やがておずおずと自分の手を絡めてくる。


 その手は、やけに冷たかった。



         ◆



「あったかい……」


 帰路を辿る途中、彼女はコンビニで買った缶のココアを両手に呟く。

しかし、今はそんなところに着眼点を置いている場合ではなかった。


「あの……奏さん? 手を繋ぐのは?」

「千智の手、ココアより冷たいもん」


 そう毒舌を吐く彼女の名は、藤澤ふじさわ奏。

 俺の恋人という意味での彼女で、今までの俺との接し方からも分かる通りツンデレ・オブ・ツンデレだ。


 ……まぁ、今はまだデレ要素をあまり見せてくれないが。


「それ、流石に酷くない? 冷たいのは自覚してるけど普通に悲しいぞ」

「だって事実だし、ココアの方があったかいし」


 真顔の奏のさらなる追撃により、俺の心にはダメージが蓄積していく。

 いくらツンデレな彼女と言えど、言っていいことの限度はあるだろう。

 俺だってせっかく奏と付き合っているのだから、手を繋ぎたいという欲求くらいある。

 それを拒否されてしまったのだから、負った傷は俺が想像していたよりも深かった。


 彼女で負った傷は、彼女にしか癒やせない。

 というわけで、俺も少し反撃に出ることにした。


「まぁ、それは一旦置いておいて。本当にたまたま通りかかっただけなのか?」

「だから本当だって言ってるでしょ。友達と遊んで、近くで解散して、家に帰ろうと思ったら会社から出てくる千智を見つけたの」

「にしては遅くないか? もう十時半だぞ?」

「私だって子供じゃないんだから、それくらいの時間まで遊んだりするよ」

「……そうか」


 さて、今ある情報だけだと八方塞がりだ。

 すぐに奏のボロを出させるのは厳しいだろう。

 なら一体どうすればいい。


「……奏。ご飯はもう食べたのか?」


 瞬間、彼女は急に立ち止まった。

 が、その後すぐに歩き出して俺の横に並ぶ。


「た、食べたよ。当たり前でしょ、もう遅い時間なんだから」

「へぇー、そっか」


 奏が声を震わせて応答する中、俺は密かに勝ちを確信していた。

 我ながらいいカマをかけられたようだ。

 後は家に帰ってがあれば俺の勝利は確定する。


 頼む、あってくれ……!


 隣で奏がそわそわとする中、俺は心の中でそう願いながら帰路を辿るのだった。



         ◆



 ――リビングに置かれている折りたたみのテーブルには、が湯気を立てて並んでいる。

 当の本人は、俺の横で唇に力を入れながら顔を赤くしていた。


「……これは?」

「ざ、残業だったら、まだ何も食べてないでしょ。だから、私が作ったの」

「にしては量が多くないか? 明らかに二人分の料理がテーブルの上にあるんだが」

「…………」


 彼女は口を噤んだまま、何も言わない。

 そのまま俺の胸に頭をコツンと当てると、か細い声でぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出した。


「……帰ってくるの、遅すぎ。残業があるって聞いてても、心配したんだから」


 いつもは残業があっても八時から九時までの間に帰ることが多く、この時間まで長引くことは滅多になかった。

 いつまでに帰れるかの連絡も出来ていなかったため、余計に心配させてしまったのだろう。

 本当は奏のデレる姿を見て傷を癒やそうと思っていたのだが、彼女は思った以上に俺のことを心配してくれていたみたいだ。


 なんか、悪いことをしてしまったな。


 俺は彼女をそっと抱き寄せると、その頭を優しく撫でる。

 久しぶりに感じる彼女の体温は、外から帰ってきたばかりだというのにとても暖かかった。


「心配かけてごめんな。それと、迎えに来てくれてありがとう」

「……ばか」


 俺がどれだけ仕事が辛くても続けられる理由。

 それは、彼女である奏が俺のことを想ってくれているからだった。




 ――この物語は、そんな物語。


 素直になれない彼女と、そんな彼女と距離を縮めたい俺が紡ぐ。


 甘くのどかな純愛物語だ――

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