第一夜 ベッドの下男 4
別のある日、女は一日中ベッドの上から起きてこなかった。昼が来ても夜が来ても朝が来てもベッドの上から動こうとせず、いつものようにテレビを見るでもスマホを見るでもなく、ただひたすらにぼうっとしていた。
時折、すすり泣くような小さな声が聞こえた。か細い声が真っ暗な室内に響く。なぜ泣いているのかはわからなかった。
こんな時、『ベッドの下男』はベッドの下から出られないことを、言葉を口にできないことを悔やむ。泣いている女がいて、その女を慰めたいと思うのは人間の思考だ。『怪異』である自分には思いつかないことのはずだった。
しかし、『ベッドの下男』は女を慰めたいと思った。抱きしめて、涙を拭いて、やさしい言葉をかけて、話を聞いてやりたかった。それは『怪異』としては不自然だとしても、ひとりの男としてはごく自然なことのように思えた。
今もまた、女が鼻をすすり上げて静かに泣いている。これで何度目だろう。夜通しこの調子で、朝が過ぎてもずっと女は動こうとしなかった。
しかし、昼過ぎに女は無言でベッドの上から這い出すと、シャワールームへ向かった。シャワーでも浴びて気分転換をするつもりだろうか。
今回は定期的に訪れる長風呂だった。ざあざあと水音が聞こえ、永遠とも思える時間がいたずらに流れていく。
『ベッドの下男』が焦れていると、ようやくシャワーの音が止まった。これで少しは気分を変えられればいいのだが。
風呂から上がった女はいつものスウェット姿でベッドにもたれかかり、髪も乾かさずテレビもつけずにぼんやりしていた。
ベッドの下で身じろぎすると、女は『ベッドの下男』の存在を思い出したようにゆっくりと視線を向ける。
「……ねえ」
やっと言葉を発してくれた。『ベッドの下男』はそれだけで満足だった。
しかし、続く言葉にからだをこわばらせる。
「……いつになったら殺してくれるの?」
女は震える声でそう尋ねた。
そうだ、『怪異』たる自分の使命は、この女をむごたらしく殺すことだ。そして、女もなぜかそれを望んでいる。
それはとてもかなしいことのように感じられた。
なぜ、と聞き返すようにベッドの天井を叩くと、女は体育座りの膝に顔をうずめて泣きながら言った。
「……私なんて、生きてる価値ないもん……君がここへ来たのはね、きっと神様が不用品を処分するためなんだなって、思って……苦しい、苦しいよ……もう、早く全部終わりにしたい……」
そんな風に思っていたのか。ゲームをしながら笑っていた時も、自分に他愛のない話をしていた時も、ずっとそんな考えが頭の片隅にあったのか。
気付かなかった自分に呆れる。この自己嫌悪は『怪異』ではなく人間のそれだったが、今の『ベッドの下男』はそこに考えが及ばない。
どうやって慰めればいいのだろうか? どうやって『あなたは生きている価値がある』と伝えることができるのだろうか?
もどかしさのあまり、『ベッドの下男』は自分でも思いもよらぬ行動に出てしまった。
腕を伸ばし、とっさに女の細い左手首をつかんだのである。
「……っ……!」
電気が走ったように女のからだがこわばる。なにか痛いところでもあるのだろうか?
手首をつかんだ手を離してよく見て見ると、その手はべったりと赤黒いもので濡れていた。
深い傷だ。女の左手首を見ると、新旧様々な傷跡がいくつもいくつも肌の上を走っていた。完全にふさがった傷、かさぶたになっている傷、今もだくだくと血を流している傷、傷、傷……
「……あはは、バカでしょ……これ、自分でやったんだ……」
女は空っぽの笑い声と共に告白した。
リストカット、自傷行為というやつだ。それくらいは『怪異』である自分でもわかる。定期的に訪れる長風呂はこういう理由だったのかと理解が及ぶ。
そして、そういう行為に走る人間が精神を病んでいることも。
女はぽつりぽつりと続けた。
「……でもね、こうしないと自分が保てないんだ……自分を罰しなきゃ、生きてちゃいけない自分が生きていくためには、こうするしかないの……これは、私への罰なんだよ……」
違う。
違う違う違う違う違う。
女が罰を受けなければいけない理由などどこにもない。生きていてはいけないなど、そんなはずがあるものか。
『ベッドの下男』はなかば怒りのようなものに突き動かされて再びその左手首を握った。また女のからだが痛みにすくむが、そうでもしなければ気が済まなかった。なまあたたかい血の感触が手のひらを伝う。
生きろ。
大丈夫だ。
なにも問題ない。
そう伝えたかった。
しかし言葉を持たない腕と目だけの自分には、そう念じることしかできなかった。なぜ同じ人間に生まれなかったのか、神というものが存在するのなら胸倉をつかんで問い詰めたかった。
本来はひとを殺す『怪異』であるはずの自分が、なぜそう念じたのかはよくわからない。ただ、女を見ていると薄氷の上を進んでいるような心地がして背中がすくんだ。
女は自分のような『怪異』ではない。
まっとうに生きる権利のある人間だ。
どくん、どくんと波打つ傷口の脈動に、ありったけの思いを注ぎ込む。
「……ごめんね」
とうとう女はうめくように泣き出してしまった。謝られるべきは自分ではない、女自身だ。しかし、こころを病んでしまった女にとって、自分を許すことは容易ではないだろう。
ならば、自分が許してやらなければならない。
たとえどんな形であっても、女が生きていていいんだと思えるように。
それまでは、そばにいなければならない。
ひとりきりにしておくには女は危うすぎる。
それが共依存というものだと気付かずに、『ベッドの下男』は決意した。
女が泣き止み、流れ出た血が固まっても、『ベッドの下男』は左手首を握りしめ続ける。
その手は自分とは違い、たしかにあたたかかった。
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