第40話 王都アクエティナス③
三百段は下りたのではとユリアが考えたそのとき、ようやく地面についた。
安堵のあまり、へたり込みそうな気持になりながら、ユリアは大きく息を吸い込む。
ひんやりした空気には、黴の臭いが入り混じり、深呼吸したことを後悔した。
先に立つカトリナが周囲を確認するように、ランタンを掲げた。
驚いたことに、地下は立派な内装をしていた。
古くはあるが、壁には燭台があり、床には濃紺の絨毯が敷かれている。
「ユリアちゃん、魔法使えるかしら?」
薄暗闇の中、カトリナの声が反響した。
「え?」
「廊下に燭台があるでしょ? 火、つけられる?」
頷いて、ユリアは手近な燭台に近づき、小さくなった蝋燭に両手の平を向ける。
「『勇敢なる炎の神ファイエルよ、私に力をお貸しください——照らせ、炎の灯!』」
蝋燭の上に小さな赤い魔法陣が現れ、ぼっという音がしたかと思うと、三本の蝋燭にそれぞれ小さな火が灯った。
「この先もお願いできる?」
目を凝らすと、先々に燭台が見える。
ユリアは耳を疑って、カトリナを見た。
いくら何でも、どこまで続くかわからない長い廊下の、いくつあるかもわからない燭台に火を灯すとなれば、それなりの時間と労力が必要だ。常識のある人間ならば、そんな無謀な要求するはずがない。
ユリアの無言の抵抗を受けてか、カトリナは面倒くさそうにため息をつく。
「まあ、いいわ。これがあるし」
カトリナはランタンを掲げ見せ、ふんと鼻を鳴らすと、ユリアの前をしゃなりしゃなりと歩き始めた。
カトリナの態度に、ひやりとするものを感じながら、ユリアは両手を胸の前でお椀状にしてから、詠唱した。
「『勇敢なる炎の神ファイエルよ、私に力をお貸しください——炎よ、灯となれ』」
ユリアの手の上に魔法陣が浮かび上がり、その上に小さな炎が生まれた。
それを頭上に放って、ユリアだけの小さな太陽を引き連れながら、用心深くカトリナの後に続いた。
しばらく長い廊下が続いた。
ユリアは妙な胸騒ぎを覚え、辺りをきょろきょろと見回す。
小さな炎のおかげで、視界は良好だ。けれど、見えるからといって、全ての不安が拭えるわけではない。むしろ、増しているかもしれない。
延々と続く濃紺の絨毯、一定の距離を空けて備え付けられた燭台。
同じ場所をぐるぐる回っているのではないかという錯覚に陥る。
ただ、火が灯った燭台はひとつとしてなかったので、それは思い違いにしか過ぎない。
もし同じ道だとすれば、ユリアのつけた燭台があるはずなのだからと言い聞かせ、どうにか自分を落ち着かせた。
そのとき、前方から灯りが見え、ユリアは目を凝らした。
通路の燭台に火が灯っている。しかも壁の両面に対応するように。その先には、四角く切り取られたような青い空間が見えた。
「出口だ」
思わず零れ出たのは、歓喜の声だった。
だが、その声を耳にしたカトリナが急に立ち止まる。
そして、緩慢な動作で振り向いて、呆れたような目をユリアに向けた。
その目を見た瞬間、ユリアは冷水を浴びせられたような気がして、これから起こるであろ得体の知れない不測の事態を前にして、ただただおののくことしかできなかった。
これから起こるであろうことはユリアには予想できない。
けれど、直感的にわかったことがひとつある。
(騙されたんだ)
ユリアは怯える心に叱咤し、挑むようにカトリナを睨みつけた。
「カトリナ、あなた……」
「やっと、気づいたの? 本当、馬鹿な子ね」
不敵に笑うカトリナに、ユリアは奥歯を噛みしめる。
もうそこには、恋人宛の手紙を託した殊勝なカトリナはいなかった。
ユリアを愚かだと嘲る、得体の知れない女が一人いるだけだ。
「でも、馬鹿は嫌いじゃないの。だって、御しやすいでしょ?」
両の拳を握りしめ、ユリアは込み上げてきそうなものをどうにか飲み下して、きっと睨む。
それが今ユリアのできる精一杯の抵抗だった。
「兄妹揃って、笑っちゃうくらい馬鹿なのよね。どうして、あなたみたいな子に素晴らしい力が授けられたのかしら? 神様って本当、気まぐれね」
兄のことを言われたことで、ユリアはカッとして言い返す。
「兄様を騙したの⁉ お腹の子のことも……」
「はっ! お腹の子? 何それ?」
カトリナは両手で腹を抱えるようにして笑った。あまりにおかしかったのか、身を捩るようにして笑い続ける。今まで、耳に心地良いと思っていたカトリナのかすれ声が、ひどく耳障りに感じた。一頻り笑うと、カトリナは目尻に浮かんだ涙を指で拭い、愉しそうに微笑む。
「さあ、行きましょうか。先祖返りさん。あなたの大事な大事なお兄様もお待ちかねよ?」
カトリナは道を開けるように、脇に寄った。
その場で足を止めて、無言の抵抗を続けようと思ったとき、
「お、お前、ユリアか⁉」
いつの間にか、先に見える青い空間に人影が見えた。
「ユリア‼」
「兄様‼」
紛れもない、兄アヒムの声が聴こえると、ユリアの目に涙が盛り上がった。
気づくとユリアは人影に向かって、まっすぐ駆け出していた。
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