サルテパトの戦いは、盾と槍を構えて並ぶバシュタイル軍の陣列に三ドイ(約一〇〇m)の距離まで近づいたガルマル軍が、ヒュウゥゥゥーンと高く空に鳴る音鳴りの矢を放ったのを合図に一斉に騎射を開始したところから始まった。


射ろヤン射ろヤン射ろヤン!」


 ガルマル軍は、各戦線で千人単位の部隊を伸びる鎖のように縦に並んだ陣形にして、バシュタイル軍の陣列にさらに一ドイ半(約五〇m)の距離まで近づかせると、そこで部隊を直角に方向転換させて、敵陣列に平行させての騎射攻撃を行った。各千人隊はこの攻撃を四ドイ(約一三〇m)ほど走りながら行うと後方へと退き、続く千人隊が前線に現れて立て続けに騎射を浴びせ掛けた。この間に後ろに下がった部隊は後方で矢の補充を受けると、矢を放ち終えた部隊と入れ替わりで再び前線に現れて攻撃を行い、敵軍との一ドイ半の距離を保ちながらこの循環を三部隊一組で間断なく繰り返した。ガルマル軍が得意とする輪鎖陣アルバダと呼ばれる連続射撃陣形である。


「怯むな、耐えろ!」


 この攻撃にバシュタイル軍は、降り注ぐ矢に耐えられるよう方形の大盾を前面と上面に並べて構え、この盾の間隙から敵の突撃を防ぐ長槍を突き出した槍方陣テッサルトと呼ばれる密集防御陣形で対抗した。矢に当たって盾持ちが倒れても、すぐに後列の兵に入れ替わって盾を支えるこの堅陣はどっしりと構えて動かず、輪鎖陣アルバダが放つ空を覆うような矢の嵐にしぶとく耐え続ける。

 ガルマル軍の基本戦法は、輪鎖陣アルバダによる間断ない射撃に敵が耐え切れず、後退や反撃の動きを見せて陣列が乱れる隙を狙い、後方に控えさせた精鋭の重装騎兵隊を突撃させる敵陣突破であったが、この攻撃に頑として動じないバシュタイル軍の槍方陣テッサルトに対してガルマル軍は攻めあぐね、戦況は膠着状態に陥った。


「さて……」


 この戦況をバークレイは、バシュタイル軍の陣の後方に翻る銀の半月の意匠を施された軍旗の下で見守っていた。彼の周りには重厚な甲冑と馬鎧に身を包んだ騎士の一団が居並んでいた。銀色の半月旗は精鋭の騎士で編成された重装騎兵隊の軍旗であり、バークレイはこの精鋭部隊の指揮官として、この陣列後方に配置されていた。


「ここまでは兄上の想定通り……」


 そう漏らしたバークレイの息には、呆れとも感嘆ともつかない響きが含まれていた。


『右翼から中央は陣を固めて動かず、敵を拘束する』


 この戦場サルテパトに着く前、皇帝はバークレイとウドの二人を前に、この会戦の図上演習を行った。

 遠征の疲労で明らかに血色の悪い顔をしながらも、その暗緑の瞳だけは爛々とした好奇の色に輝かせる皇帝は、図上に置かれた駒を嬉々とした様子で動かしていく。


『正面突破が困難と考えれば敵は迂回を考える。しかし右翼側には河があり迂回ができない。となると左翼側の段丘との間の空間に目を付ける。ここの突破を敵に狙わせる』


 スッと敵の右翼の駒を自軍の左翼の横へと動かす皇帝に、バークレイは意見を述べた。


『それを防ぐために我が方は左翼に兵力を集めています。敵が警戒なくこちらの作戦に乗りますか?』

『乗せるのだよ、バークレイ』


 その疑問を待っていたかのようにニヤリと笑った皇帝は、自軍の左翼にある大駒をコツコツと叩き、


『私が――皇帝が左翼にいれば、英雄という虚栄に目の眩んだカマルムクは必ず右翼を率いてくる』


 そこから正面に向かい合う敵右翼の駒を指差すと、


『負けなしの順調な侵攻、帝都攻略を目前として起きた後方の危機、その挽回からの皇帝との対峙、激闘、そして勝利――実に素晴らしい英雄譚だ』


 相手に対する哀れみすらも感じさせる嘲笑を浮かべた。


『こちらの将軍どもが初戦で散々に負けてくれたからな。奴はこちらを侮っている。分隊との合流を待たずに決戦を始めるようなら、これは確信していいだろう。さて、そこに勝利の栄光の物語が目先にちらつけば、奴にはこの陣形がこちらの突いて欲しくない弱点を曝してくれているもののように見えてくる。ここを自らの手で突破すれば歴史に名を遺す英雄の称号が得られると――そう奴は都合よく確信する』


 兄の言葉を思い返しながら左翼の情勢を窺ったバークレイは、敵の大将旗である真紅の大軍旗に率いられた敵の右翼が、騎射を放ちながら伸びるようにこちらの左へ左へと動いていくのを見た。


『そこに罠を置く』


 騎射を続けるガルマル軍の右翼が、バシュタイル軍の左翼を半ばほど迂回したときだった。


「綱を引け!」


 バシュタイル軍が事前に戦場の地面に埋伏していた何本もの綱が、先頭を行くガルマル軍の騎馬集団の只中を寸断するように引かれた。


「掛かれ!」


 深く地面に刺さった鉄杭と、攻城用の投石器に使うバネを流用して作られた強力な綱引器の間に固く張られた綱は、駆ける騎馬の脚を易々と払った。至る所で転倒した騎馬に続く騎馬がぶつかり、次々と折り重なって人と馬が潰れながら倒れていく。人の悲鳴と馬のいななきが飛び交う中、間髪なくバシュタイル軍のいしゆみの斉射が放たれ、続く投槍に投石の後、「突撃バーク!」の号令一下に動く壁の如き槍方陣テッサルト槍衾やりぶすまが「偉大なる神に勝利をマラバシュターン!」のときの声とともに混乱するガルマル軍に襲い掛かった。


『悪意というものは、相手の見たい現実の裏に忍ばせておくものだ』


 そうほくそ笑みながら敵の右翼の駒を指で弾いた兄の姿が脳裏に浮かび、バークレイは自分の背筋に震えが走るのを感じた。

 左翼の押し上げにより敵の右翼が押し止められる。事前の策の通りに迂回の阻止に成功したのを見たバークレイは、すぐに次の手を打った。


「舟を出せ!」


 バシュタイル軍の右翼後方、サルテ河の河岸には五〇艘もの舟が並んでいた。両軍がこの戦場に到着する前から用意し、地面に埋めて隠してあった舟だった。バークレイの命令に従って兵を満載したこの五〇艘の舟が、次々と河へ繰り出されていく。皇帝のいるこちらの左翼に意識を集中させていたガルマル軍の裏を掻き、手薄な敵の左翼の側面から河と舟を利用して後方に回り込んでの急襲を掛ける作戦だった。


『そもそも、このサルテパトでの決戦に持ち込んだ時点で、我々の勝利は確定している』


 すべてはガルマル軍の後方線を攪乱するより以前に準備されていた。ガルマル軍の北上に対して逃走するルートもあらかじめ決め、ルートの各所に補給物資を置いて輜重を軽くすることで機動力に劣る歩兵でもガルマル騎兵の追撃に追い付かれることなく移動できるようにした。さらにこうした小拠点に武器を置いておき、小部隊での散発的な攻撃を加えながら逃げる挑発行為を繰り返した。嫌がらせのような攻撃に苛立たされながら、こちらになかなか追い付けないことに痺れを切らした敵が、退路を塞ぐために戦力を分散し出すことも最初からの計算の内であった。

 決戦の地に選んだサルテパトにも十全の準備が施された。サルテ河から舟を使って、綱の罠を作るための資材、大盾や長槍、馬鎧の類など携行するには重い武具などをあらかじめ運び込み、敵に気づかれないように舟ともども地面に埋めておいた。河の水分を適度に含んだサルテパトの赤土は、柔らかくきめ細かで崩れにくい特性の土であり、掘り戻しが簡単で隠蔽に容易という利点も算段にあった。

 対してガルマル軍から見れば、サルテパトは騎兵の運用に有利な平地であり、敵を不利な戦場に追い込んだものと誤認しただろう。こうした油断を生ませるだけの敗戦をここまでバシュタイル軍が重ねてきたことも効果を発揮していた。

 そして最後にこの作戦を確実にするための策として皇帝という釣り餌を用い、カマルムクの功名心を刺激した。

 すべてはこのサルテパトでの決戦に敵を誘い込むための罠であった。


『相手は狩りのようにこちらを追い込んだ気でいるのだろうが、事実はこちらが選んだ戦場だ。カマルムクがここでの決戦を自ら選んだ決断だと錯覚している限り、我らの勝利は揺るぎない』


 バークレイの脳裏で兄は――皇帝は、そう地図に描かれた戦場全体を神のように見下ろしながら笑っていた。

 サルテ河を下った約二〇〇〇の兵を載せた五〇艘の舟が、右翼の混乱に意識を逸らしていたガルマル軍の左翼側面を襲う。見る間に混乱と動揺が敵軍の全線に渡って連鎖していく。


「兄上……あなたという人は本当に――」


 まるで皇帝が生きて指揮をしているかのように展開する戦場に、バークレイは再び呆れとも感嘆ともつかない声を、僅かに目尻を濡らす涙とともに漏らした。


「ウド……兄上はまだ生きている。死ぬには早いぞ――」


 払うように涙を拭ったバークレイは左翼を見遣り、そう誰にも聞こえない声で呟いた。

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