あなたは私で私はあなたではない
埜村修司
第1話 パリで見た青と赤
モデルたちがランウェイを歩き終わるタイミングで、私は聴衆の前に姿を現した。
これまでのデザイナーのやり方を踏襲して、片手を軽く掲げ、軽くおじぎをし、10秒ほどフラッシュの銃弾を浴びて退いていった。
このフラッシュ弾を体に受け止め、私は死ぬ。ショーのコンセプトや使用した素材、プロデューサー、モデルまでの一切をここで全て捨て去る。そして最後に私自身も捨て去る。言葉で書くとシンプルだが、これは非常に困難なことだ。と言うか、実現不可能だ。少しでもこの状況に近づけるためには、ブランド自体を消滅させるしかない。
このような信念を打ち明けると、多くの人は私が常にアヴァンギャルドを求めて、世の中にインパクトを与えることしか考えていないと非難する。他のデザイナーと違う行動を取ることで、注目されようと躍起になっていると。けれど、一部の批評家やモデルたちは私のやり方に理解を示してくれる。普段、動物園の飼育員をしているモデルSは、
「このブランド名でモデルができるチャンスは、誰でも一度きりしかありません。そんなブランドのショーに出れることはすごい名誉なことです」そう言われると私も少しだけ肩の荷が下りた。
今期は動物性由来の素材は一切使わないというコンセプトのもとで行った。しかし、新しい私は動物性由来の素材を多用するかもしれない。なぜなら、次のブランドと前のブランドとの間には連続性は全く存在しないからだ。それはデザイナーの「私」にも言えることだ。
Sは恐らく、次シーズンもランウェイを歩けるとしても参加は拒否するだろう。それは私が二期続けて同じコンセプトを用いることはないから、次は多少なりとも動物性由来の素材を使う可能性があるからだ。これは彼女がただの動物愛護者という仮定での話だけど。殺傷を許せないという主張のみで、動物性由来の素材を使用した衣服を拒絶する人々の態度を私は理解できない。「殺傷」は生物を傷つけ命を奪うことだとしたら、それは動物以外も該当する。植物の命を奪うことに抵抗は全くないのだろうか?
そう考えると究極のファッションは何も身にまとわないことだと思う。誰も傷つけず、誰からも奪わないファッションを実現するにはこれしかない。身にまとわないことをデザインすることもデザイナーの仕事だ、自分にそう言い聞かせてみる。
「さすがにそれはただの目立ちたがりと言われるでしょ。それだと本当にただのショーになってしまうわ」パートナーのLはコーム替わりに指を使って髪を整えながら、こちらを見ずに言った。パリのトーキョー通り沿いのホテルで私たちは、来期のコンセプトについて何となく話をしていた。とりあえず、このまま2ヶ月ほどパリに残って自由に過ごそうと考えていた。
私はLの意見にはすぐ回答せず、室内のBGMをオンにした。上質なクラシック音楽がピークの途中から流れたが、私が今求めているのはミスタードーナツで流れているような、鼻をつまみたくなるような生臭いアメリカの大衆音楽だった。私にはまだクラシック音楽の良さは分からない。今後、状況が変わる見込みは今のところない。
Lは私の反論を待っている様子もなく、上着を脱いでハンガーにかけていた。私は今ここで覚醒したかのようにガラッと話題を変えてみた。
「私たち人間が五感を通して認識している事実って、本当に事実と思う? 多くの人が認識した特徴が一致しているから、その事象は真実となってしまう。でもその事象は、ある人は全く違うように認識しているかもしれない。そう考えるとこの世の中、色んな価値観や宗教、政党、認識されうる物事はすべて多数決というものを無意識に前提としているのね」
「あなたはいつも、急に話が飛躍して普遍的な真実を定義したがるよね。でも今回はあなたの意見に賛成する。真実は潜在的な多数決の元で成立している。そして、時代を変えるような革命を起こすのは、いつも少数派なのよね。あなたのように」
Lはこの議論を早く終わらせようとして、私の意見に賛成しているように感じた。
「私は別に目立とうとして少数派を選んでいる訳じゃないのよ。ただ、多数決を基本とした世界にいるのが怖いだけなの。多くの人はそれが安心要素になるんだろうけど、私はそれを疑う余地も与えない仕組みに仕上がっていることが恐怖でならないの。例えば、人間には必ず母親と父親がいるという事実。でも精子と卵子を人工的につくり上げて、無理矢理受精させて私が生まれてきたかもしれない。私のトレードカラーのブラックも、グレーに見える人だっている。ブラックをグレーにできる能力が世界には必要なの。いきなりホワイトでもいいけど、私はグレー派ね」
私は革張りのソファーに腰を下ろした。こんな事を言うなんて、疲れているのかもしれない。ショーが終わった今は、ただ他愛もない話でリラックスしたいだけなのに。私はイヤホンをして、チャック・ベリーの「Roll Over Beethoven」を再生した。ベートーヴェンをぶっ飛ばしたくらいの達成感を今感じている。けれど素直に喜びが湧いてこない。あのベートーヴェンをぶっ飛ばしたというのに。
私はフロントに電話をしてタクシーをお願いした。
「できるだけ早くお願い。ふかふかのシートがあって話しかけて来ないジェントルマンのドライバーのタクシーを」と英語で言った後に、「シルブプレ」と頑張って付け加えた。しばらくしてフロントから電話があり、エントランスまで降りると、一台の真っ黒なオースチンが停まっていた。明らかにロンドンタクシーだが、ここはパリである。
「パリの街を適当に40分くらい走って、あなたが今の私にふさわしいと思う場所に連れて行ってくれませんか?もちろん、今の私のコンディションを伝えるので」
30代半ばくらいの鼈甲の眼鏡をかけたアジア系の男性ドライバーは、バックミラー越しに私を見つめ、
「かしこまりました。まずあなたからお話を聞く前に、パリの街中を走ります。その間にお話したければ自由にお話し下さい。もちろん、話したくなければ話さなくて大丈夫です」
タクシードライバーはそう言うと、今度は私の方を振り向いて私の表情を確認した。そして、ブルース・スプリングスティーンの「Dancing in the dark」を再生した。
「お待たせしました、発車します。あなたの世界にゆっくりと浸って下さい」
子どもが小さい時、夜泣きしてなかなか寝つかない時に、娘と2人でよく夜の街をドライブしていたことを思い出した。なぜかは分からないけど、赤ちゃんはドライブが大好きだ。あの振動とエンジン音は、赤ちゃんにとって一番の子守唄なのだ。
そして今日は、私が赤ちゃんになる『時』だ。ショーが終わって、私は生まれ変わり、赤子のように無になる。ちょうどスプリングスティーンが、
「wanna change my clothes, my hair, my face」と叫んだタイミングで、私は私を捨て去った。緞帳が降ろされるように、私はゆっくりと目を閉じた。そこからいっときの間、死へと繋がるような混沌とした無と向き合うことになる。それは、まだ朝霧が立ち込める森にある湖に足を踏み入れ、歩みを進め徐々に体を浸していくような感覚だ。耳は耳栓をしたかのように水に塞がれ、水中のエコー音が聞こえるのみ。目を見開いても、そこにはぼやけたカオスが視界いっぱいに広がっている。
私は内側に意識を向けるしかない。私を取り巻く外界は、私を決して受け入れることはない。私は意識の内側にある漆黒の世界に、死を求めた。それは強引に求めてもやって来ない。求めすぎると磁石のN極とS極のように、近づいた分だけ離れていってしまう。時間はかかるかもしれないが、穏やかに待つしかない。
するといつものように、二十分しないくらいで徐々に首筋からほっぺ、おでこにかけて、焚き火の前にいるような暖かさを感じてきた。そして、右側から赤い光を漆黒の世界で確認すると、私は混沌の湖から勢いよく顔を出した。
「Welcome Back Reborn, Madam」
黒のオースチンは、ムーラン・ルージュの前に停車していた。私はお金を払ってオースチンの扉を開け、ムーラン・ルージュの前に立った。真っ赤な建物に黒のオースチンという組み合わせは、新しい私の象徴となるだろう。ここから人生がリスタートするのだから。
2
都会の雑踏の要素をたっぷり含んだ強い風がいっとき続いた。パリは十分に寒いのだが、なぜか寒さを感じない。よく見ると私は、分厚い毛皮のコートを羽織り、UGGのブーツを履いている。さっきまでこんな重装備はしていなかったはずだが。
オースチンに乗る前の私の服装を思い出そうとしていると、脇腹のあたりにチクチクと違和感を感じた。コートの中を覗いてみると、私はなぜか何もまとっていない。コートの内側の毛が優しく私の肌を突いている。本当の赤ん坊のように「新しい私」は、何も身につけずに生まれてきたのだろうか。生まれてきたばかりの赤ん坊は、もう少し肌に優しい生地で包んであげた方がいい。そうでなくては、まるで初めて訪れた世界から歓迎されていないかのようだ。こんなに早い段階から、この世界に対して反骨精神を養う必要はない。それは雑草のように、嫌でも後々生えてくるのだから。
このようにあれこれ考えていると、私の陰毛だけが毛皮の攻撃に応戦していることに気がついた。私の陰毛は人生で初めて役に立っている。これまで何のために存在しているのか全く分からなかった物事が、私の知らないところで役に立っている。
私はムーラン・ルージュに入らないわけにはいかなかった。ここにこれからの私のヒントが必ずあるからだ。中からは上演中の音楽が僅かに聞こえてくる。上演中に入っていいものか、ためらっていると隣で私を見つめる少年がいることに気がついた。いつからこの少年は私の隣にいたのだろうか。その少年は恐らく7〜8歳くらいだろう。黒のくたびれたピーコートに赤いトラウザーズをはいている。
「こんばんは。あなたもムーラン・ルージュに来たの?」私は少しかがんで聞いた。
ムーラン・ルージュは小学生が来るような場所ではない。分かっているけど聞かない訳にはいかなかった。
少年は見下した目つきで、私を見た。子どもが持つ曇りのない、南国の海のような透き通った瞳は、はるか昔に置いてきてしまったようだった。私より背の低い少年が、背の高い私を見下ろすことは物理的に不可能なのだが、その物理的障壁は存在しないかのように、下から私を見下ろしている。
「そんな訳ないでしょ。僕はあなたに会いに来たんだよ、お父さんに言われて。でも人違いだったらごめんなさい。父に言われた人があなたかは自信がないから」
ピーコートのボタンはブルーの陶製で、くたびれた生地とは対照的に永遠に失うことのない生命力に溢れた輝きを放っている。
「あなたのコートのボタン、とても素敵ね。ちょっと触って見てみてもいいかな?」
「いいよ。僕の自慢のボタンなんだ。唯一の宝物。第二次世界大戦の頃のものらしいよ。国中の金属は戦争で使われたから、当時のボタンは陶製なんだって」
同じブルーでも5つのボタンの色は、それぞれで少し異なる。窯の中の置かれた位置によって、仕上がりの色や形に影響してくる。
それは何十年も前のものなのに、つい先ほど窯から出されたかのように滑らかだった。人類のエゴが生み出す戦争によって、否応なく素材が変わった陶製のボタン。それが、ダイヤモンドよりも崇高で魅力的な輝きを放っている。戦争が生み出した偶然の美。その美しさを少年は理解しているようだった。そのブルーは私にジョニ・ミッチェルの「Blue」を連想させた。
「素敵な宝物ね。こんなに美しいものを見たのは、いつぶりかしら・・・」
私は独り言のようにつぶやいた。
「あなたはこれまで、たくさん美しいものを見てきたんじゃないの? 多くのものを犠牲にして。つまり、僕のような貧しくて恵まれない人間を踏み台にして、美しいものを見る機会を得てきたんじゃないの?」
無垢であるはずの子どもがトゲのあることを言うと、それは肉体の奥深くまでナイフでえぐられたような痛みへと昇華される。少年の瞳は怒りで満たされ、瞳に収まりきれず溢れ出そうであった。
パリのエキスを含んだ風が私たちを包み、私たちの間を取り持ってくれているかのようだった。パリにはそんな力があるのかもしれない。
「君の言うとおり、私は美しいものを見るチャンスを多くもらってきたわ。そして、直に美しいものを見てきた。でもいくらたくさん見てきたからと言って、美しいものに出会いたいという欲求は尽きることがないの。強欲と言われれば、その通りなんだけど何歳になっても美しいと感じたものには素直に反応したい。今日みたいに、思いがけずに出会うなんて最高よ」
「思いがけず出会うものが、人の人生を変えてしまうんだよね。僕も美しいものとの出会いで人生が変わればいいのにな」そう言う少年の目には、もう怒りは存在していなかった。
「これからの長い人生でいくらでも出会えるわよ、心配しなくても」私は満足げに言った。日曜日の朝のようにどこまでも爽やかな気分だった。ジョン・レノンの「Starting Over」の新たな船出を象徴するような鐘の音が聞こえてきた。
3
私は少年の手をひいて、まるで親子のようにムーラン・ルージュの中へと入って行った。というか、少年から私の手を取って入口へと向かったので、「私」が主語なのは少し違和感があるのだけど。しかし、周りから見ればどう見ても「私」が手をひいている。少年は質素な服装ながらも、自分の洋服のレパートリーの中から精一杯に正装して、ここに来たのだろう。最初からムーラン・ルージュが目的だったのだ。
寝返りが打てないほどお腹がぽっこりと出た案内役のおじさんに連れられて、私たちは前から十列目くらいのテーブル席に座った。映画の「バーレスク」で見たような、金の魚の鱗をつなぎ合わせて作ったような衣装を身につけたダンサーたちが、きれよく音楽に合わせて踊っている。私がこれまでデザインしてきた服装は、どちらかと言うと華美な装飾は避け、シンプルの中に隠し味のようなアクセントを加えたり、生地を生かした造形で表現していたから、ダンサーたちの衣装は予期せぬ突風のように私に衝撃を与えた。もちろん、このようなジャンルは知っていたけど、直にこれらの衣装が実用されているところを見ると、そのパワーに驚いた。やはり衣服というものは、目的通りに使用されて輝きを手にするのだろう。
真っ白なテーブルクロスの上には、パンプキンのスープをはじめ、真っ白なお皿に盛られたシンプルな肉料理やバスケットがセットされている。途中から入ったので、コース料理が全てサーブされていた。ドリンクだけオーダーを取りに来たので、私は白ワインを頼むと、少年も同じものを注文した。スタッフは少年の年齢を全く気にすることなく、そのまま引いていった。私は少し焦りながらも、少年に年齢を聞いてみた。
「8歳で止まってるよ。アニメの中のチャーリー・ブラウンみたいに」少年は少し笑いながらそう言うと、ダンサーの方に目を移した。ムーラン・ルージュは法律の支配を受けない治外法権のような効力を持っているらしい。
「オッケー、チャーリー・ブラウン」私もダンサーの方に視線を戻した。そして、これまで美味しいと感じたことのない白ワインを飲み干した。
ショーも終盤に差しかかると、少年はフォークでグラスの縁を一回たたいて鳴らし、
「あれ、僕のお母さんだよ。僕のお母さんはダンサーなんだ、パリ一のね」と言った。
チャーリーのお母さんは、他のダンサーとは違って真っ白なドレスを着てステージ中央に現れた。会場いっぱいの赤の中に、彼女の白は他のどの色よりも目立っていた。これまで華やかに見えていた色たちが、モーセが海を真っ二つに割いたように脇にそれていった。
そして白以外の色たちは、セピアの膜がかけられたみたいに色褪せ、レトロの世界へと去っていった。エジプト軍が海に飲み込まれたように、観客もセピアの膜をまとってレトロの海に飲み込まれていった。変わらず周りの雑音は聞こえるが、このムーラン・ルージュはチャーリーと彼のお母さん、そして私の三人のために用意されたもののように感じられた。
彼女(つまりチャーリーのお母さん)は、決して激しく動くことはなく、ゆっくりとしなやかに体を動かしていた。何もかもが他のダンサーとは対照的だった。
きっと彼女は元バレエダンサーなんだ、本当はオペラ座バレエ団で活躍したいけれど、そこで活躍できるのはほんの一部のバレリーナだけ。収入のことを考えると、お金になるムーラン・ルージュで働くしかない・・・私はそうストーリー付けた。そう考えると、彼女は観客が期待するものとは正反対の演技を意図的に見せつけ、自分自身の「nobleness(高貴さ)」を保っているように見えた。
職を失うかもしれないリスクを冒してまで、自分の高貴さを保つには一定の覚悟がいる。そして、その表現は挑発的であると同時に、とても魅惑的である。私もデザイナーとして成功するまで、望みどおりのブランドやデザイナーと仕事ができないときは、チャーリーのお母さんのように、僅かにでも自分が信じる高貴さを保ち続けた。それが一部の人に魅惑的に映ったかは分からないけど、そのスリルを楽しんだものだ。そう、どんなどん底にいても人間は自分の「dignity」は保てるのだ。彼女がどん底にいるわけではないけど。
その行為は人々に衝撃と感動を与える反面、新しいものを拒む保守派には悉く受け入れられない。しかし、私はその反応も好ましい反応として楽しんだ。私が時代の何歩も先を行っていることの一種の証明なのだ。一つ注意しなければならないのは、感動してくれる人が一人でもいいからいること。そうでなければ、それは本当に価値のないものになってしまうかもしれない。
カラオケボックスの近くを通ると聞こえてくるような、曇った音のかたまりが私たちのテーブルに届いて、そのかたまりがレコードのようにターンテーブルに載せられて、音声信号が読み取られると、やっとクリアな音が私たちにも届けられた。
チャーリーのお母さんが観衆から受ける拍手喝采。その音が少し時間を置いて、私たちにも届けられた。満足した様子もない彼女は、笑顔一つ見せずステージ裏へと引いていった。
テーブル越しに座るチャーリーは拍手することもなく、残っている白ワインを少しずつ口に運んでいた。
私たちは外へ出ると、チャーリーのお母さんが出てくるのを一緒に待った。会場の熱気が外まで運ばれていて、少し汗ばむほどであった。観客たちは茹でたてのジャガイモのように、ホクホクと湯気を立てながら、満足げに帰路についていた。
「そう言えば、あなたのお父さんはなぜ私に会いに行くようにあなたに言ったの?」私は思い出して言った。
立ち位置が正しいことを確かめるみたいに、チャーリーは二度ほど足踏みして、
「人違いだったみたい。お父さんは日本人でエクボのある女性だと言っていたけど、あなたにはエクボがないから・・・アジア系の女性を見つけて、駆け寄ったら日本人のあなただったんだ。人違いだったけど、あなたとショーが見れてとても楽しかったよ。それにしても、日本人や韓国人、中国人を外見だけで見分けるのは至難の業だね」
少年は少年らしい笑い方で笑った。
「私がイギリス人とフランス人とドイツ人とスウェーデン人とフィンランド人と・・・挙げるとキリがないけど、彼ら彼女らを見分けられないのと同じね」
「いいよ、そんなに僕に対抗しなくても。僕も彼らを見分けることは難しいけどね」
チャーリーは私を見上げて続けた。
「人ってなんでそんなにどこの国かを気にするんだろうね。どこの国の人なんか気にせず、コミュニケーションが取れれば世の中変わるのにね」
私はジョン・レノンの「Imagine」を連想しない訳にはいかなかった。
「もう少し少年らしい話をしてよね」私は少年の肩に手を置いた。
「トーキョー通りまで送ってくれる?」少年は言った。
「あなたのお母さんはどうやって通ってるの?」
「僕のお母さんは僕を産んで三年後に死んだよ」間を置かずに、淡々とチャーリーは事実を述べた。
「あなたのお母さんは、今日のショーで拍手喝采を浴びたパリ一のダンサーじゃないの?」
私も淡々と聞き返した。
少年の目には感情というものが一切、現れていなかった。しかし、陶製のボタンのブルーと同じ色の瞳が少年の過去の悲しみを、時をさかのぼって私に伝えてきているようだった。
「僕はいつも想像するんだ。あの人、この人が僕のお母さんだったらって。今日のお母さんがたまたまダンサーだっただけの話」
チャーリーは日常の習慣を説明するように、きっぱりと言った。
「今日のお母さんは、朝起きるとミキサーでスムージーを作って、野菜サラダにコーンフレーク、ヨーグルトという朝食を用意してくれる。僕には物足りないけど、十分すぎる栄養と愛情を吸収することができる。そして、クラシック音楽を流しながらバレエを僕に教えてくれる。僕は愛情と高貴さをもって、優越感に浸りながら、何不自由ない人生を送る・・・
そういう人生を送れる人もいるんだね、この世の中には」
ムーラン・ルージュの赤いネオンの光が、少年の陶製のボタンを光らせていた。
「今度は私がお母さんになるわよ、私でよければ。バレエダンサーの彼女みたいに、優雅な朝食は用意できないけど」
私は慰めではなく、本当にチャーリーのお母さんになってもよいと思ったのだ。
チャーリーは笑みを浮かべるだけで、何も言わなかった。
「私はデザイナーの仕事をしているの。よかったらあなたの服をデザインさせてくれない?」私は少しでも母親に相応しい能力を持ち合わせていることをアピールしたかった。
チャーリーは私を傷つけない回答を、頭をフル回転させて導き出しているようだった。一休さんがウィットの効いた答えを出すまでの過程と同じように、彼は上目遣いで人差し指で頭を掻いた。
ちょうどその時、小雨が降り出した。彼は雨に打たれて答えが導き出されたのか、
「少ないけど服は持っているから大丈夫。このコートだってすごくお気に入りなんだ・・・あなたには陶製のボタンをデザインしてほしいな。同じ服でもボタンを変えると別物に生まれ変わるじゃない。何かとサステナブルが叫ばれて、聞き飽きてきたワードでもあるけど、陶製はまさに今の時代にも即しているんじゃないかな」
戦争がもたらした陶製ボタンと、地球の叫びがもたらす陶製ボタン。破壊と自然がもたらす陶製ボタン。結果は一緒だけれども、その過程は正反対だ。
少し制御が効かない脳のふらつきがやってきた。いつもこのふらつきがやってくると、私は何かに取り憑かれたように創作活動へと入る。そして、他の物事が一気にちっぽけなものへと変容する。
「ボタンのデザインね・・・ありがとう。私はいつかあなたのお母さんになれるかもしれない」
私はそう言いながらも、母性本能よりもデザイナーとしての血が体中の血管を支配していた。
私たちはタクシーを拾って、最初にトーキョー通りの彼のアパートに寄った。
「今度、いくつかボタンのデザイン画を持ってくるわね。いつが都合がいいかな?」
「僕は大抵、家にいるからいつでもウェルカムだよ」
そして彼は少しためらってから、
「僕の陶製のボタンを一つ君にプレゼントするよ。これを一つの参考にしてみて」
彼はそう言うと、コートの一番下に付いているブルーの陶製ボタンをもぎ取って、私に手渡した。お礼を言って私は彼の魂の一部を受け取った。アパートに入っていく彼の後ろ姿は、臓器の一部を摘出されたばかりの人のように、どこか均衡が崩れていた。
あなたは私で私はあなたではない 埜村修司 @Nomura_Shuji
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