第26話 本来の名を

 壇上、足を滑らせ倒れ込むココロの手が、先ほどまで縛り付けていた椅子を倒す。今まで見たこともない彼女の怒り、憎しみ、その形相に、たじろぐことしか出来なかった。

 立ちあがろうとするココロの身体は起きあがろうともがいているが、先程まで自由を封じられていたその身はなかなか言うことを聞いてくれないようだった。そんな様子を、脇腹から血液を流すシークは膝をついて見守っている。

 ふと、ココロの手から放たれた刃を拾い上げる影。シークの腕が狙いを定めた先、眼前の嫌な予感が暴走する。

 荒い息、吐瀉物で身体を染め、もうなにもかもがぐちゃぐちゃになったココロの丹田の辺りへと。鋭利な銀色が、振り下ろされた。

「だっ、ダメだよココロちゃん⁉︎ココロちゃんはとっても優しい子でしょ⁉︎こんなことっ……こんなことしちゃダメなんだよ‼︎」

 シークの、精一杯が込められた迫真の声。呼応するよう、何度も何度も、ココロの腹部を抉り取るようにして、果物ナイフを上下に振り回す。狂ったように、生々しい肉の裂ける音が飛び交い始めた。

 もう、隙など言ってられない。今すぐに飛び出し、シークを討つべきだろう。隣に立つレクトの顔など気に留めることもなく、その一歩を踏み出した。

 途端、右脚を掴まれるような感覚を覚える。眼を向けようと、何も存在してはいないというのに。目と鼻の先にて行われる、残虐の一途へ、己の中の恐怖心が止まれと語るのだろうか。

 否、そんな思考を遮るよう、脳内に声が響いた。

 

『まだ駄目だ。私はあの娘の死を持って覚醒する』

 

 聞いたことのない声。誰だろうか。少なくとも、身体の自由を奪う主である事に違いはなさそうだ。

「どうしてなの⁉︎とっても優しかったココロちゃん、なんでなんでこんな事するの⁉︎教えてよぉ、ねえ、ねぇ‼︎」

 神に祈るように。両手を合わせるその仕草は、救済を求める信者のように。ただ、握られたものが、一つの生命を終焉へ導こうとしていることだけは明白。

 ココロの魂は、癒しの力。だが、自分自身には使えない。止まることのないシークは、未だ矛盾の根源の如くココロへ問いかけていた。もう、聞こえてすらいないかも知れないというのに。

 動かない身体、理由も見えず。辛うじて見えたレクトは、この光景に膝を突き同様に胃の中身を押さえ込んでいる。きっと、姉のことを思い出しているのだろう。

 シークは、途端に立ち上がる。一目でわかるような、死んだ眼をしていた。横たわるココロの身体は、既に微動すら放棄してしまったようだ。二、三程度の段差を、ココロの血液が流れ落ちている。とまることなく流れ出し、その場に溜まっていた。

 二年と少し、共に過ごした家族を。何も出来ず、眼前の悪鬼になす術なく抉り殺された。動くことができたなら、今よりもどれだけ良い未来が実現できただろうか。変わらない事実を前に、怒りなのかも分からない感情に、思考は止まっていた。

 

『あぁ、そうだ。怒りに任せろ、それでいい。さぁ、暴れよう』

 

 特に、関係のない事象はすっぽりと消え去った。眼前で呆ける一人の女郎だけを視界の中心に写し、声の主にただあやつられるように。自我など、とうに消え去っていた。

 

『そういえば、伝え忘れていたな。貴様に宿る魂の、本来の名を——』

 

 その名を、呟く。

 

「『血喰魔剣ダーイン・スレイヴ』」

 

 

 全身が焼けるようだ。だが、感覚の一切に向く意識は瞬時に忘れ去る。走り出す視界、自身が今までの力で出せるものではない。早すぎる移動に戸惑おうと、やはり感覚や感情さえも瞬間に消えてしまうのだ。

 こちらに気付いたシークは防御体制を構えるが、いつの間にか振り抜ける己の拳が跡形すら残さず跳ね飛ばしている。激しい衝突音の向こう側、ステンドグラスを粉にして壁へ叩きつけられる姿が傷口を拡張して佇んでいた。

 

 僅か、零点四秒にすら及ばない須臾しゅゆの出来事である。

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