霊魂転生〜ガイスト・リンカーネイション〜
軍艦 あびす
プロローグ
第1話 輪廻転生
曰く。人間の限界というものは、思ったより簡単に身体を蝕んでいくようで。
曰く。人間の限界というものは、本人が気付かないうちに通り越しているようで。
ただ、そんな事を脳内で嘲笑しながら、一番上のボタンに手をかけた。今日は放課後の五時間、時給千三十円により五千百五十円の収入だ。
明日の朝食となる、特売のあれやこれやをエコバッグに詰め込んで、片手に。今にも崩れそうな、ボロボロのアパートの一室を目指して、やかましい音を立てる錆びた鉄の階段を登った。
我が家に帰宅するや否や、気になるのは我が家の亭主関白の顔色。元々、なにかと悪い武勇伝の多い男だ。強引に封じ込めたかつてのギャンブル依存も、母の死から度を増して再発している。
つまらなさそうな顔で、チープな恋愛ドラマを眺めていた。この後、恋人が死ぬ展開なんかが訪れたら、またヒステリックを引き起こしてしまうかもしれない。それだけが、懸念だった。
一方弟の
シンクに積まれた汚れた食器を後回しにして、ひとまず風呂へ入りたい。だがその前に、母の仏壇の方へ向かう。
いつも通り、正座で向かい合う。おりんを鳴らして、掌を合わせた。
ふと、変化を確信した。仏壇に備え付けられた引き出しが、少し開いた痕跡を残している。恐る恐る戸を引き、中からいつも通りの木材の独特な香りが漂ってきた。だが、視界に映っている光景は、いつもとは違う。
母の形見。うしろでふんぞりかえる亭主関白が送った、小さな小さなダイヤモンドの埋め込まれた指輪。跡形もなく、ただ、底の木目がまるで瞳のように、こちらを凝視しているようだった。
「……親父、母さんの指輪知らない?」
なんとなく。察してしまったのだ。この一言が、どれだけの地雷を踏み抜いているのか。十七年も共に生きてきた父の性格など、手に取るように分かる。
無精髭をボリボリと掻きむしりながら、父は舌打ちをする。続けざまに、言葉を発した。
「翔也ぁ、てめぇの稼ぎだけじゃあ食っていけねえだろうが。分かるだろ、売ったんだ」
それなら、お前も働けよ。などと、口にできる家庭には無い。歯を軋ませ、あたかも平穏を装うように、返答をした。それなら仕方ない、と。自分に嘘をついて、強引に納得させようとした。
「で、いくらになったんだよ」
話に割り込むように、椅子の背もたれに体を預け、のけ反りこちらを向く翔吾の声。まるで、汚泥の蛭をみるような眼をしていた。
「あぁ……まぁアイツが大事にしてたお陰で、一万ってとこだ。相場で見たら割と高値で買い取ってもらえたな」
とてつもなく、軽薄。この男は、精神を病み、働く事をやめたのではない。ただ、母の死に便乗して楽な生活を選んだに過ぎないと。今、確信に変わった。大方、もうその金すら手元には残っていないのだろう。
「親父、今日パチンコ行ったのか」
翔吾の言葉を、耳に小指を突っ込みながら適当な表情を溢す父。母は何故、このような男と生涯を共にしようと誓ったのだろうか。
「あぁ、完敗だ。前回の貯蓄玉まで全部無くなっちまった」
「……そうかよ」
立ち上がり、ふらふらと父へ向かう翔吾の姿が映る。喧嘩早いと言えど、父に手を挙げればこの家に居場所が無くなる事。それを理解し、今まで父の蛮行に耐え忍んできたのだろう。だが、何かが吹っ切れてしまったようだった。
だからこそ、止めなければならない。既に壊れてぐちゃぐちゃの我が家が、これ以上変わるとしたら悪化の未来しかない。それならば、この現状を維持し続ける事を選ぶ。
翔吾の肩を掴み、精一杯こちらへ引き戻す。普段から喧嘩やらで動き回る翔吾の身体はしっかりと前進するが、なんとか押さえ込む。
「離せ兄貴……俺はもう我慢出来ねえんだよ‼︎」
「だとしてもそれで何か変わんのか⁉︎考えてみろ‼︎」
暴走する翔吾は、力を増すばかり。育ち盛りに満足に飯も食えず、飢えに飢えている身体のどこにそんな力があるというのか。くだらない思考の末、翔吾は拘束を抜け出していた。そのまま、一直線に、父の顔面を強烈な右フックで殴り抜けた。
「……テメェ、親に手ぇあげるたぁどういうワケだ?」
取り返しのつかない、崩壊の加速。宵の十時にボロ屋敷を埋め尽くす、声の群れが放たれた。
「うるせぇ……お前が母さんをどんだけ雑に扱ってたか俺は分かってんだよ‼︎ふざけやがって……母さんじゃなくてお前が死ねよ‼︎」
今更、何を言っても変わらないだろう。
ここから和解して、幸せへ向けて歩き出すなんて。あの指輪に埋め込まれた、小さな小さなダイヤモンドよりも、遥かに小さな可能性だって、ありやしない。
「……あの女、生意気なガキ産みやがって。とんだ魔女だ、お前らの大好きな母親はよぉ」
父は、立ち上がって台所へ向かった。何をしようと企んでいるのか、すぐに分かってしまった。今すぐにでも、翔吾を連れてこの家を飛び出すべきだ。
「翔也ぁ、てめぇは俺についてくるよな。翔吾が居なくなったらお前の稼ぎでも、まぁ腹満たすくらいならできるだろ」
「やめろ親父ッ……‼︎」
汚れた食器に満たされたシンクから、水をぽたぽたと垂らしながら姿を現す刃。この家に一本しかない、人の命を奪うのに特化した道具だ。
父は凶器片手にゆっくりと迫り、翔吾の右目玉を目掛けて振り下ろす。流石に威勢を失っていた翔吾は、ただ口を開けて立ちすくむばかりだった。
そんな姿が見ていられなくて。ただ、別に兄として云々ではない。一人の人間として。いや、やっぱり少しはエゴがあるかもしれない。一人だけの、兄弟なのだから。
覆い被さるように、翔吾の盾になる。翔吾が玄関の方向に向かうように。父の行手を阻むように。
「逃げろッ‼︎翔吾ぉ‼︎」
「兄貴ッ……⁉︎」
「うるせぇ早くいけ馬鹿お前‼︎警察呼ぶんだよ‼︎」
朦朧とした意識の中。父の胸ぐらを精一杯掴み、体重のまま前方へ倒れて、少しばかりの時間稼ぎをしてみたつもりだ。
父は、学生時代の馬鹿な行為を武勇伝と語った。見知らぬ女を何人孕ませただとか、警察を刺したとか。
多分本当なのだろう。そうでなければ、肋骨の存在を理解し、包丁を横向きに持って刺しにかかるなんてしないはずだ。映画でもなんでも、大体は縦に持っているというのに、この男は確実に内蔵へ届くルートを理解していたのだ。
こんなしょうもない考察をしながら、父の真上に乗ったまま。
力が抜け、意識が遠のき、視界が閉じた。
※
何もない。無が支配する空間に、一人立ち尽くしていた。気がついたのは、三秒程度前の話だった。
父に刺され、というか、翔吾が反抗を露わにした時点で、なんとなく死を覚悟していた。だというのに、何故か。訳がわからないまま、意識を保ち、己の脚が重心を支えていた。
一歩、進んでみる。普通に歩ける。
そのまま、もはや何が正解かも分からないが、ただ進み続けた。多分天国とか地獄とか、そういう所だろう。もし仮にそうでなかったとしても、死んでいるからどうでもいい、などと考えていた。
途方もなく歩き続け、一点、無の世界に一つの影を発見する。景色の向こう側、一つの玉座に君臨する、威厳に溢れた少女の顔が見えた。
「巳月翔也……だな」
立ち上がり、こちらを凝視する。思っていたよりも身長が低く、中学生くらいか。翔吾より、一回り小さい程度をしていた。
「そうだけど……あんたは誰だ?んでここは一体……」
少女は表示を固めたまま、もう一度玉座へ座り込む。肘をついて、続けた。
「私の名はナラク。命を受けパ……閻魔大王管轄のこの場を治める者だ」
パパって言おうとしたなこいつ。年相応だ。
いや、今は眼前の粗に苦笑をこぼしている場合ではない。恐らくこの場にてナラクとやらと邂逅した事により、次の進展があるはずなのだ。ていうか閻魔大王か。なんか悪いことしたかな。
「そして……ここは『深淵』だ。死した人間がごく稀に辿り着く場所、人生終了後の低確率出現エクストラステージみたいなもんだな」
一回しかないような、人生の終着点にエクストラステージなんか作るなよ。などと呆れてみる。
誰かが言った、人生はクソゲーとは。まさか本当にゲーム感覚とは思うまい。
ナラクは人差し指を宙に翳す。何やらハイテクな、宙に浮いたタッチパネルが現れる。アメコミ映画とかでたまにみるやつだ。
「弟を庇って父親に刺され死亡、明確な死因は内臓破裂による出血多量か……」
やはり、刃はあの時点で内臓まで届いていたのだろうか。いつか父に殺されるのではなどと考える日もあったが、まさか本気でそれが実現するとは思うまい。
「てか、翔吾はどうなったんだ⁉︎」
最優先の懸念。命を張って逃した翔吾の行方が、気掛かりだった。
「知らん。そこまでの情報は持ち合わせていないのでな」
「そうか……」
結局は、何も分からぬまま。なんとか逃げ仰せて欲しいと願うばかりだ。そうでなければ、命を張ったというのに、己の中で不甲斐ない兄と成ってしまう。
「それで……俺はこれからどうなるんだ」
ナラクへ問う。まさか、この空間で無限の時を過ごせとは言うまいな。
「お前の境遇、辛い思いもしただろう。そんな記憶は全て消して、一から生きるのだ。ここに来た人間は、即輪廻転生が決定する」
輪廻転生。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つに分けられた世界に、新たな命として生まれ変わることだ。願わくば、せめて人間でありたい。
「というわけで、お前は今から輪廻の輪に導かれ生まれ変わる。どこの誰になるか、それは私にも分からんので野暮なことは聞くな」
ナラクが、玉座の肘掛けに掘られたディティールの赤い宝石を押す。それをトリガーとして、足元に波紋が浮かび上がっている。先程まで立ち尽くしていた地は姿を消し、死した生前のままの身体は海よりも濃い蒼に落ちていった。
「……やっべ生前の記憶消すの忘れてた」
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